ノートを取るな2009/10/29 23:26

 相変わらず忙しい日々。「七五調のアジア」というタイトルで本の出版を企画していたのだが、出版社の方からオーケーの返事が出ていよいよ本作りということになった。これはアジア民族文化学会のシンポジウムを本にしようと企画したもので、当初から単行本にする予定だったが、何とかここまでこぎ着けたというわけだ。企画を立てた私としては、これからまた忙しくなる。これから原稿を集めて(私も書くが)の作業が始まる。上手くいけばいいのだが。

 授業の方はまあまあというペースで進んでいる。最近必要があって山折哲雄の文章を拾い読みしていたら(確か『心の作法』)、授業ではノートを取るなと私は学生にいつも言う、と切り出す文章があった。続けてこう書いてある。教員の話をよく聞いて頭の中に刻まれたあるいは心に残った内容だけを家に帰って書けばいい。何も残らなかったら書く必要は無い。だから教室ではノートを取るなという。ところが、学生はなるほどと頷きながら、しばらくするとノートを取りはじめるという。

 なるほどと思わせる文章だが、なかなか言えることじゃない。私には無理だ。お願いノートを取って下さいと頼む方だ。それから山折哲雄は次のようにも言う。教員は、授業でビデオ映像や写真等の視聴覚の資料だとかパワーポイントを使い始めてだめになったという。学生に声で語りかける力を失ってしまったというのだ。これはまったくその通りである。

 最近の私は、ビデオ映像とかパワーポイントに頼りすぎているところがある。板書が得意でないのと、正直面倒がないということもある。とにかく分かりやすい授業を心がけるとどうしてもそういう新しいツールに頼ってしまう。が、いつも俺の話す力はかなり衰えたよな、という感想は持っていた。学生に正面から自分の言いたいことを迫力ある言葉で話すということをあまりしなくなった。そのせいか、自分の話が多いと居眠りする学生が多い気がして、余計に映像資料に頼ってしまうというところがある。

 山折哲雄の文章を読んで、そうかやっぱり安易な授業に流れていたと反省した。まあ、これも忙しくてという言い訳になってしまうのだが、プロは手を抜いてはいかんのだ。語る力で授業をするというのはかなりの準備が必要である。準備とは、教えたいことに確信を持つまでの準備である。単なる予習ではない。そういう確信がないと語る力は出てこない。心に残ったことをノートに書けなんてこととてもじゃないと言えない。20年以上教師をやっているが、まだまだなと山折哲雄の文章を読みながら考えたのである。

                     冬支度する教師ただただ寡黙

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