晴れやかな顔になれれば…2009/11/01 13:41

 今日は久しぶりの休日、ゆっくりとチビとの散歩。近くの公園では、紅葉になりかかっていて、落ち葉も捕り敷き始めていて、気分よく散歩できた。チビは時々散歩のコースが気に入らないとてこでも動かなくなる。写真はそういうときの抵抗の姿。

 考えてみれば、ここ二週間近く休みがなかった。24日、25日の土日は学会大会と研究会。今週も昨日の土曜は研究会。土日は、ほんとに学会や研究会ばかりで、平日は毎日会議と授業。明日は授業。明後日休んだら、11月の土日は、推薦入試ややはり研究会や学会で全部潰れる。休日の11月23日も授業である。しばらく山小屋に行ってないが、この調子じゃ年末までいけそうにもない。

 60歳というのは、かつてなら定年退職の年齢である。ところが、これからやらなきゃならない仕事が山積している。この歳になって、まだ自分の研究の成果らしきものをまとめていないと思っているので、もうそろそろそういう仕事をしなきゃならんだろうとは思っている。そのためには、学校の雑務やら学会の雑務やらを何とか少なくして、といきたいものだが、増えるばかりでなかなか減らせない。

 出身校の大学の二部が廃されたということもあって、記念文集を作りたいのでということで原稿を頼まれていたのだが、それをようやく昨日送った。15枚ほどの短い文章だが、私の二度目の学生時代(一度目は学生運動の時代)で、勤労学生としてほんとに懸命に勉強した頃の想い出を書いた。書きながらあの時代の頃が懐かしくなった。

 当時植木関係の農協に勤めていて、5時に終わると大学の二部に通った。その四年間はたぶん一番勉強した時代だっただろう。28歳の時に入ったのだが、自分で稼いだ金で、最初から勉強するつもりで入ったわけだから、寝る間を惜しんで勉強していた気がする。

 もっとも私の場合学生運動でいろいろ引きずるものがあったから、そういう重たい物を忘れたいという意味合いもあった。つまり、物書きとか、研究者になろうなどという気持ちはなく、ただ、何かを懸命にやっていることで、他のことをなるべく考えないようにしていたということだ。     

 おかげで研究者になってしまったものだから、それなりに何か遺さないとまずいなとは思う。そろそろエゴイストになって自分の仕事のこと以外は何もしないぞ、という気概が必要なのだが、一番苦手なところである。お願いだから、私に余分な事を頼まないで欲しいとひたすら周囲にお願いするしかない。

 柳田国男が、敗戦の昭和20年8月15日に、いよいよ働かなければならぬ時が来たと日記に書いたとき、確か70歳である。『海上の道』を本にしたのが亡くなる2年前で86歳。70歳でさあこれから私が頑張らないとだめなんだと宣言するその気力がすごい。特別な人だとは思うが、やはりその生き方というか気力の問題であるようだ。

 年を取って元気な学者や思想家はとにかく自信に満ちあふれている。自分のやっていることは、世のため人のためになる優れた仕事であるという自信である。他人の批判などにびくともしない自信でもある。良い意味での自己中心性である。自分の名誉のために生きることは自信につながらないし元気にもならない。とにかく、ただ長生きするために生きているのではなく、世のため人のために生きているのだという確固たる自信がないと長生きも出来ないということだろう。私にそういう生き方は出来そうにない。世のため人のために生きたいのはやまやまではあるが、ただ、自信はあまりないからだ。

 かつて沖縄に祭りを見に行ったとき、村の祭事を担うお婆さんたちの元気さや、その表情の晴れやかさをとてもうらやましく感じたことがある。かなりの高齢でも、村の中で大事な役割を与えられている。自分に自信があるというのではなく、生きていることに疑いがないのだ。家族の中で、あるいは、共同体の中でのしっかりとした役割があって、そのことへの疑いがないのだと言ってもいいだろう。

 あのお婆さんたちがいた沖縄の共同体は、今の日本の社会には存在しない。誰もが生きることに疑うことを当然としている社会になってしまっている。その中で自信を持つということは、厳しい競争を生き抜いてきたという勝者の自信でもあろう。それはそれで大事なのだとしても、あの沖縄のお婆さんたちの晴れやかさとは違う。

