自己評価報告書 ― 2008/07/03 00:12
課外講習の万葉講座の準備がけっこう大変である。巻1の歌から一つずつ読み込んでいく講座だが、かつて大学院で歌を一首ずつ調べて発表していたときのことを思い出した。諸注釈にあたり、この歌の何処を説明すればよいのか、考えながらやっていくのは、仕事の忙しい身としては大変だが、いかにも勉強している気がして楽しいものである。私は教える方だが、ある意味では受講している方々と同じ気持ちかも知れない。
とにかく準備に時間がかかる。ここんとこ睡眠時間が少なくなってきているのは、この講習があるせいである。おかげで、短歌時評がまだ書けないでいる。今週中には何とかしなくては。
今日は、午前中に学生と卒業レポートのテーマについての相談。昼は、中国から来た学生に中学英語の講習。前にも書いたが、英語をまったく習っていない中国の学生に、英語が苦手な私が一緒に中学の英語から勉強しようと始めたまあ勉強会である。時々私が中国語で言うとこうかと聞く。違いますと答えが返ってきて、私の基礎中国語の勉強にもなっている。
午後は5限に基礎ゼミ。今グループワーキングの作業をしているところ。グループ別に分けて、それぞれテーマを見つけて、みんなで調べてレポートを書き、レポート集を作ろうという試み。神保町をテーマにしたらみんな同じようなテーマになってしまった。もう少し多様なテーマになるような誘導が必要だったと反省。
今度の土曜の古代のシンポジウムはかなり人が来そうである。M氏から印刷されたレジュメが送られてきたが、何と230部あった。こんなに来るのだろうか。来たら会場の教室はどうなるのだろうと心配になった。当日は大きな教室に会場を変更した。
昨日は、午後は大学基準協会の人を招いての講演。大学の第三者評価の話だが、実は短大もやはり第三者評価を受けなければならない。来年の初めにはそのための自己評価の報告書を書かなくてはならない。その作業は夏休みから始まる。その責任者はまた私である。
基準協会の担当者は、何度も、自己評価報告というのは、自分たちが抱えている問題を自分たちが自覚するために行うもので、自己評価報告書を作ることが目的なのではない、と何度も力説していた。当たり前の話だが、文科省が大学に直接口出しするのをやめて、指導を第三者評価機関に任せた、という背景がある。つまり、ソフトにだが、国による指導の一環であることには変わりない。だから、大学側は、これをやらなければ国から補助金がもらえないということで、とにかく、報告書を作ればいいんだということになる。現実とはこういうもんである。
むろん、大学ではこういう報告書とは別に、生き残ろうといろんな改革を試みている。報告書作りがこの改革の推進役になればいいのだが、現実は、改革に取り組む教員の雑務をただ増やしているだけである。こういう仕事は私のような真面目で人の頼みを断れない教員に集中する。全国の私と同類の教員のみなさん。ご同情申し上げます。
よっこらと目覚めて起きて七月や
とにかく準備に時間がかかる。ここんとこ睡眠時間が少なくなってきているのは、この講習があるせいである。おかげで、短歌時評がまだ書けないでいる。今週中には何とかしなくては。
今日は、午前中に学生と卒業レポートのテーマについての相談。昼は、中国から来た学生に中学英語の講習。前にも書いたが、英語をまったく習っていない中国の学生に、英語が苦手な私が一緒に中学の英語から勉強しようと始めたまあ勉強会である。時々私が中国語で言うとこうかと聞く。違いますと答えが返ってきて、私の基礎中国語の勉強にもなっている。
午後は5限に基礎ゼミ。今グループワーキングの作業をしているところ。グループ別に分けて、それぞれテーマを見つけて、みんなで調べてレポートを書き、レポート集を作ろうという試み。神保町をテーマにしたらみんな同じようなテーマになってしまった。もう少し多様なテーマになるような誘導が必要だったと反省。
今度の土曜の古代のシンポジウムはかなり人が来そうである。M氏から印刷されたレジュメが送られてきたが、何と230部あった。こんなに来るのだろうか。来たら会場の教室はどうなるのだろうと心配になった。当日は大きな教室に会場を変更した。
昨日は、午後は大学基準協会の人を招いての講演。大学の第三者評価の話だが、実は短大もやはり第三者評価を受けなければならない。来年の初めにはそのための自己評価の報告書を書かなくてはならない。その作業は夏休みから始まる。その責任者はまた私である。
基準協会の担当者は、何度も、自己評価報告というのは、自分たちが抱えている問題を自分たちが自覚するために行うもので、自己評価報告書を作ることが目的なのではない、と何度も力説していた。当たり前の話だが、文科省が大学に直接口出しするのをやめて、指導を第三者評価機関に任せた、という背景がある。つまり、ソフトにだが、国による指導の一環であることには変わりない。だから、大学側は、これをやらなければ国から補助金がもらえないということで、とにかく、報告書を作ればいいんだということになる。現実とはこういうもんである。
むろん、大学ではこういう報告書とは別に、生き残ろうといろんな改革を試みている。報告書作りがこの改革の推進役になればいいのだが、現実は、改革に取り組む教員の雑務をただ増やしているだけである。こういう仕事は私のような真面目で人の頼みを断れない教員に集中する。全国の私と同類の教員のみなさん。ご同情申し上げます。
よっこらと目覚めて起きて七月や
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