黄葉の過ぎる知らせ2009/12/05 16:49

 今週はあいも変わらずというところだが、いろいろあった。原稿を書く仕事は一休みで来週からということになる。今週は授業に全力といったところだ。卒業レポートを課題にしているゼミでは、添削をしている最中だが、大丈夫かなと多少不安になってきている。とにかく、教師ががんばれるところはがんばらねば。

 金曜日に歯医者。麻酔が好きな歯医者で、静脈に点滴する麻酔で二時間ほど寝ている間に治療。ただ、次の日に治療した歯が痛み、また治療したところとは別のブリッジが外れ、最悪に。今日治療に行ったら、元の歯が駄目になっている。奥歯だが、入れ歯にするか、インプラントにするか、選択を迫られる。入れ歯だとサ音とツ音の発音があまり出なくなるからもしゃべる職業の人には良くないなどと言う。つまり、インプラントしかないということだ。またかなりの費用がかかる、ということだ。私の場合、すでにインプラントは三本入っている。あと二本近々入れることになりそうだ。歳とともにだんだん歯が駄目になってきた、ということである。慎重を期すために、あごの骨の精巧なレントゲンをとるので医科歯科大に予約をいれとくと言われた。

 金曜の夜は、マンションの忘年会。新規入居組が二部屋いたのでその歓迎会をかねる。が、みもなさんいそがしそうなので、全員はそろわず、でも、17人ほど来た。15戸のうちの8戸はそろったろうか。マンションの入り口に白板があって、12月の金土日の表を書き、それぞれの家で、出られる日にちに○を入れる。一番多く○がついた日を忘年会とする。一番○がついたのが4日の金曜だったというわけである。その準備をしたのは、親睦係の我が家であった。

 住人同士の連絡やコミュニケーションはこの白板で行うことにしている。ゴミの出し方がわるければ、誰かが書き込み、だれかがすいませんと書く。庭の掃除をどうしようかと誰かが書けば、誰々さんにお願いして業者に頼んだらとか、公共スペースの電球が切れましたとか、とにかく、いろんな事が書かれていて、非常に大事な白板なのである。

 このマンションは成立30周年を迎え、当初からいるKさんが30年の歴史を振り返った資料をCDにして全戸に配った。それを見ると、住民が組合を作って共同で建てた日本最初のマンションということで、あちこちの雑誌で取り上げられていて、その記事には住民の写真や部屋の様子の記事が載っている。それがなかなかおもしろい。30年前はみんな若かった。音楽家、画家、建築家、大学の教員と様々な職業の人たちがいて、みんな団塊の世代だから、マンション建設の方針を巡って激論し、当初の参加者の半分以上のものが去って行ったという。最初にコーディネーターをやっていた人は、あまりに専横的だったので、みんなで追い出したという話も聞いた。

 崖地の林にたつ建物なので周囲の反対運動もあって、完成にこぎ着けるまでそれぞれの住民の苦労は大変だったらしい。が、結局、その苦労がコミュニティを強くしたということのようで、できた当初は、庭で毎週のようにバーベキューやら宴会をやっていたということだ。その伝統が今でも続いていて、春の花見や、秋のバーベキュー、年末の忘年会と、管理費から費用を出してイベントを行っているというわけである。15戸のそれぞれの部屋の大ききは同じだが、レイアウトは全部違う。住民が皆個性を発揮したためで、だから今でも同じ間取りの家はない。

 私は歯を治療したばかりであまり楽しくはなかったが、まだ会ったことのなかった下の階の音楽家の夫婦と挨拶ができたり、いろいろと自分の住むマンションを知る機会となった。

 友人のO君から喪中につき年賀を遠慮するの葉書がきた。当初別に気に止めなかったのだが、よく見ると差出人は奥さんで、亡くなったのは当人のO君である。これには驚いた。何の話も聞いていなかった。たまに会う程度なので元気にやっているだろうと思っていた。彼は詩多少自己破壊的なところのあるアル中気味の詩人である。最近は、演劇に熱中していた。劇団に参加して俳優をやっていたのである。

 けっこう優れた詩人でその詩は多くの詩人に評価もされていた。インターネットの検索で調べたところ、9月に、レストランで元暴力団に殴られそれが原因で死亡したという。殴った連中が店内でうるさくしていたので注意したら、殴られたらしい。60歳の会社員が死亡と新聞の記事に出ていたということだ。

 彼らしいと言えば彼らしい。たぶん酒も入っていたに違いない。彼とは、学生運動の時からのつきあいだからもう40年になる。繊細でとってもいい奴だったが、死ぬほど酒を飲み、ある時期めちゃくちゃな生き方をしていた。ある意味で無頼派だった。もう誰かの訃報には会わないだろうと思っていたのに。まさか彼の訃報に出会うとは。万葉集では、死者の知らせを黄葉の過ぎると言い、玉梓の使いが運んでくる。まさかこんな形で知らせを受け取るとは。冥福を祈るばかりである。

