ちょいワルおやじにはなれないが…2007/06/20 23:59

 先週の日曜に癌の友人を見舞ったが、彼が吉野家の牛丼が食いたくなって高田馬場の吉野家まで食べに行ったと話していた。実は、彼はほとんど体力がなく、近くのコンビニにいくのもやっとという調子である。彼が住んでいるのは玉川上水だから、高田馬場は近くはない。何で高田馬場の吉野屋なんだと聞いたら、そこしか思いつかなかったという。

 考えてみればかなりの遠出で、大変な思いをしていったわけだが、全部食べきれなかったと残念そうに語っていた。でも、いい運動になったし、そういうように動けば体力もつく。やはり動かなくてはだめである。結局、身体を動かすための最大の動機は欲望なのだ。私は食通でもないし、食に執着がないので何処何処の何が食べたいなどと一度も思ったことがない。だから、私が末期癌だったら絶対にそんな欲望は起きないだろう。結果、すぐに死ぬだろう。

 過剰な欲望は身を滅ぼすが、適度な欲望は必要なのだ。だが、この歳になると欲望というものに縁遠くなるし、楽に生きたいと思うから自然に欲望に対して抑制的になる。が、その結果、鬱になることがある。中高年になってよく鬱状態になるものがいるが、よくわかる気がする。欲望が少なくなっているのに、過剰なほどの仕事をこなさなきゃいけないのだ。欲望があってこそ、アドレナリンが効いて仕事をこなそうというものだ。しかし、欲望に抑制的に生きていたら、過剰な仕事量は、生きていることの楽しさを根底から奪う。中高年の自殺が多いのはそういうところから来ているのだろう。

 ちょいワルおやじが流行るのは、枯れかけている欲望をいかに回復させるかという、切ない試みである。むろん、そうやって消費させて儲けようとする企業の戦略があるのだとしても、まあ、鬱で暗くなるよりは、恥を捨ててちょいワルな格好をする方がましであろう。私には無理だが。

 心の問題を抱えている学生を見ていて思うのは、最初から欲望に抑制的だと見えることだ。それは欲望がないということではない。欲望の実現への自信が無く、抑制することで欲望が実現されないときのショックを回避しようとしている、ということだろう。だとしたら鬱になるのに決まっている。

 教員の仕事とは、実は、学生の欲望に実現への夢を与え、実現するためのプロセスを教えてあげることでもあるのだが、何せ、こっちがときどき鬱なものだから、そんなふうには上手くはいかないのだ。私はいつも暗い顔で教室に入っていくが、しゃべり出すと楽しそうにふるまうようにしている。仕事は楽しくやるのがモットーである。あんまり欲望はなくなったけれども、それでも明るく仕事はしているよ、という姿を見れば、学生だって少しは元気になるだろう。そう思っている。

    夏草の萎えたるごとく座りたり