女子大2008/11/15 00:19

 今週、私が出た会議件数は10件です。一つの会議時間は30分から一時間なので、平均45分ということになるか。とすると計450分。7時間30分を会議に費やしていたことになる。これを多いと見るか少ないと見るか。少ないわけないよなあ。

 定例の会議が3件で、後はいわゆる各種委員会というもので不定期なもの。たぶん私の所属する学校で教員では私が一番会議に出ているのではないか。まあこれが仕事と言えば仕事だから仕方がない。

 今週の最後の会議は正課外講座に関する会議。私もこの正課外講座の教養講座で教えている。かつては学生だけの講座だったが、2年前から社会人にも開放している。地の利もあって現在では全体の3割が一般社会人の受講者であるということだ。大学の地域貢献という観点から、こういう取組は進めなければならないのだが、女子大ということもあって、一般の人を校舎内に入れるのは簡単にはいかないようだ。

 女性だけならいいが、社会人に開放する市民講座となると当然男性にも開放しなくてはならない。が、女子大では学外者の男性を中に入れるのはけっこう神経を使うのである。それは女性だって同じだという意見もあるのだが、やはり学外者のチェックは男性には厳しい。そういう事情もあり、女子大での市民講座というのは、共学の大学での市民講座のようには簡単にはいかないのである。

 私の万葉集の講座もおばさんばかり(失礼!若い人もいます)である。私などは別に女性ばかりの市民講座でもいいのではと思っている。女子大なのだから。

 女子大は大学の一つの個性である。女子大廃止論がかつてさかんに言われて、私どもの大学・短大でもそれを言う教員がいた。女子大の役割は終わったとか、女性の自立を妨げるとかいろいろ言われた。が、いつのまにかそういう声が聞かれなくなったのは、別に教育に性差が残ったというよりは、女子校というありかたも別に不自然ではないと皆が思ってきたからではないか。

 男女平等ならば、女子校があってもおかしくはない。男女平等なのだから絶対に共学にしろという理屈は変である。共学であろうと、男子校であろうと、女子校であろうと、それは学校の個性化であり競争原理に基づいた差別化である。みんな生き残りに必死なので、女子大であることが生き残れる条件なら、共学を女子大にする大学が出てきてもおかしくはないのである。女子大がだめだという声が高かったのは、共学の大学に競争で負けそうだったからである。が、どういうわけか女子大は案外に強かった。

 女子大が残る理由は、教育環境が共学よりいいからである。私はいろんな大学で教えてきたが、偏差値が高い共学の大学より、偏差値の低い女子大の学生の方が教えていて優秀だったし、教え甲斐があった。男の学生がいるとどうしても学問の場の雰囲気がかなり損なわれる。これは、男は学問に向かないと言っているのではない。少なくとも学問に無関心な層が女性より男に多いと言うことは言える。こんなコト勉強してもしょうがねえ、他にやることあるし、という態度のやつは女の子より男の子の方が圧倒的に多い。

 そういう男に引っぱられることのない女子大は、女の子らしい真面目さや、社会に出たときに直面する差別への危機意識からそれなりに勉強しようとする意欲を持っている。だから教育環境は共学の大学より良く感じるのである。たぶんそれが女子大が生き延びている一つの理由であると思う。

 私は今その女子大の競争力をいかに強くするか、考える立場にいる。だから会議が多くなる。一つ悟ったことは、会議が多いから競争力が強くなるなんてことはないということである。    

        神の旅女神たちは賑やかに

ぜんぶ、フィデルのせい2008/11/15 23:49

今日は家で休む。明日は入試。リハビリの日だが、そろそろ原稿を書かなくてはいけないので、少し焦ってきている。が、集中する気力が湧かないのは、やはり疲れが溜まっているせいか。

 が、何とか少しばかり原稿書き始める。笙野頼子論なのだが、ほぼ構想も出来ていて、学会のシンポジウムで発表したレジュメを肉付けしていく作業なので、余計に力が入らない。原稿を書き始めると、どんなに疲れていても、スイッチが入ってそれなりに集中できるものだが、そのためには面白いものを書いているという高揚感が必要だ。まだそこまでいっていない。

 笙野頼子は憑依そのものを小説の方法として意識化しようとしたユニークな作家である。言葉とか構想とか、無意識から飛び出たようにあえて投げ出して書く。新興宗教の教祖による神のことばのようなものだと考えればいいだろう。むろん、それはあくまで小説であって、そのように書く自分も登場させながら、神のことばを演じる小説の言葉を紡ぎ出すのである。なかなかユニークである。来年、私の所属する学会でシンポジウムに招く計画があるそうだ。打診したところ、今飼っている猫が病気でそれどころじゃないと断られたそうだ。こういう断り方もまたユニークである。

 夜、奥さんが借りてきたDVDをつい一緒に見てしまう。原稿書かなきゃならないのだが。「ぜんぶ、フィデルのせい」というフランス/イタリア映画(2006年)。フィデルとはカストロのこと。舞台は1970年のフランス。左翼運動に共鳴し活動に夢中になっていく夫婦を両親に持つ女の子が、戸惑いながらも、両親を冷ややかに眺めたり理解を示したりもしながら成長していくという物語。両親がかかわるのは左翼政権として誕生しクーデーターで倒れたチリのアジェンダ政権を支える活動である。

 キューバから亡命してきた家政婦が、お前の両親はコミュニストだ、これもフィデル・カストロのせいだと女の子に語る。「ぜんぶ、フィデルのせいなの」と女の子は返す。この言葉が原題になっている。

 左翼の両親は、私より上の世代の話だが、たぶんあんな風に私も振る舞っていた。見ていて滑稽で、思わず笑ってしまうのだが、恥ずかしいような、しょうがねえなあという感じでつい最後まで見てしまった。正義を信じてなりふり構わず振る舞うことが、こんなに滑稽に見えるということは、いったい何だろう、という思いだけが不思議に残る。

 自由に生きたいと叫ぶ女の子が、両親より大人に見える。けっこういい映画であった。

                         寒竹の子大人をじっと見つめてる