                      黄葉の過ぎる知らせや烏鳴く

日本人は何故さようならなのか2009/12/13 00:57

 木曜から奥さんが友人たちと香港マカオの格安ツァーにいってしまったものだから、私はチビとの二人だけの生活である。金曜に歯医者に行き手術みたいな治療を行った。実は、一週間前に、虫歯の治療で歯の根の部分に詰め物をしたのだが、それがうまくいかなかったようで、痛み出した。それで、金曜に詰めた物をとったのだが、それでも直らず、歯肉の部分を横から切開して直接歯の根を削るという方法をとった。そのため四時間かかった。

 新しく開発されたという合成樹脂の詰め物を入れたのだが、それが合わなかったようだ。歯医者のミスであるが、それを責めても仕方がない。今のところは、早く痛み出したところを治してもらうしかない。久しぶりに歯の痛みにさいなまれた日々となった。

 そういうわけで、体調も優れず、ブログを書く気になれない日々が続いている。元気なのはチビである。奥さんがいないから、歯の痛みを我慢しながら朝夕の散歩をしている。大雨の日も散歩である。雨の日の散歩はさすがに大変である。チビは雨の日が嫌いではない。どろどろになろうがずぶ濡れになろうがかまわない。家の中で飼っている身としては、家に帰ってからが大変なのである。

 今日は日文協の委員会。今日は家で仕事をしていたが、夕方チビの散歩を終えてから出かけた。来年は学科長でなくなるので、この学会の運営委員を引き受けたのである。委員会に行って何人か久しぶりの人に出会った。たまに行くと、ご無沙汰の人に出会える。またいろんな人と出会える。学会の楽しみはそういうところにもある。

 最近読んだ本でおもしろかったのはいずれも新書だが、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)、竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」というのか』(ちくま新書)。『日本辺境論』は、私の考えているようなことをほとんど理路整然と説明してくれるとてもありがたい本である。辺境性、というのをどう語るのかは、なかなか難しい。論じ方では、日本人のマイナスを指摘する自虐的な論になる。肯定的に語れば、偏狭なナショナリズムになる。この本は、辺境だからそうなっちゃうのだけど、でも、それはそれで悪くはないんじゃない、といったスタンスが絶妙である。

 何故「さようなら」というのか、というのは、あまり考えていなかった「さよなら」について目を開かされた。外国では、別れは、グッドラックとか、再見とか、未来の良い出会いや幸運を祈る言葉になっている。ところが、「さようなら」は、永遠の別れをも意味する言葉なのである。もともと「さようであるならば」という接続語であったのが、自立した言い方である。この「さようであるならば」とは。ほとんど死の場合に使われる。「さようであるならば」死ぬことも「仕方がない」といったように用いられる。

 何故、日本人の別れはこんなにも寂しい言葉なのだろうか。寂しいからこそ世界一美しい言葉だという外国人の感想も紹介されているが、はかなさへの鋭敏な感覚がそこにはあるようだ。つまり一期一会ではないが、人との出会いを考えるとき、現在という時間を価値として、過去や未来にふくらまないのだ。

 現在の向こうは未来ではなく死である、という刷り込まれたような感覚、といったらいいか。どうも「さようなら」にはそのような日本人の生来の感性があるように思える。ただ、今、日常的には、「じゃあ」とか「またね」と言うのが普通だろうが、それでも「さようなら」という感覚はまだ失っていないのではないか。

                     冬の朝さようならとたちにけり

恒例の餅つき2009/12/21 00:55

 今日は、北川辺の友人宅での恒例の餅つき。友人は塾を経営していて、その塾の生徒とこの時期餅つきをするので、われわれも手伝いに行って帰りにおお餅をもらってくる。今年は、小さな子供が多かった。S夫婦が三人の子供を連れて参加。狭山の友人が三人の孫を連れて参加。近所の子供たちもいれるとどういうわけか幼子が多くて、ここだけは少子化とは縁のない地域だった。

 彼の塾もなかなか生徒が集まらなくて困っているそうだ。テレビでは家庭教師のプロを派遣しますとか、というように、今は小さな私塾よりはそのような全国展開の塾や予備校が激しい競争をしていて、地域に根ざした個人塾はどこも苦戦している。最近の勉強は、脳をいかに効率的に使うか、というようなものばかりで、彼の塾のような人と人との触れあいの上に成り立つ教育というものが顧みられない。そこが、同じ教育に関わるものとしても、悲しいところである。

