新ニッポン人2008/06/03 00:02

 今日の「卒業セミナー」は多和田葉子の「犬婿入り」の解説だが、上手くいかなかった。こういう授業をしていちゃいかんと反省。どうもしゃべりすぎで、こういうときは学生の反応をあまり見ていない。実は「女性作家事典」というのがあって、その多和田葉子の特集本に、私が「犬婿入り」の解説を書いている。そのタイトルは「犬婿入りの授業風景」というもので、授業で「犬婿入り」の解説をしていたその要点を書いたものだ。

 せっかくだからと、その本の解説をコピーして配り、その解説のとおりにやろうとしたら、どうも具合が悪い。新鮮さがないのである。反応もいまいちで、やはり、一つ一つ興味を引き出す努力をしながら、解説をしていかないとだめだということだ。相手の反応と関係なくこちらのスケジュールで授業をやるとだいたい失敗する。

 今日帰ったら、ビールが1ケース届いていた。送り主は知らない人。が、実は、この人ラグビーの元日本代表で、けっこう有名な人。何でこの人から、と思ったが、すぐに奥さんの姪っ子が送ったことがわかった。つまり、彼女は酒があまり飲めないので、彼女のところへ本来なら送られるはずのビールを、私のところに送るようにと手配したらしい。彼も気の毒に。

 今日の朝日新聞の朝刊に初年次教育についての特集記事があった。私のところでも、基礎ゼミナールという初年次教育の授業を全学的にやっている。必修科目である。しかも私がその責任者である。ということでこの記事を読まないわけにはいかなかった。今年は来年度に向けて基礎ゼミナールの共通テキストを作ろうと考えている。これも私が責任者だ。先が思いやられる。

 昨日久米宏司会で「新ニッポン人」という特集をやっていた。これがけこう面白かった。20代の日本人は、われわれが持っているような消費欲求を持っていない。物欲があまりなく、将来の不安を若いときから抱え、貯金をし、金がかかることはあまりしない。しかし、ボランティアや環境問題には関心が強い。

 割合私と似ているなあというのが感想。むろん、今の私にだ。若いときの私はたぶんそうではなかった。今の私は、すでに齢を重ね、まあ消費欲望なんて疲れるだけだよ、というくにらいに悟りを開いているから、そんなに消費欲望はない。いや、そうじゃないだろう、マンション買っただろうと言われると何にも言えないが。ただ、これは消費欲望ではなくて、快適な老後を過ごしたいという切実な欲求である。

 結局、新ニッポン人はそれなりに知識人になってきた、ということである。消費欲望という生の本能に近い欲望を、理性的な判断でコントロールできるようになった、ということだ。若いときのがむしゃらな欲望は、未知の未来に開かれた自分を夢見ることでもあるが、その夢も、かなえられないときのリスクを考えて抑える、という自己抑制のきいた生き方になってきている。そういうがむしゃらさよりも、ボランティアや環境問題のような身近なところて公的な生き方を実現すれば、それなりの充実感は得られる。競争して成功することで得られる充実感に価値を見出さない、ということだ。当然、欲望に苦しみながら俺は成功したんだと思う大人は、小せえ生き方だと今の若者の生き方を嘆くだろう。

 消費社会が行き着けば、こういう若者を生み出すことは当然である。これは日本だけではなく、消費資本主義が成熟していった先進国における共通な現象である。成熟した消費社会では競争はゲームであり、人生をかける価値を生み出すものではない。また、勝ち組、負け組と呼ばれるような擬似的階層社会を生みだすことで、未知への想像力をわたしたちから奪う。

 地球温暖化という未知への不安を解消する、圧倒的な未来を描く想像力をたぶんだれも持っていないし描けない。そう思いこんでいるのがわたしたちの現在である。結局、新ニッポン人とは、この私たちの作り上げてしまった現在を映し出している、ということなのだ。

   ゲームの如きこの世蚯蚓は生きる