日本人は何故さようならなのか2009/12/13 00:57

 木曜から奥さんが友人たちと香港マカオの格安ツァーにいってしまったものだから、私はチビとの二人だけの生活である。金曜に歯医者に行き手術みたいな治療を行った。実は、一週間前に、虫歯の治療で歯の根の部分に詰め物をしたのだが、それがうまくいかなかったようで、痛み出した。それで、金曜に詰めた物をとったのだが、それでも直らず、歯肉の部分を横から切開して直接歯の根を削るという方法をとった。そのため四時間かかった。

 新しく開発されたという合成樹脂の詰め物を入れたのだが、それが合わなかったようだ。歯医者のミスであるが、それを責めても仕方がない。今のところは、早く痛み出したところを治してもらうしかない。久しぶりに歯の痛みにさいなまれた日々となった。

 そういうわけで、体調も優れず、ブログを書く気になれない日々が続いている。元気なのはチビである。奥さんがいないから、歯の痛みを我慢しながら朝夕の散歩をしている。大雨の日も散歩である。雨の日の散歩はさすがに大変である。チビは雨の日が嫌いではない。どろどろになろうがずぶ濡れになろうがかまわない。家の中で飼っている身としては、家に帰ってからが大変なのである。

 今日は日文協の委員会。今日は家で仕事をしていたが、夕方チビの散歩を終えてから出かけた。来年は学科長でなくなるので、この学会の運営委員を引き受けたのである。委員会に行って何人か久しぶりの人に出会った。たまに行くと、ご無沙汰の人に出会える。またいろんな人と出会える。学会の楽しみはそういうところにもある。

 最近読んだ本でおもしろかったのはいずれも新書だが、内田樹『日本辺境論』(新潮新書)、竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」というのか』(ちくま新書)。『日本辺境論』は、私の考えているようなことをほとんど理路整然と説明してくれるとてもありがたい本である。辺境性、というのをどう語るのかは、なかなか難しい。論じ方では、日本人のマイナスを指摘する自虐的な論になる。肯定的に語れば、偏狭なナショナリズムになる。この本は、辺境だからそうなっちゃうのだけど、でも、それはそれで悪くはないんじゃない、といったスタンスが絶妙である。

 何故「さようなら」というのか、というのは、あまり考えていなかった「さよなら」について目を開かされた。外国では、別れは、グッドラックとか、再見とか、未来の良い出会いや幸運を祈る言葉になっている。ところが、「さようなら」は、永遠の別れをも意味する言葉なのである。もともと「さようであるならば」という接続語であったのが、自立した言い方である。この「さようであるならば」とは。ほとんど死の場合に使われる。「さようであるならば」死ぬことも「仕方がない」といったように用いられる。

 何故、日本人の別れはこんなにも寂しい言葉なのだろうか。寂しいからこそ世界一美しい言葉だという外国人の感想も紹介されているが、はかなさへの鋭敏な感覚がそこにはあるようだ。つまり一期一会ではないが、人との出会いを考えるとき、現在という時間を価値として、過去や未来にふくらまないのだ。

 現在の向こうは未来ではなく死である、という刷り込まれたような感覚、といったらいいか。どうも「さようなら」にはそのような日本人の生来の感性があるように思える。ただ、今、日常的には、「じゃあ」とか「またね」と言うのが普通だろうが、それでも「さようなら」という感覚はまだ失っていないのではないか。

                     冬の朝さようならとたちにけり