 柳田国男のようにはとても生きられないが、少なくとも、晴れやかな顔が出来るようには生きてみたいものである。難しいことだとは思うが、せめてそれくらいなら何とか実現出来そうである。

誇らしげな偶像木枯らしは吹く

ピンクのダイソン2009/11/10 00:58

 先週の金曜に奥さんと池袋の山田電機に行ってみた。奥さんは、ダイソンの掃除機を見に、私はパソコンを見にである。さすがに新装開店ということですごい人である。ダイソンの掃除機は、安かった。何と5万を切っていた。あまりにやすいので理由を聞くと、何とかキャンペーン仕様の製品で、モーターの上の部分があろうことかピンクなのである。この色はちょっと…、とさすがに奥さんも引いたが、しかし、5万を切る価格(普通なら6~7万円)には逆らえず買ってしまった。

 私は、家のパソコンのあまりの遅さに最近いらいらし始めていたので、最新のウインドウズ7に買い換えることにした。いま、家には、ピンクのダイソンと、まだ箱を開けていないパソコンがある。忙しくて、パソコンの箱を開ける暇がないのだ。

 日曜は一日原稿書き。奈良の万葉古代研究所に出す原稿に追われていて、ブログを書くどころではない。私の場合、一日机に向かっているわけではなく、それなりに日常を過ごして、原稿書きに入る。そうしないと原稿を書く気分を作れない。よほど切羽詰まったときは別として、あまり極端に追い込まないようにしながら、毎日少しずつ自分を追い込む形で仕事をしている。ブログを書くのは、この原稿書きの態勢をとってからなので、原稿を書く仕事があるときは、なかなかブログを書く気になれない。今、だから、かなり無理して書いている。

 土曜日(7日)は、柳田国男の研究会に顔を出した。今度彼らが出した本に原稿を書いたのでその合評会とやらに参加したのである。場所が歌舞伎町にあるマンションで、ど真ん中というわけではないが、花園神社の近くである。このマンションの部屋のオーナーがここで歌舞伎町大学というのを主宰していて、そこを合評会の会場用として借り受けたというわけである。オーナーにはかつての寺子屋を復活させようという思いがあるらしい。オーナーに私はここで古事記を講義してくれないかと頼まれた。こういうときにすんなり断り切れないのが私の欠点で、まあ日程が合えばなどと曖昧に返事しておいた。あまりやる気はないのだが、相手はそうはとらずに期待してしまう。私の態度も困ったことである。

 話は終始、今何故柳田なのか、ということで進んだ。生活者の側から社会を構築していくべきだ、という、Nさんの考えは私も同じであったが、具体的にどうしていくのか、という突っ込みになかなか答えが返せない。もどかしいところである。要するに、国家というようなところからでない、共同的な世界をどう構築するのか、という元左翼のだいたいたどる思考方法なのであるが、私は、それをおかしいとは思っていない。

 グローバリズム資本主義の中で、今は国家を強化して福祉政策をすすめるべきという潮流になっている。それによって国家は解体するわけではないが、ある意味では、権力や暴力装置としての国家ではない、国民との互酬的な関係にある国家の像が今見え始めている、ということだろう。ただ、こういう互酬的な公的装置は、私的な共同体の側から形成されるべきだ、というのが、柳田的な方法と言っていい。私もそのように考えている。

 だが、国家の権力を握り強引に福祉政策を進めて、というプロレタリアート独裁方式の性急な解決を人は求める。具体的にどうするのか、という突っ込みは、結局は、権力奪取という誘惑に陥り易い。私だって、勤め先の学科で、役職になり小さな権力を握ったとき、権力を振りかざして、言うことを聞かない奴は首だと言いたかった。それぐらいしないと小さな職場ですら改革は出来ないと思ったからである。まして、国家となるともっと権力を使いたがるだろう。そういうものなのだ。

 柳田の方法は、そういう権力の力ではなく、人々の共同的な力によって物事の改革は進めるべきだという方法で一貫している。共同的な力とは、協同組合的な発想もないわけではないが、生活者が、共同の力によつて、新しい持代に合わせて試行錯誤しながら問題解決に図る、というような言い方しかしていない。私もそれ以上具体的な言い方ができない。まどろっこしいが、仕方がない。