 昨日(土)は研究会で忘年会。その前日(金)は課外講座の人たちに招かれての忘年会。水曜は、日文協の運営委員会でその後懇親会。いやはや、飲み会やらいろいろと続く週であった。

 土曜の昼に原稿20枚を書いて出版社に送る。文芸誌『月光』の原稿だが、金曜の夜から土曜の昼まで何とか仕上げる。雲南の文化論を連載で書いているのだが、今回は首狩りの文化論といったテーマで、扱うテーマはこれまで書いた事のあるもので目新しさはないものの、ワ族の首狩りという習俗を文化論として考えてみようという試みである。

 正月を終えると、古事記の原稿の締め切りがある。だから、これからその原稿に向けての勉強である。大山誠一氏からいただいた『天孫降臨の夢』(NHKブックス)を読了。彼は10年前に聖徳太子捏造説を唱えた歴史研究者だが、さすがにその説も浸透してきて、今では学校の歴史教科書では聖徳太子が実在したというようには載っていないということだ。

 この本ではさらにエスカレートして、推古天皇の実在していない、蘇我氏が大王であったとか、天孫降臨神話は藤原不比等によって構想された神話である、と説かれている。あり得ない話ではないが、まだ推測が多く細かなところは省かれているので、これからどのように証明していくのか楽しみである。

 土曜の研究会の後の忘年会で、K氏から健康に気をつけて長生きしなくてはけいないときつく諭される。私がいつも疲れ果てたような顔をしているのと、健康を維持することに全力でないことへの苦言である。それなりの努力をしているのだが、効果があらわれないと言うと、プロの指導を受けて計画的にやらないとだめだと叱られた。

 ここ数年、学科長で忙しいということもあったが、人に対してあまり元気な態度を見せていないことや、鬱々とした生来の傾向などが顕著であったので、心配したのであろう。まあ私なりに努力はしているのだが…

                       年の暮れ波瀾万丈でないけれど

古事記をどう読むか2009/12/27 22:11

 昨日から山小屋に来ている。こちらに来るまでは、とにかくやるべき事を済ませないとということで、ほんとに忙しかった。おまけに風邪を引いた。疲れが出たのだろう。休みに入ると風邪を引くというのは恒例だが、今年も繰り返した。ただ、幸い三日ほどで何とか回復。

 一ヶ月ぶりだが、かなり寒い。雪も降った。ただ、八ヶ岳はよく見える。この風景を楽しみながら、私は仕事である。今回は年明けの六日か七日までいる予定なので、仕事の資料などをかなり持ってきた。古事記関係の本と、基礎ゼミテキスト関係のものなどである。

 どういうわけか年明けそうそう締め切りで古事記神話の編纂者について文章を頼まれた。古事記偽書説や序文の偽書説について文章を書けということのようだ。何でこの私がと戸惑ったが、要するに古事記についてまだ色がついていない研究者ということで、依頼が来たようだ。三浦之編『古事記を読む』(吉川弘文館)で、ヤマトタケルについて書いたので、その関連らしい。

 古事記偽書説はないとしても、序文偽書説は簡単には決着が付かない。最近三浦さんが強固に主張しているということもあって、これをどう考えるか、ということになるだろう。この問題には、日本書紀の編纂が国家事業としてすすめられているのに、何故、同時期に古事記を作ったのか、という疑問に誰も明解に答えられていないということにある。

 古事記は天武の皇統を高天原の神から一貫した血筋としてたどるものである。一方、日本書紀は必ずしもそうではなく、呉哲男によれば王朝交替も可能であるかのような書き方になっているという。何故なら中国の歴史の思想がそうだからで、それを模倣した日本書紀はそうならざるを得ないからである。

 そこで、当然、日本書紀では当時の天武王権にとって不満であるから、天武の私的な歴史書として古事記が作られたという見解になる。だいたい現在のところこんなふうな説明が主流である。

 が三浦さんは、それにしては、古事記には王権をはみ出す神や英雄の物語が多く、また古事記のみに出雲神話が差し挟まれる理由は説明されないという。古事記は、王権とは距離を置いたところで語りとして伝わった伝承を中心にまとめたもので、九世紀初めにそれでは具合がわるいので権威付けに序文をねつ造した、というのである。

 この間の週刊朝日に、最近の歴史は面白いという特集があって、すでに古事記の序文は偽物であるというのは定説になっている、という記事が出ていた。思わず、いやまだ定説では… と突っ込みを入れたが、さすが三浦さんの影響力はすごいと感心した。

 さて、私は、よくわらないという立場である。どっちの立場をとってもそれほどの根拠があるわけではない。ただ、今まで序文を偽物であるという立場をとってきてなかった、というより、そういうことを考えたことはなかった、者としては、今回このことを考えるきっかけになったことはよかったと思っている。

