歌の議論で盛り上がる2007/06/03 02:15

 古代の学会シンポジウムで、ひさしぶりにKさんと会う。元気そうである。今日のテーマは「言葉と性」。Kさんの「手枕くら」の歌についての発表はなかなか面白かった。特に、万葉の女の歌が、かなり官能的な表現であり、それが突出していることは確かにそうである。

個人的にはそれが何故か、ということに興味が引かれた。それは女性の歌であるということにもかかわるだろうが、表現の論理として何故か、ということが問われるだろう。単純に性差に還元できないとも思える。

 私は、官能的な「手枕くら」の歌の表現は、結局は、相手の不在を前提にすることで初めて成立すると考えている。そうでなければ官能的に歌う理由がない。それ以上官能的だとポルノになって危ないという規範があるときには、官能的に表現する理由がある。が、万葉の歌でそれがあるとは思われない。むしろ、万葉の表現にほとんど官能的な表現がないのは何故か、という論理を見つけることが大事だろう。

 恥ずかしいというのは当然あるだろう。少数民族の歌垣などでは、性的な比喩はたくさん出てくるが、官能的な表現が歌われることはない。理由は、相手が目の前にいるので恥ずかしいからだ。目の前の異性に「おまえと寝たい」と呼びかけることは恥ずかしくはないが、共寝の快楽を表現することは恥ずかしい。それは、当然恋の禁忌性ともかかわるだろう。「恥」は内なる姿を外から見られる時の反応であるから、官能的表現じたいは、さらされてはならないものをさらしている意識だということができる。

 一方、官能的というのは、共寝それ自体の快楽を想像的に生起する表現であるから、それは「飽くことのない」充足性である。本来恋歌とは、ほとんどが充足していない今の状態をうたうものである。とすれば、恋歌で充足性そのものを歌う必然性はないということにもなる。

 つまり、万葉の歌に官能的な表現がないのはそれなりに理由があるということだが、それなのに、女の「手枕くら」の歌に何故官能的な表現が、明らかに他の歌とは違うように現れたのか。

 結局、充足していない(相手は必ず不在になる)、という今の状況を「充足している」共寝の快楽のイメージを喚起させることで逆に強調するということではないか。が、そうであるなら、こういう歌の表現はもっとたくさんあっていいように思える。何故、希なのか。よくわからない。

 案外、万葉集を、意識的にこのような官能的な表現があるかどうかと見ていくとそれほど希では無いのかもしれない。独り寝という状況を分かり易く歌う多くの「手枕くら」の歌は、ある意味では「独り寝の悲しみ」に予定調和的に支配されている。が、官能的な表現が入ると、その予定調和が崩される。だから、そういう歌は少ないのだということかも知れない。が、だから、面白い歌であるのだ。

 もう一人の発表は、官人の恋は歌においては隠蔽されている。実は、それゆえに、家郷の妻との相聞が発達するのであり、家郷との妻との恋歌のやりとりは、結果的に王権を保証する制度的なものである。、というもので、この論理自体はなるほどとおもうが、疑問もないわけではない。

 問題は、この論の前提に制度に制約されない恋歌があるのだという前提が立てられていることだ。万葉はそれを隠蔽しているという論理だが、そんな恋歌などあるのだろうか。いったい恋歌とは何なのか。万葉の歌人が恋歌を歌う必然性とは何なのか。この発表はそこが曖昧。歌垣的な恋愛をそのまま想定しているのだろうが、万葉の恋歌は歌垣とは違う。

 発表では、官人も(異性愛としての)恋をするが、それが万葉に恋歌らしい恋歌として現れないのは制度として隠蔽されているからだ、だから、交友の交わりのようなホモソーシャル的文人同士の愛が成立する、という論理になるが、それなら、隠蔽されない恋歌とはどういうものなのか、本当にそんなものがあるのか、それが語られない以上、歌の問題としては不満が残った。

 毎月のことだが、このシンポジウムはけっこう面白いと思う。シンポジウムが終わって、神保町のビヤホールで歓談。また歌の論議で盛り上がった。   

       六月の歌の議論やビヤホール

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