ぜんぶ、フィデルのせい2008/11/15 23:49

今日は家で休む。明日は入試。リハビリの日だが、そろそろ原稿を書かなくてはいけないので、少し焦ってきている。が、集中する気力が湧かないのは、やはり疲れが溜まっているせいか。

 が、何とか少しばかり原稿書き始める。笙野頼子論なのだが、ほぼ構想も出来ていて、学会のシンポジウムで発表したレジュメを肉付けしていく作業なので、余計に力が入らない。原稿を書き始めると、どんなに疲れていても、スイッチが入ってそれなりに集中できるものだが、そのためには面白いものを書いているという高揚感が必要だ。まだそこまでいっていない。

 笙野頼子は憑依そのものを小説の方法として意識化しようとしたユニークな作家である。言葉とか構想とか、無意識から飛び出たようにあえて投げ出して書く。新興宗教の教祖による神のことばのようなものだと考えればいいだろう。むろん、それはあくまで小説であって、そのように書く自分も登場させながら、神のことばを演じる小説の言葉を紡ぎ出すのである。なかなかユニークである。来年、私の所属する学会でシンポジウムに招く計画があるそうだ。打診したところ、今飼っている猫が病気でそれどころじゃないと断られたそうだ。こういう断り方もまたユニークである。

 夜、奥さんが借りてきたDVDをつい一緒に見てしまう。原稿書かなきゃならないのだが。「ぜんぶ、フィデルのせい」というフランス/イタリア映画(2006年)。フィデルとはカストロのこと。舞台は1970年のフランス。左翼運動に共鳴し活動に夢中になっていく夫婦を両親に持つ女の子が、戸惑いながらも、両親を冷ややかに眺めたり理解を示したりもしながら成長していくという物語。両親がかかわるのは左翼政権として誕生しクーデーターで倒れたチリのアジェンダ政権を支える活動である。

 キューバから亡命してきた家政婦が、お前の両親はコミュニストだ、これもフィデル・カストロのせいだと女の子に語る。「ぜんぶ、フィデルのせいなの」と女の子は返す。この言葉が原題になっている。

 左翼の両親は、私より上の世代の話だが、たぶんあんな風に私も振る舞っていた。見ていて滑稽で、思わず笑ってしまうのだが、恥ずかしいような、しょうがねえなあという感じでつい最後まで見てしまった。正義を信じてなりふり構わず振る舞うことが、こんなに滑稽に見えるということは、いったい何だろう、という思いだけが不思議に残る。

 自由に生きたいと叫ぶ女の子が、両親より大人に見える。けっこういい映画であった。

                         寒竹の子大人をじっと見つめてる

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