セカイ系の勉強2010/09/14 00:58

 東京に戻り出校し雑務などして過ごす。やはり東京は暑い。参った。家に帰ってから紀要原稿の構想など練りながら過ごしたが、なかなかうまくピントがあつてくれない。結局、最初のテーマが具体性を持って現れてこないということに原因がある。

 私はレポートの書き方というものを学生にいつも講義しているが、そのとき、最初のテーマが肝心。ここでテーマが具体的にならないと、レポートは書けない、と言っているがそのことが今の自分にあてはまっている。困ったものである。

 でもそれなりに苦しんだので少しは光明がさしてきた。だが、実際さらに具体化していくと、やっぱりこの構想じゃ無理かなあということになる。そして、まだ最初に逆戻り。これを何回か繰り返す。時には七転八倒の苦しみになることもある。が、そういう苦しみを味わった方が、結果的にはいい論文が書ける。最近そういう苦しみ味わうことなく書いているので、これも良い経験である。

 必要があって前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのおたく史』を読む。実は、来年から「アニメの物語学」講座を持つことになり、その勉強ということである。日本のアニメを語る上で、やはり「エヴァンゲリオン」は外せないだろう。物語論という観点からも面白い。セカイ系とは、ゼロ年代(2000年以降の思想状況を語るキーワード)以降のエヴァっぽいアニメを語るキーワードで、この本によると「少年と少女の恋愛が世界の運命に直結する。少女のみか戦い、少年は戦場から疎外されている。社会の描写が排除されている」というものだ。代表作としては「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空 UFOの夏」である。

 エヴァンゲリオンは見ているが、セカイ系については知らなかった。エヴァっぽさとは、少年と少女が、何の説明もなく、いきなり世界を救う戦争の責任を負わされる、というものだ。つまり、少年と少女は、いきなり大きな物語のなかの当事者として登場し、その大きな物語は一切説明されることなく、その恋愛や世界を救う戦いの個々の場面のみが極めて詳細なイメージで描かれるだけなのだ。つまり、世界が今どうなっているか誰もわからない。ただ危機的状況にあることだけは確かだ。個々の閉じられた場面でとにかく必死に戦うしかない、という極めて説得力不足の状況をリアルに共有し得る、ということが、セカイ系の特徴だという。

 なんとなくわかる気がする。セカイ系の主人公は、世界を選択できないということだ。宿命のように受け入れることしかできない。それを受け入れる自閉的な自己を中心とした世界が「セカイ」なのだ。考えてみれば、これは、私などが調査している、中国の辺境にいる少数民族とよく似ている。いや、私にだってそういうところはある。大きな物語である時代や社会に属しながら、わたしたちは、その大きな物語を把握できないし、理解することはできない。その大きな物語に翻弄されながら、個々の小さな物語を生きるしかない。が、小さな物語を無視して、大きな物語だけを夢見た思想(イデオロギー)はほとんど潰えてしまった。大会はシンポジウム゛から、今小さな物語のほうにリアリティがある。が、小さな物語は今のこの不安を救うことができるのか。誰にも答えられない。

 本書の著者はセカイ系とは、そのような批判を組み込みながら展開しているのだという。とりあえず、私もこれから勉強である。
 
       九月には万物の影伸び始む