コーハ的感想2006/11/30 01:01

 いつも水曜は車なのだが、奥さんが車を使うというので電車通勤。途中で座れたとはいえ帰りはさすがに疲れた。

 通勤時間で本を読むようにしてはいるが、立っている時はそうもいかずだいたい週刊誌を読む。ほぼ毎週読むのは「週刊朝日」「アエラ」「ニューズウィーク日本版」である。朝日系に偏っているのは、別段理由があるわけじゃないが、まあ比較的心地よく読めるからだ。別に朝日的リベラル知識人というわけではない。芸能関係とかスポーツ関係とかはあまり得意じゃないので。どちらかと言えば硬派ということか。そういえば今週のアエラに最近「コーハ」が流行っているという記事が出ていた。硬派だろ、カタカナで書くな!と硬派は嘆くだろうが、まあ悪いことじゃない。

 そこでコーハ的感想。「美しい国」という情緒的な言葉を国家の長が乱発することに対して、国家が論理でなく呪術的とも言える情緒的な言い方によって動かされることは危険だというリベラル派からの批判がある。その批判はよくわかるがあまり目くじらを立てることもないという気もする。

 実は、情緒的な言葉それ自体が危険なのではなくて、その言葉が論理によってある強い意味に変換されてしまうこと自体が危険なのである。近代日本は政治や教育の場で様々な情緒的なあるいは呪術的な言葉を生み出したが、それを、作り、利用したのは、西欧的な論理を身につけた政治家や官僚達である。そこを間違ってはいけない。

 「情」が論理に利用されずに暴走するなんてことはない。安倍総理にはあまり論理の強い力を感じない。むしろ彼自身「情」に弱い面を持っているようだ。この間の右往左往ぶりを見ているとそう感じる。今日本は「情」を論理によって暴走させる条件を持っていない。その意味で「美しい国」にあんまり不安がる必要はないだろう。

 むしろ、情緒的で呪術的な言葉は常にあらわれるしそれが必要な場合があるということだ。それを知ることも必要だ。そして「情」のない論理だけの政治もまた危険であることを知ることだろう。

 ついでに文学の問題として語れば、「抒情」のない文学もまたあり得ないということである。

 ついでに言うと和歌の「抒情」を論理によって強い意味に変換しようとしたのは近世の国学者達である。清水正之『国学の他者像』は彼等がいかに和歌的情緒から論理を紡ぎ出そうとしたかがよく描かれている。これはいい本です。

   目貼りせし隙間吹き抜く論理あり