                果つるまで消費し尽くせ霜月や

ワ族の神話2009/11/13 00:48

 今日は教授会の日。私どもの学科の人数も少なくなり寂しい教授会だが、それでも私たちの将来に関わることはここで話し合う。今週の日曜から秋の入試が続く。ここ2年ほどわたしたちの学科は学生集めでは好調だったが、そろそろ反動がきそうである。どうなることやら。

 万葉古代研究所年報の原稿を何とか書き上げる。少しほっとした気持ちだ。これが終わるとすぐに「五七調のアジア」の本作りに入らないといけない。執筆者への案内を出す作業をしなくてはいけない。今週末はその作業で潰れそうだ。

 寧波大学の張先生から来年の春に寧波でシンポジウムがあるので来て下さいとの連絡。3月25日頃で、行きたいのはやまやまだが、ガイダンスと重なる。この時期ここ3年ほどずっと中国に行っていて、ガイダンスを人に任せていた。そろそろ難しくなってきた。学校の雑務と調査の日程が重なるといつも悩む。

 今日の授業で、ワ族の神話を紹介。ワ族の先祖は、シーガンリという洞窟に暮らしていた。蠅が洞窟に標をつけ雀がそこを啄んで穴を開け、人間は洞窟から出る事が出来た。ところが虎が出口にいて出てくる人間を食べてしまう。そこで鼠が虎の尻尾に噛みつき、虎が振り向いた隙に、人間は洞窟を出る事が出来た。鼠は穀物の種を地下に埋めたが、蛭がそれを地上に運び出した。それで人間は穀物を手に入れる事が出来た。部分を繋げるとこんな話になる。

 ところで、人間は、蠅に御礼がしたいと言うと、蠅は御礼はいらない、食事を少し分けてくれればいいと言った。雀に御礼がしたいというと、御礼はいらない、お米を少し分けてくれればいいと言った。鼠に御礼がしたいと言うと、鼠は、御礼はいらない倉庫の食料を少し分けてくれればいいといった。蛭は、せっかく運んだ穀物の種を人間に取られたので、仕返しに人間の血を吸うのだということだ。

 ワ族は陸稲を栽培している少数民族である。彼らにとって、蠅も、雀も、鼠も、蛭も害虫であり害獣である。農薬かなんかで退治したい連中だ。ところが、ワ族は、今ひどい目に遭うのは、かつて彼らに助けられたからだと考えるのである。神話でそう語る。なんて優しい人達だろうか。実は、ワ族は、首狩りをしていた民族なのだが、こういう優しさを持つ。 

 こういうように物事を考える民族がいることを知ることは大事なことではないか、というのが授業の趣旨。天敵をやっつけるために全力を挙げれば生産性もあがり、富を得られる。が、被害にあっても仕方がない、彼らにも生きる権利があり人間とは持ちつ持たれつなんだから、という発想だといつまでも貧しいままだ。でも、間違いなくワ族にはストレスはない。こういう発想は穏やかに生きる方法である。

 なかなかこんな風に考えられるものではない。身近に自分にとって凄く嫌な奴がいるとして、仕方がない、ワ族の神話に出で来る蛭のような奴なんだと思えば、納得がいくだろう。時にワ族のように考えてみるのも悪くはない。

                            神無月獣も虫も昼寝かな

オバマも大変だ2009/11/14 23:43

 オバマ大統領がきているが、鳩山首相と同じで前政権の重荷を背負わされて大変だろうなと同情する。アメリカが抱えた問題は二つあって、一つは、アフガンであり、一つは医療の国民皆保険である。

 アメリカにとって、戦争というのは、実は公共工事と同じだとみた方がいい。戦争によって、軍需産業が潤い、景気や雇用の下支えになっている。しかも、底辺層の労働者を兵士にすることで、失業率のアップを防いでいる。日本で公共工事が減らせないように、アメリカは戦争をやめることができないのだ。平和になったら、アメリカの失業者は増大し産業構造の転換をしないと経済が立ちゆかなくなる。

