老いに抗う2009/08/11 00:40

 今話題の酒井法子の物語で思い出した村上春樹の短編がある。短編集『回転木馬のデッドヒート』の中の「プールサイド」という短編で、中年にさしかかったある人もうらやむようなエリートが、突然、自分という存在の何者でも無いことに気づき愕然として涙が止まらなくなるという話である。

 そのきっかけが、老いの自覚であった。見た目を完璧にコントロールしてきた自分にとってあらがえない宿命をそのとき感じ、そこから自意識の歯車が狂っていくのである。

 何故この話を思い出したかというと、酒井法子にとっての恐怖とは、老いだったのではないかと思ったからである。38歳で、学校に通う子供がいる。ノリピー語を話す元アイドルの自分を失いつつある年齢である。今テレビのワイドショーで、酒井法子の裏側が暴かれているが、結局、すべて老いへの拒否というメッセージである。

 つまり、母親として四十代になろうとするそのような老けていく宿命を止めようとして、サーフィンや、ディスコや、そして薬にとすがっていったのではないか。夫が最悪だったが、夫もまた老けていくことを拒否しようとする人種の一人であったようだ。この種の人種が芸能界に多いのは、晴れの非日常を最も華やかに象徴するのがアイドルと呼ばれるものの若さであって、芸能界はその若さを最大の商品価値として成り立つ業界だからだ。

 報道によれば、この夫婦は二人で覚せい剤を使用したという。それを聞くと、中年になりかかっている夫婦が老いを止めようと必死に抵抗している涙ぐましい光景が浮かんでくる。

 歳をとることはある面で成熟することであり、それは、宿命とでもいうべきあらがえない様々なことを受け入れていくことである。そうやって、人は歳相応の生き方を身につけていくものなのだ。それは多くのものを失うことだが、同時に多くのものを得ることでもある。失うことはかなり自覚的なので嫌なものだ。それに対して、得るものはなかなか目に見えて実感できるものでもない。歳をとらないことに価値を見出す生き方の人たちにとっては、歳をとることは精神をとても不安定にしていくことなのだ。

 まして、若さを商品としてきたアイドルにとって、歳をとることは致命的であり、自らの商品価値の転換を強いられる。酒井法子はそこをうまくやってきたと思ったのだが、そうではなかったようだ。

 元気な中年や元気な老人であろうというあらがい方とは違う、アイドルの時に時計を巻き戻そうとする抗い方がそこにはあったようだ。それはかなり不健康である。

 私などは頼むからあまりぼけないでくれ、と日々祈りつつ自分の老いにあらがっている。宿命などとっくに受け入れている。老けることで失ったものは多い。それに対して老けることで得たものについてはよくわからない。このままでは帳尻があわないので、私の場合はあらがっているのかもれしない。

                          夏帳尻の合わぬ生を嘆息

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