信州の冬は厳しい2009/12/30 23:52

 信州の冬はさすがに寒い。山小屋では灯油のストーブと薪ストーブを二つ使っているが、二日前灯油ストーブの外側のタンクを大きめのやつに取り替えた。タンクから管を通って灯油がストーブまで給油される仕組みだが、タンクをやや低めのところに設置したために、灯油がストーブのところまで流れてこない。圧力が弱いのでストーブまでこないというのだ。灯油のタンクを満タンにして圧力を強くしないとだめだという。が、その日は灯油を給油に来てくれない。結局その日は、灯油のストーブはだめで、薪ストーブだけになったが、朝方、薪が消えてしまうとさすがに冷えた。

 この山小屋を建ててくれた大工のMさんがベランダを見に来た。まあ、全面的な修理でなくても、一部分補強して修理すればなんとかなるということである。それほど修理費がかかりそうになくてほっとしたところである。厳しい自然環境の中に無理矢理家を建てているのだから、すぐにあちこちだめになる。板壁などは、キツツキがつついてところどころ穴が開いて断熱材が飛び出している。見つけては板を打ち付けて穴をふさいでいる。

 平安時代の物語に、人の住んでいなさそうな荒れ果てた屋敷がよく出て来るが、その感じがよくわかる。今は新建材でできているのでそう簡単に自然の力に屈しない。が、かつては、雨風や動物、植物の力で家などはすぐに壊れ朽ちてしまうことだろう。この山小屋のようにである。

 むろん自然の中に住めばいいこともある。ベランダの手すりにひまわりの種をまいておくと、四十雀、五十雀、山雀などの野鳥が食べに来る。背景は八ヶ岳である。この風景を見ると、厳しい自然というのは、粋な景色を用意してくれるものだと感心する。

 二日前に奥さんが散歩の途中凍った雪道で転倒。手をついたのがよくなく、手首が動かなくなった。すぐに病院へ。幸い骨折はしていなかったが、ねんざか打撲ということでしばらく片手が使えない状態に。それにしても危ない。うちの奥さんはよく転ぶのだ。今日あたり何とか動くようになったが、これも、厳しい自然の中にいると起きることの一つである。

 古事記関係の資料を拾い読みしつつ、竹内誠一『かなしみの哲学』(NHKブックス)を読了。それから併行しても鷲田清一『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』を読んでいる。両書ともある意味でよく似ている本だ。「かなしみ」は日本人が共通して持つ精神文化と言っていいだろうが、これを他者の悲しみを悲しみと感じる感覚、とみなす。共悲感覚とも言う。鷲田清一も、やはり他者の声を聴く(臨床的に)行為は、他者の傷みを傷むことだと言う。つまり、他者との関係というものは、ある超越的な場所から差配されるものでもなく、適度な距離や役割によって円滑化されるものでもない。他者との関係は本質的に傷みをともなうものであり、だからこそ、それは常に自他を変える契機となると言う。

 私はかつて「臨床批評」という文章を書いたことがある。心の病と評するしかない歌人の歌をどう評価するのか、といったとき、それは臨床的にならざるをえないのではないかと論じた。臨床的とは、竹内誠一や鷲田清一が言っているように、評する相手の傷みをこちら側の傷みとして読むこと、受け入れること、聴くことである。こう考えたとき、文学批評や、あるいは研究というものの方法が、かなり変わらざるを得ないことに気づく。いいかえれば、現在の文学批評や研究のつまらなさ、リアリティの欠如もそういったところにある気がするのである。

                       生きものの傷み悲しみ年の暮れ