 国民皆保険はかなり反対にあっているが、移民の国で国民皆保険が成立するということは、かなり革命的なことである。同時に、そのことは、移民の国であることを自らやめることでもある。アメリカが移民を受け入れてきたのは、国民皆保険にような制度を作らなかったからだ。国民皆保険のあるヨーロッパでは、だから移民に対しては差別があり、排斥運動が強い。自分のことは自分で面倒みる、というのがアメリカの自由であり、移民の国を支えてきた理念だが、さすがに、そういう自由が怪しくなってきた。

 そのことは、アメリカが人権抑圧を非難しアフリカの貧困に積極的に介入し、時には戦争を仕掛けることと関係している。つまり同じことが自国に起こっていることに、さすがに気まずくなってきたということである。戦争という公共工事を維持するためには、自国の貧困対策にも金を出さないといけないということに気づいたのである。ただ、公共工事は、中間搾取がるあので富裕層がうるおうが、国民皆保険は、バラマキ政策なので富裕層は反対する。それで、貧困層は公共工事であるアフガン戦争に反対し、富裕層は戦争を支持し国民皆保険に反対する。同じ構図は、日本にもある。

 アメリカが国民皆保険に踏み切ることが革命的なのは、そのことが、国際的スタンダードになるからである。資本主義の社会主義化は避けられない流れであるが、ようやくアメリカにまで来たということだ。

 鳩山首相は、公共工事を削減しバラマキをやろうとしている。税金の再配分に中間搾取をなくしてましおうということだ。事業仕分けはそのプロパガンダだ。だが、オバマは戦争という公共工事をなくせない。鳩山に対してオバマに元気がないのはそのせいだろう。

 万葉集の原稿を送付し、これで一段落。先週に買ったパソコンをようやく箱から出してセットアップをした。ウインドウズ7なので、いろいろとソフトが対応していない。それでいくつかソフトを購入せざるを得なくなった。

 頭にきたのが、ホームページビルダー。にとかく、ホームページだけは更新しないといけないので、かなりふるいのバージョンを使っていたということもあって、いそいで新しいビルダー13を買った。ところがだ、ビックカメラにもヤマダ電機のも在庫がない。おかしいのとは思いながら、一個だけ残っていたのを買い求めた。箱には「ウインドウズ7でも安心」と書いてあるし、店員に確かめたところ大丈夫だという。

 家に帰ってインストールしたが、うまくいかない。結局、最新バージョンのものにダウンロードしなきゃならないことがわかったのだが、ホームページビルダーのホームページには、最新バージョン14が12月4日に発売とある。なんということだ。だから、在庫がなかったのだ。店員はそれを教えてくれなかった。まあ当然だろうが。知っていたら誰も買うわけがない。

 もう少し調べてから買えばよかったのだが、まあいつものことである。でも、ダウンロードして何とか使えるようにはなったし、貯まっていたポイントを使ったので半額で買えたということもあり、たいして落ち込まないですんだが。

 ウインドウズ7の売りは、マウスなしでも画面にタッチすることで、アプリケーションを動かせることで、おもしろいのだが、結局はマウスに頼る。画面にまでいちいち手を持って行くのは疲れるのだ。今のところたいして役に立っていない。

 さすがに動作が早くなった。パソコンの容量も速度もほんとに前のとは段違いによくなっている。わずか数秒の違いなのだが、この違いに世界が変わったような気分になるのは考えてみれば不思議なことである。 

 今週学生に、進歩という概念を持たない少数民族の話をして、学ぶところはあるという高説を垂れたばかりだが、学ばなければならないのはこの私のようだ。 

                    冬めく日新しきパソコンと過ごす

インフルエンザ対策2009/11/18 00:15

 急に寒くなったり、暖かかったり、雨が降ったりと天候が不安定だ。最近、朝散歩というよりはウォーキングをしている。健康のためだ。チビの散歩では運動にならないので、チビは奥さんに任せて私だけで野川沿いを早足で歩いたり、スロージョギングをしたりしている。

