先のことなど分からない2008/07/24 00:10

 今日、明日は補講日で授業はない。が、雑務で出校。私の勤め先の学部に就職したE君が6歳の娘さんを連れて仕事に来ていて、娘さんと顔を出す。何でも奥さんは出張でE君が面倒みなくちゃいけないらしい。丁度夏休みで学校に行っていないので、連れてきたということだ。

 今日は大学院の入試の面接と、教授会とそして前期の納会をかねた飲み会らしい。さすがに教授会に連れては行かなかったらしいが、それでも飲み会には連れていくということだ。娘さんのMチャンはとても利発で可愛い。お父さんは飲んべえだから飲み過ぎないように注意しなきゃだめだよ、といったら、うんと頷いていた。

 この夏の中国調査計画もだいぶ煮詰まってきた。いよいよ細かいところの打ち合わせに入る。

 秋のアジア民族文化学会の「続・アジアの歌の音数律」シンポジウムの計画も進んでいて、パネラーも一人を除いてオーケーをもらった。返事のないお一人はチベットの歌を研究している人で、その人に加わってもらえたら、アジアはほとんど網羅できるのではないかと思っている。

 今回は昨年と違って、音数律という概念そのものに揺さぶりをかけるものになるかも知れない。というのは、北方の歌はどうやら音数律という考え方がなさそうなのだ。発表を聞くまではわからないが、もしそういうことが資料としてででくるとかなり面白い。

 どうやら私は、シンポジウムの企画や旅行の企画とかのプロデューサーに向いているらしい。研究者より。それも情けない話だが、何でもこなすのが私の身上である。厳しい社会を生きていくためには何でもする。そういう意味では私もなかなかしぶとくこの世を生きているのである。

 それでも今私が一番悩んでいるのは、短大という私の職場の将来をどうするかという問題である。短大は全国的に縮小傾向にある業種である。そういう状況のなかで管理職をやるというのは、万年最下位の球団の監督をやるようなものである。上位にはなれない戦力で何とか勝ち進んでいく方法を探るのが監督の役目だ。もうこの球団は限界があるから、止めるか、何処かの球団と合併するしかない、という判断は監督の権限外である。

 ところが、私は一方で短大の将来構想を考える委員でもある。つまり、監督ではなく球団の身売りを含めてものを考える立場である。この二つの立場は矛盾する。何故なら、働く者のモチベーションは、今の環境がマイナスでも工夫次第でプラスに転換するのだと思うことで高まるからだ。将来身売りもあるよ、なんて計画を知らされてモチベーションを保てる者はいない。

 私は自分でいうのもなんだが監督としては優秀だと思っている。今の職場を何とか元気づけているつもりだ。負け越しではなく勝ち越しくらいの成績は収めている。が、それでも短大の将来をどうするのか、という一方の企画についてはよいアイデアはない。リーグ全体傾いているときにそのリーグのなかで勝ち進んでもあまり意味はない、というもう一つの現実を突きつけられているのである。困ったものである。

 が、先のことは誰にも分からない。確かに短大は今縮小しつつあるが、ゼロになるわけではない。あるいは復活なんてこともあり得る。ほんと先のことは誰にも分からないのだ。大型郊外店に客を奪われて絶滅寸前だった地元商店街が、あるところでは次世代型商店街として復活しつつあるという。むろんそれなりの知恵を働かしてであるが。やりようはいくらでもある。

 やりようはいくらでもあるはずだが、実際それじゃどうするの、と聞かれると、答えられないのが今の私である。まあ簡単にアイデアが浮かぶくらいなら、全国の短大関係者はこんなに苦労はしていないだろうが。

 先のことは誰にも分からない。それでいいのではないか。悪くなることもあれば良くなることもある。とりあえずそんな調子であと2年は監督業を続けて行かなきゃならないようだ。

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