のりピーと異常気象と薬2009/08/10 00:23

 相変わらず雨の多い夏である。からりと晴れることがない。午前中晴れても午後や夕方には必ず雨が降る。湿り気の多い空気なので冷えるとたちまち雨になる。こういう天気はアジアの亜熱帯では雨期というが、日本もどうやら梅雨ではなく雨期と呼ぶべきなのかもしれない。梅雨と雨期では雨の降り方が違う。雨期の雨はどっと降ってすぐ止み、また降る。水をたっぷり含んだ積乱雲が次から次へとやってきて、その度に大量の雨を落とし、合間に青空をのぞかせる。

 日本の自然もこのような雨期の雨はあまり体験していないので、軋みを起こしている。それがあちこちで起こっている土砂崩れだ。

 大量に降った雨は、川に流れ込み、いつもは穏やかな川は大激流となって逆巻き、都市を水浸しにして海に流れ込む。台風の時の光景でなく、今これが日常的に起こりつつある季節の風物誌なのである。日本の季語が描いてきた自然は確実に変貌し、伝統的な季語の世界とは違う風景となってしまった、というところか。

 酒井法子の逮捕は、劇として一番妥当な展開だったというところか。それにしても、かなりのリスクを覚悟して、何故覚せい剤に手を染めたのか。むろん、理由は簡単で、それだけ、生きていることがストレスだったからだろう。麻薬などの薬は、日常を非日常の晴れの世界に変えてくれる、きわめて効果的な道具である。日常に疲れたとき、非日常に簡単に連れて行ってくれる薬は、現代人にとってきわめて魅力的な道具である。

 麻薬はもともとシャーマンが憑依するための道具だった。つまり、神と一体化するという祭祀にとって必要な道具だった。その道具が、今は、シャーマンではなく、この世のストレスに耐えきれぬ人々にとっての貴重な道具になっている、ということである。

 酒もまた同じである。柳田国男は「酒の飲みやうの変遷」という文章で、本来、日本の村では酒は祭りの時に神と一体化するために参加者が飲むものだった。だから、皆意識を失うほどに飲んだ。ところが、村から都会に出てきて人たちが、孤独を味わったりストレスを感じたりして、その疲弊した精神を癒すために酒を飲み始めた、と述べている。

 酒も、麻薬も、タバコも、本来は神と一体化するためのつまり非日常の世界に行くための道具だったのであるが、今は、疲れた心を癒すための道具になっている。そう考えれば、そのような物は、もっとたくさんある。これだけ需要が多ければ、たくさん新しい道具が開発される。

 が、そのような物は、本質的に死への誘惑を持っている。非日常の行き着く先は死である。それらの物による癒しは、死という自己破壊と紙一重である。だから、社会は、それらの物の氾濫を取り締まり、ある線を越えた物に対しては非合法とするのである。

 が、死への衝動こそ、実は最大の癒しである、という逆説を人間は抱えている。この逆説にはまってしまうと、どんなにリスクがあろうと、非合法の薬の方に人は惹かれる。非合法であることそのものが意味を持ってしまうからである。

 芸能人は、非日常を常に作り出さなければならないしんどい職業である。その意味で、非日常に引き込む麻薬系の薬にもっとも惹かれる職業であり、同時に、死への衝動に近づくリスクも抱えていよう。

 そう言えば尾崎豊も薬を使うことによる死の衝動にとらわれてしまった一人であった。薬を乱用した尾崎豊を皆悪く言わないのは、そうせざるを得ないつらさやそれによって作り上げた歌のすごさを理解したからであろう。酒井法子がみなから同情されるためには、そこまで行かざるを得なかった自分の内面をどこまでさらせるかにかかっているのかもしれない。

       空も山も川も死にいそぐ夏

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