 野川沿いの桜の紅葉も終わりに近いが、それなりに秋らしいコースである。今週人間ドックということもあって、少しはコレステロールや血圧を下げなきゃということでやっているのだが、その分朝早めに起きるので寝不足気味である。ほんとうは早く寝て早く起きて歩くべきだが、どうしても寝るのが遅くなる。こんな調子だから、健康にいいんじゃなくて、健康に悪いんじゃないかとも思う。

 しばらく山小屋に行っていないが、今月はとにかく休みというものがない。土日はほとんど入試と研究会で埋まっている。さすがに疲れてきた。毎年リンゴの樹ののオーナーになっていて、リンゴの収穫にいくのだが、私が忙しくて、奥さんにはどうするのとせっつかれている。そう言われてもなあ、ということで、奥さんに任せるしかない。

 今日は会議日で一日会議。夕方の会議は長かった。入試のインフルエンザ対策で、新型インフルエンザで試験を欠席したものに対して、特別措置を行えという文科省の通達があって、いろいろとこまかな対策を決めなきゃならないのだ。新型インフルエンザも当初は大騒ぎだが、今では、季節型インフルエンザとそんなに区別がなくなってきた。季節型の場合は、特別措置はとらない。が新型はとる。日本では今のことろとくに新型が季節性より深刻であるということはないようで、症状としてはあまり違わないようだ。それなのに、新型だけ特別扱いするのは不公平だと思うが、文科省の方針なので仕方がない。文科省も新型対策でかなり予算を使っているので、簡単には方針を変えられないのだろう。

 これだけたくさんの人がインフルエンザにかかってしまうと、ある意味で、日常化したということなのだろうか。最近話題にもならなくなった。それでも、マスクだらけの学生のいる教室に入ると(演習の授業で一度ありました)、そうかインフルエンザなんだと気づかされる。

 マスクはしないが、うがいと手を洗う習慣だけは続けている。基本だが。それでかかったら仕方がない。こういう病は、ワクチンも絶対的ではなく、重症化を押さえるだけだというから、人間がある程度かかってしまって、そうやって乗り越えていくしかないということだろう。われわれは無菌状態で生きる訳にはいかないのだ。細菌やウィルスと共生している以上、時々嫌なやつが出現しても、そっちにも事情があるのだから、というような態度で寛容に受け止めて、というわけにはいかなくても、あまりトラブルにならないように受け入れていくしかない、ということだ。まあ相手の程度にもよるが。

                    木枯らしに見つかるまいと首すくめ

人間ドックと慰労会2009/11/21 01:05

 今日は午前中人間ドックへ。血液を採られたり、バリウムを飲んだりと気分のいいものではない。結果が送られてくるとのことだが、あれは嫌なものだ。この歳になって体がよくなっているわけではない。少しずつ身体は老化しいろんな障害を持ち始めていくわけだから、人間ドックの結果など見たいわけはない。ましてや、重篤な何かを宣告でもされたら…などと誰もが考えるだろう。

 それでも、毎年これをやらないといけないと決められている。一応これも国の制度なのだ。まあこれも給料のうちということだが、とりあえずは、自分の身体を意識する良いきっかけではある。ここ何年かで二人の友人を癌で失ったが、彼らはこういう健康診断を毎年やっていなかった。かれらは~しなきゃいけないとう制度が嫌いだった。発見が遅れたのはそのせいだったかもしれない。特に長生きしたい願望があるわけではないが、普通に生きていられればいいというだけだ。避けられるならば病気や事故は避けたい。それが普通というもののありかただ。私は普通でない生き方をしたいなどと思ってはいない。

 夕方から、とある委員会の慰労会。外部評価で苦労された委員の方との食事会である。体内にバリウムが残っている身体ではあったが、幹事ということもあり、休む訳にはいかない。中華料理であったが、けっこう飲み食いした。ボージョレーヌーボーも飲んだ。平均年齢が高いせいかやはり話題は健康のことになる。

 帰りに電車に乗り遅れまいとホームを走った。アルコールが残っている身体で走るのはかなり危険である。まして、高血圧の薬を飲んでいる身体である。少し貧血気味になったが、以前ほどひどくはならない。やはりここのところ毎朝ウォーキングをしているのがいいのかもしれない、などと思ったのは、飲み会の話題をまだ引きずっていたからだろう。年寄りの健康維持のあれこれでけっこう話題が盛り上がったからだ。