 私が興味を抱くのは、古事記の文学性である。文学性という言い方はこちら側からの評価だが、少なくとも現代のわたしたちにそういう評価を与えるのは何故か、という疑問は、たぶん、古事記の文学研究者が答えなければならない問であろう。古事記を天皇の私的な歴史書とみなすのはそれはそれで日本書紀との違いはわかるとしても、それなら、私的ということは表現にどういう内実(自己表出性)を持つものなのか。そこまで説明しえないと、つまらないのである。

 これはわたしがヤマトタケル論を書いたときに抱いた問いである。歴史や制度論の側で古事記は確かにどのようにも性格づけられよう。だが、古事記という書物が持つ、物語性や抒情性といったものの由来を、どう説明するかは、天皇の後宮のために作られた読み物説、あるいは、語りものとする三浦説以外には、あまりないのである。

 それを解き明かしたいというのがわたしの古事記へのスタンスだが、そのスタンスから古事記の編纂の問題をどう語るのか、というのが、わたしの原稿の趣旨ということになろうか。 

    樹々眠る山眠る頃思案せり

信州の冬は厳しい2009/12/30 23:52

 信州の冬はさすがに寒い。山小屋では灯油のストーブと薪ストーブを二つ使っているが、二日前灯油ストーブの外側のタンクを大きめのやつに取り替えた。タンクから管を通って灯油がストーブまで給油される仕組みだが、タンクをやや低めのところに設置したために、灯油がストーブのところまで流れてこない。圧力が弱いのでストーブまでこないというのだ。灯油のタンクを満タンにして圧力を強くしないとだめだという。が、その日は灯油を給油に来てくれない。結局その日は、灯油のストーブはだめで、薪ストーブだけになったが、朝方、薪が消えてしまうとさすがに冷えた。

 この山小屋を建ててくれた大工のMさんがベランダを見に来た。まあ、全面的な修理でなくても、一部分補強して修理すればなんとかなるということである。それほど修理費がかかりそうになくてほっとしたところである。厳しい自然環境の中に無理矢理家を建てているのだから、すぐにあちこちだめになる。板壁などは、キツツキがつついてところどころ穴が開いて断熱材が飛び出している。見つけては板を打ち付けて穴をふさいでいる。

 平安時代の物語に、人の住んでいなさそうな荒れ果てた屋敷がよく出て来るが、その感じがよくわかる。今は新建材でできているのでそう簡単に自然の力に屈しない。が、かつては、雨風や動物、植物の力で家などはすぐに壊れ朽ちてしまうことだろう。この山小屋のようにである。

 むろん自然の中に住めばいいこともある。ベランダの手すりにひまわりの種をまいておくと、四十雀、五十雀、山雀などの野鳥が食べに来る。背景は八ヶ岳である。この風景を見ると、厳しい自然というのは、粋な景色を用意してくれるものだと感心する。

 二日前に奥さんが散歩の途中凍った雪道で転倒。手をついたのがよくなく、手首が動かなくなった。すぐに病院へ。幸い骨折はしていなかったが、ねんざか打撲ということでしばらく片手が使えない状態に。それにしても危ない。うちの奥さんはよく転ぶのだ。今日あたり何とか動くようになったが、これも、厳しい自然の中にいると起きることの一つである。

 古事記関係の資料を拾い読みしつつ、竹内誠一『かなしみの哲学』(NHKブックス)を読了。それから併行しても鷲田清一『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』を読んでいる。両書ともある意味でよく似ている本だ。「かなしみ」は日本人が共通して持つ精神文化と言っていいだろうが、これを他者の悲しみを悲しみと感じる感覚、とみなす。共悲感覚とも言う。鷲田清一も、やはり他者の声を聴く(臨床的に)行為は、他者の傷みを傷むことだと言う。つまり、他者との関係というものは、ある超越的な場所から差配されるものでもなく、適度な距離や役割によって円滑化されるものでもない。他者との関係は本質的に傷みをともなうものであり、だからこそ、それは常に自他を変える契機となると言う。

 私はかつて「臨床批評」という文章を書いたことがある。心の病と評するしかない歌人の歌をどう評価するのか、といったとき、それは臨床的にならざるをえないのではないかと論じた。臨床的とは、竹内誠一や鷲田清一が言っているように、評する相手の傷みをこちら側の傷みとして読むこと、受け入れること、聴くことである。こう考えたとき、文学批評や、あるいは研究というものの方法が、かなり変わらざるを得ないことに気づく。いいかえれば、現在の文学批評や研究のつまらなさ、リアリティの欠如もそういったところにある気がするのである。

                       生きものの傷み悲しみ年の暮れ