姥捨て2008/07/01 00:48

 もう早いもので7月になる。時間は何でこんなに早く過ぎるのか。もう少しゆっくりでもいいのにと思う。奥さんの少し早めの還暦祝いが土曜にあったが、私は来年である。こういうのは抵抗したいね。

 今日授業で棄老伝説の話をした。姨捨伝承のパターンはいくつかあるが、決まっているのは棄てられる老人の年齢である。決まって六十なのである。六十で棄てられちゃたまらん。私は来年棄てられることになる。どうして六十なのかわからないが、これはたぶん還暦に関係しているのだろう。最近では、後期高齢者の年齢が現代の姨捨だと盛んに言われた。後期高齢者は75歳だが、60歳から75歳に引き上げられたというわけだ。

 日本には姨捨の風習はない、これはあくまで伝承だ、ということを学生に話したが、本当だろうか。親を背負って山に棄てに行くことはないとしても、金を奪い、仕事を奪い、生き甲斐を奪い、人との関わりを奪い、というように無形に棄てるという行為は山ほどあるのではないか。そんなことを考えると空しくなる。

 ちなみに何故、老人棄てではなく、「姥」棄てなのか、ということだが、姥は異界的な存在。老人を異界的な存在に見立てて犠牲にする、という心性がそこに働いているかも知れない。赤坂憲雄はこの姥捨て伝承には供犠の問題が隠されていると述べている。棄てるのは親ではなく、山姥のような異界的な存在なのだということだ。

 夕方、基礎ゼミナールのテキスト作りの会合。みんな基礎ゼミナールの授業に苦労していることがよくわかった。この授業は、大学・短大全入学生の必修授業である。テキストがないのがおかしい。ということでテキスト作成のための委員会を作ったが、私はまた責任者である。仕事は増えるばかりである。

わが魂も還りたがらぬ半夏生