怒江のダム2008/07/14 01:00

今日午前中に京都から戻る。昨日は奈良での研究会、宿泊はいつも京都である。17日から祇園祭。まだ京都は混雑していないが、宿はそろそろ満杯になっているそうだ。

 昨日今日とさすがに暑い。私の発表は何とか終わった。ロシア人の研究者Eさんもメンバーだが、彼女は、ロシアの哭き歌について紹介してくれた。哭き歌は、一般には葬式の時に歌われるものである。ところが、ロシアでは結婚式の時に歌われる例があるのだという。哭き歌は専門の歌い手がいるのだが、葬式の時も結婚式の時も歌うのだという。

 結婚式なのにと思うかも知れないが、娘を嫁にやる親の側が哭き歌を歌う。娘が嫁ぐ先はそれこそ異界であって向こう側の世界である。だから、それを悲しみ哭き歌を歌うというのだ。考え方としては死者を送るのと同じなのだ。どちらもこちら側の世界との別れなのである。

 今はさすがにそういう風習はないということだが、それにしても面白い。中国の少数民族で、花嫁の女友達が哭き歌を歌う例はよくある。が、葬式と同じ考え方だというような意味合いで哭き歌を結婚式で歌う例は初めてである。

 かつてはいろんな場面で人はよく泣いた。特に儀礼の場面で日本人はよく泣いたものだが、今は泣かなくなったと柳田国男は『涕泣史談』で書いている。泣くことが儀礼そのものでもあったのだが、そういう儀礼そのものが無くなってきたということでもある。

 今日は暑くて仕事がはかどらない。夜テレビで中国特集をやっていた。環境問題を扱っていた。私が二度ほど調査に行った怒江のダム建設が話題になっていた。怒江は大峡谷で、川は激しい濁流である。そこにダムを造れば、確かに電力の供給は可能になるだろうが、自然への負荷の方が大きいことは目に見えている。中国内の反対運動を取り上げていた。

 怒江流域は中国でも貧しい地域だから、地方政府が何とかダムを造って企業を誘致しようとするのはわからないではない。が、問題はそのやり方であり、環境や経済性について冷静に判断されているかどうかである。

 ダムによって農民は土地を取り上げられるが、ダムを造ることによって得られる利益がそういった農民に適切に分配されるのかどうか。たぶん、役人や企業の利益に分配されるだけで、農民に回ってこない。それが今、各地で起こっている、開発に対する抵抗や暴動の原因である。

 経済性についても疑問はある。怒江流域は中国の辺境であり、交通の便は極端によくない。そこにダムを造ってもそのコストに見合うほどの産業がこの地に育つとは思えない。電力を大都市に供給するには遠すぎる。そして、四川省に近い地震地帯という問題もある。
日本の不必要な公共事業が今日本を苦しめているように、私の見たところ、この計画は将来禍根を残すと思われる。が、こういう目先の利益を重視する開発計画を止めるのはまず無理である。

 杭州の幹部が、環境保護と経済発展を両立させることができたらそれは芸術だと、演説していた場面があった。「芸術」とはすごい言い方である。それだけ非現実的だと言うことなのだろう。

 中国の問題は他人事ではない。まして、私が調査している地域そのものが今このように経済と環境問題の間で揺れ動いている。環境との調和のとれた経済発展が理想だが、それが「芸術」と言われるほど絵空事なのが現実である。

 環境問題は人間という存在そのものが悪なのであるという事実を人間自身につきつける。環境が善であるとしたら人間が悪なのだ。むろん、これは極端な思考だが、この極端さを支えているのは環境無しに人間は生きられないということである。

 が、環境無しに生きられる、という人間がそのうち必ずあらわれる。フイリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」はそういう人間に満ちた未来を描いたSFだった。そう考えると、フイリップ・K・ディックはやはり凄い作家だっと今さらながら感心する。

     誰もいない地球夏の夜の夢