教えるのは難しい… ― 2007/06/12 00:03
今日の基礎ゼミナールはレポートの書き方の講義だったが、うまくいかなかった。つい、かつての予備校当時の講義の乗りになっていて、こちらのテンションが空回りした。論文やレポートの書き方を真剣に聞く学生は一部だけなのはわかっている。要するにプレゼンテーション能力に欠けるところがある、と実感。教員は客商売だということをこういうときはいつも心に刻む。
教えるということは時にとても難しい。文学関係の授業は、時にこちらの興味と学生の関心が重ならないときがある。どうしたら自分が面白がっているその面白さに学生を巻き込むか腐心するが、それが難しい。知識を伝えるのは簡単だが気持ちを伝えるのはやっかいである。むろん熱心聞く何人かは必ずいるのでそういう学生には必ず伝わる。が、プロとしては、それでは満足できない。全員に伝わらなくては満足できない。その意味では、教員は全体主義者に似るが、どちらかと言えば芸人といったほうがいい。知識を伝えるだけなら、インターネットの講義で充分である。ライブの乗りで客(学生)を感動させたいという欲求は教員なら誰でも持っているだろう。
ただ、そういうのは、時代の問題がかかわっていて、競争原理にのせられている面がないわけではない。それは心得ておく必要があるだろう。学生は消費者が神であるようには神なのではない。消費者は快楽を価値とするところがある。その原則を教育の場に持ち込むと、教育自体は軽薄なものになる。
最近、若い人たちの小説は何冊も読んだが、そこで感じたことは、やはり芥川賞をもらった作品は、他のわかりやすい青春小説とは違うなあというものだった。その違いは、内面の描き方である。「蹴りたい背中」や「蛇のピアス」、「ひとり日和」にしても、主人公の内面は、決して爽やかでも明るくもない。むしろ、出口のふさがれたようないらだたしさに満ちている。
他のベストセラーになるような青春小説には、それがない。何処かにある一定の快感原則が貫かれていて、不快にならないような無意識の抑制が働いている。一方、鬱々した引きこもり的な世界は、わかりやすいホラーものや暴力を主題にした物語になる。爽やか系かおたく系、といったところだ。
教育も似たところがある。ある知識には、必ずその知識を必要とする人間の内面というものが貼り付いている。その内面は必ずしも伝える必要の無いものだが、伝えてしまうのが教員の業というものだ。が、その内面は、芥川賞の作品のように快感としては伝わらない。だから競争原理はこの業を封印し、爽やか系の小説のように知識を快感で包んで提供するようにする。それがプレゼンテーション能力と見なされる。内面を伝えたい業を捨てきれない私などは、今の時代は正直辛いが、競争原理を回避してぬくぬくというわけにもいかない。学生はそういう時代を生き抜かなければならないのだ。とすれば、そういう時代を生き抜く術を、楽しく伝えるというのもまた大事なことなのだ。
教師にも六月の雨降り止まぬ
教えるということは時にとても難しい。文学関係の授業は、時にこちらの興味と学生の関心が重ならないときがある。どうしたら自分が面白がっているその面白さに学生を巻き込むか腐心するが、それが難しい。知識を伝えるのは簡単だが気持ちを伝えるのはやっかいである。むろん熱心聞く何人かは必ずいるのでそういう学生には必ず伝わる。が、プロとしては、それでは満足できない。全員に伝わらなくては満足できない。その意味では、教員は全体主義者に似るが、どちらかと言えば芸人といったほうがいい。知識を伝えるだけなら、インターネットの講義で充分である。ライブの乗りで客(学生)を感動させたいという欲求は教員なら誰でも持っているだろう。
ただ、そういうのは、時代の問題がかかわっていて、競争原理にのせられている面がないわけではない。それは心得ておく必要があるだろう。学生は消費者が神であるようには神なのではない。消費者は快楽を価値とするところがある。その原則を教育の場に持ち込むと、教育自体は軽薄なものになる。
最近、若い人たちの小説は何冊も読んだが、そこで感じたことは、やはり芥川賞をもらった作品は、他のわかりやすい青春小説とは違うなあというものだった。その違いは、内面の描き方である。「蹴りたい背中」や「蛇のピアス」、「ひとり日和」にしても、主人公の内面は、決して爽やかでも明るくもない。むしろ、出口のふさがれたようないらだたしさに満ちている。
他のベストセラーになるような青春小説には、それがない。何処かにある一定の快感原則が貫かれていて、不快にならないような無意識の抑制が働いている。一方、鬱々した引きこもり的な世界は、わかりやすいホラーものや暴力を主題にした物語になる。爽やか系かおたく系、といったところだ。
教育も似たところがある。ある知識には、必ずその知識を必要とする人間の内面というものが貼り付いている。その内面は必ずしも伝える必要の無いものだが、伝えてしまうのが教員の業というものだ。が、その内面は、芥川賞の作品のように快感としては伝わらない。だから競争原理はこの業を封印し、爽やか系の小説のように知識を快感で包んで提供するようにする。それがプレゼンテーション能力と見なされる。内面を伝えたい業を捨てきれない私などは、今の時代は正直辛いが、競争原理を回避してぬくぬくというわけにもいかない。学生はそういう時代を生き抜かなければならないのだ。とすれば、そういう時代を生き抜く術を、楽しく伝えるというのもまた大事なことなのだ。
教師にも六月の雨降り止まぬ
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2007/06/12/1573850/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。