枕詞や序詞2007/06/25 00:01

 土日は久しぶりに川越の家で過ごす。枕詞や序詞関係の論などを読んではいたが、本を読むとすぐに眠くなるのではかどらない。チビの散歩やささやかな庭の雑草取りなど、家の仕事などして、何となく過ごす。

 たぶん、土日こんなにしてられるのは今週くらいだろう。来週は、土曜に会合があり、日曜には科研関係の会合、その次の週は土曜日に学会シンポジウムと、7月の土日の予定はほぼ埋まっている。

 DVDの新作も話題作が出てきたので2本ほど見る。007の新作「カジノロワイヤル」と「武士の一分」を観る。新しいボンド役のダニエル・クレイグはショーンコネリーの次くらいの適役か。今までがひどかったから。それにしてもショーンコネリーの色気とユーモアはなまじの俳優ではだせないものなのだと思った。

 「武士の一分」は、山田洋次サムライもの三部作では一番良かったのではないか。筋に多少無理がある気かしないではない。不倫をする妻は、常識的には生きてはいないはず。なのに、最後は復活してよりを戻すのは、都合がいいといえばいいが、しかし、それが救いだといえば救いだ。この都合の良さは、ある意味では、封建社会の倫理に対する人情の側の抵抗なのだろう。そのメッセージのシンプルさがこの映画の良さということになろうか。

 枕詞や序詞とは、結局、意味を越えてしまう極めて効率的な修辞であるということである。ある意味の連続性を断ち切るところに枕詞や序詞の意義があるということだ。むろん、意味を断ち切ることで、別の意味が現れるが、それは、比喩的な効果のなかに暗示されるというような意味ではなくて、何となく立ち現れる歌の雰囲気のようなもの、と言うべきか。

 それは一種の神秘化とでも言えるかも知れない。神話の叙事は、その物語の自立した世界に読み手を巻き込むことで神秘化を果たすが、歌は、その言葉の意味の非連続の連続とでも言うべき働きによって神秘化を果たす。その神秘化を担って居るのが枕詞や序詞だと考えればよい。中西進は、その非連続の連続とも言うべき、物と心の言葉の関係は情調性だと言う。どういうことかそれ以上詳しく述べていないが、何となくわかる気がする。それを考えて行けばいいのだと思いついたのが、収穫ではあった。

    雲白く夏野を駆ける犬二匹

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