 帰ったら、車のことで相談される。1年定期点検を出しているのだが、修理などがあってけっこう費用がかかる。すでに4年目だが8万キロ走っている。来年車検だが、10万キロを超えるだろう。そうすると整備代がかなりの額になるので、今買い換えれば、エコ減税があるのでかなり安くなる、と販売店のセールスが言っているらしい。

 そういっても、金があるわけではない。今の車を乗りつぶす覚悟でいるが、古くなれば費用がかかるのも確かだ。いつかは買わなくてはいけない。いつ買えばもっとも経済的なのか、そういう判断になる。今車が売れないので、セールスも必死だ。まあ検討してみる価値はありそうだ。 

    短日やカラスの帰宅早くなり

最強の教師2009/11/24 00:53

 昨日今日と出校。昨日は推薦入試。今日は通常授業である。推薦は指定校推薦で、面接を行った。私の属する学科には、文学の創作コースというのがある。小説家に指導してもらっている。面接をしていると、作家志望の受験生がけっこう多い。なかには、短大の2年間のあいだにデビューできたらいいと堂々と語るものまでいる。かつてはこういう高校生はいなかったと思うが、時代の変化だろうと思う。

 彼女たちがどういう本を読んでいるかというと、だいたいがファンタジーかエンターティンメント系である。私の知らない作家ばかりである。芥川賞系の作家の作品は読まない。むろん、近代作家の作品も古典も、だいたいが教科書で読んだ、である。本を読んでいなから小説がかけないというものでもないだろうが、でも、やっぱり基本は基本だ。ちょっと不安だが、でも、その志は悪くはない。がんばって欲しい。

 作家以外に出版社で編集をやりたいとまじめに語る受験生もいる。むしろ、こっちの方が心配で、現実を見れば、短大で出版社にはいるのはまず無理、四大だってかなりの狭き門だろう。だいたい斜陽産業だから、募集だって少ない。つまり、面接しているこちらもつい無理だよ、と口に出しかかるのだが、それを言ってしまえば夢をつぶすことになる。だから、努力すれば、実現する可能性はある、と答えることにしている。

 ある受験生にけっこう厳しいよと答えたが、何かこちらに質問はあるかと言ったところ、先生方はわたしの夢を応援してくださいますか、と逆に問いただされた。さすがに、言い過ぎたかなと反省した。本当は受験生だって現実の厳しさはわかっているのだと思う。でも、受験の動機を聞かれれば、そう答えるのが無難だということなのだろう。が。中には真剣な受験生もいる。そういう場合、うちじゃ無理だから他に行った方がいいよ、と言えないところがつらい。一人でも多く入れないといけないからで、そんな余裕はないからである。

 でも、ひょっとしたら、彼女たちの中から作家デビューを果たすものが出るかもしれないなどと夢見ている。みんな可能性は持っている子たちだ。どんなふうに変化するか誰にもわからないはずだからだ。

 就職は、職につくことで社にはいることではない、とよく言われているが、確かにその通りで、編集職につきたいというのなら、方法はいくらでもある。だいたいほとんどの編集者は個人営業だからだ。就社できなくても、職を身につけることはできるのだ。だが、今の学生はほとんどが就職ではなく就社希望である。しかも大手をまずは希望する。安定した生活と名前が欲しいのだ。だが、そんなうまい話はそうはない。

 就社なら、快適に働けそうだと思えばどこでもいいじゃないか、と思う。就職なら、それこそ会社ではなく、職を身につけることを優先させることだ。時間はあるのだから。就職について話す時に、だいたいそんなことを話すのだが、やはり、誰だってそうだが、みんな仕事と理想とを一致させたいと思っている。自分を賭けるに足る仕事をしたいと思っている。それは大事なことだが、仕事は生活そのものでもある。とりあえず安定した生活を確保して、人生を楽しむ、それも立派な自分を賭けるに足る生き方である。そのための仕事選びであってもいいのである。

 今年は、就職が厳しい。氷河期よりひどい状況である。リクルートスーツを着て就活している学生を見ると、たくましいなと感じる。面接で夢を語っていた時から間違いなく成長していると思うのだ。現実の厳しさに直面していろんな事を学んだことだろう。現実というのは、私などが束になってもかなわない最強の教師である。

