情のない街2008/06/11 00:58

 どうも何が多忙なのかよくわからないのだがとにかく多忙なのだ。心配なのは、授業の準備がうまく出来ないこと。新しい家に移って、資料がなかなか見つからないのと、時間がないのと、それから、今年から新しい科目があるので、やり方がまだうまく掴めてないということもある。私はおそらく定年で退職するまで、この授業のやり方で悩むのだろうなと思う。

 短大生にはとても知的好奇心のある学生から、この授業自分の将来にとってどんな意味があるの?と、最初から興味を抱いてくれないリアリズムの学生まで幅が広い。文学や文化論の授業って、将来に役立つかどうかなんて考えない方がいいよ、と言ってはだめで、そんなことを考え始める前に、この授業面白いじゃんと思わせなければ負けである。今のところ私は負けてばかりである。

 「殺すのなら誰でも良かった症候群」はまだまだあちこちで現れるようだ。原因はとても分かりやすい。この症候群の当事者には、普通の人と人との関係が成立していないということだからだ。今度の秋葉原での容疑者も、携帯の掲示板で人と関係が結べない自分の情けなさを自虐的なまでに吐露している。

 その原因は格差社会とか、家庭の関係のあり方とかいろいろあるだろう。私の最近の関心で言えば「情」というものがそこに見えてないことに注目する。他者がいてこそ情は成立するが、相手が自分であったり、アニメの主人公であったり、異界の神であったりする場合、そういう他者では情は成立しない。

 秋葉原という街は、その意味では、情の成立しない他者ばかりの街である。が、若者がそこに出向くのは、たぶん、見かけは情が簡単に成立するように見えるからだ。ご主人様と言って話しかけてくれるメイドの情を、とても大切なものとして慈しむ寂しさがそこにはある。

 情愛という古典的な言葉がとても重要であるように思える。今度の症候群の容疑者も、そういう言葉とほとんど無関係に生きてきたのではないか、と思ってしまう。彼の掲示板の言葉に、守らなければならないものがいたら…、というのがあった。それがあれば情は成立したのだろうに。情がなければ人は簡単にもう失うものはなにもないと自分を追い詰める。何ともやりきれないことである。他人を殺すことによってしか自分を殺せないのは、関係の病から起こっているからである。自分だけさようならと潔くはなれないのだ。他人のために一度でも生きた記憶があれば、たぶん自分だけさようならとなったろうにと思う。

         情のない街六月の街哀れ