   最強の教師になりたし厚着する

生命のバランス2009/11/30 01:18

 しばらく山小屋に行ってなかった。土曜の研究会を早めに終えて茅野へ向かう。二ヶ月ぶりになる。山小屋もかなり傷んできている。まずベランダの一部がとうとう駄目になった。遊びに来ていたS夫婦の4歳の子がたまたま腐ってゆるんでいたベランダの一部によじ登ろうとして、ベランダから落ちてしまったのだ。大人たちがちょっと目を離した隙だった。大人たちは青くなった。女の子は下の地面で泣いていた。高さは二メートルはある。奇跡的にかすり傷一つなかった。本人はただびっくりして泣きじゃくっている。

 それにしてもよく無事だった。神に感謝である。この際何の神様でもいい。こんなになるまで放置していた私たちのミスである。十数年も直射日光と風雪にさらされたベランダはもう寿命で全面的に作り直さないといけないようだ。それから、朝突然、屋外の灯油のタンクから灯油が漏れ出した。タンクの下部にあるプラスチックでできた水抜き部品が劣化してひびが入り、そこから灯油が激しく漏れだしたのだ。これも寿命が尽きたということである。タンクもまた換えないといけない。おかげで灯油のストーブが当分使えなくなった。

 人間に寿命があるように物にも寿命がある。山小屋は建ててからもう14年たつが、そろそろいろんな物の寿命がつき始めたということらしい。自然のただ中に建てた人工物なのだから、かなり無理がある。ベランダは二ヶ月前には何ともなかったように見えた。が今回来たらすでにかなり傷んでいる。ある時に一挙に崩壊が進むのだ。これも人間と同じだ。

 東京に帰ったら、人間ドックの結果が届いている。脂肪肝と書いてある。動脈硬化もあるので要観察というところ。要するに、典型的なメタボで運動不足という結果である。運動不足は実感している。最近、いそがしいということもあって確かに運動はしていない。が、身体に負荷をかけて運動をすることにそれほどの意味を見いだせなくなっていることが問題である。

 事故や病をなるべく避けて普通に生きたいとは思っているが、身体に負荷をかけて努力しないと普通に生きられないというのは、何かおかしいと思うところがある。ほんとに普通に生きることは面倒くさいことである。結局、この社会で生きること自体が、ある意味、絶えず何らかの負荷をかけることなのである。その絶えざる負荷を生きることの普通さの感覚としないと、普通に生きられない、ということなのだ。

 私の身体のあちこちも山小屋と同じように寿命が来ている。耐用年数を超えたということか。物ならはパーツを換えればいいが、人間の場合はそうもいかない。まだ全体の耐用年数はこえちゃいないだろうから、まだ余裕のところの耐用年数を引き延ばしていくことしかできないが、それでいいのだと思う。

 立花隆の癌の番組を見ていたら、癌というのは、細胞分裂によって生命を生産していくときに必然的に起こるもので、病というものではないということであった。生命を猛烈に再生産しようとすれば、癌も同じように生産される。そこで、人間の細胞は、癌発生のリスクを抱えて猛烈に生命の増殖力を強めるか、癌発生のリスクを避けるためになるべく生命の増殖力を抑えた弱い生命になるかの選択を迫られ、癌発生のリスクを抑えるほうを選んだというのだ。だから、人間の若者には癌発生率が少ない。その選択の結果少なくとも子供を生むまでは癌にかからないような仕組みになっているらしい。

 つまり人間が何百歳も生きられるほど強靱な生命力を持つ存在を選択したとき、癌もまた強靱な生命力を持ってしまい、今以上に癌の恐怖におびえなくてはならないということだ。

 この番組を見て、生命にはある微妙で適度なバランスがあるのだという事を実感した。健康で長生きなんていう、一人勝ち的な生命のありかたなどというものは、バランスを欠いているのだ。飽食と運動不足で不健康であることを嘆きながら、仕方がないとあきらめる方が、バランスはいいということだ。強引な理屈だとは思うが。

                      落葉ども踏まれぬものから消えていく