GPAレポート2010/10/02 00:44

 何というか、地獄のようなハードの一週間がようやく終わった…わけではないが、まあ来週は少しは楽だろうと思うが。

 紀要原稿を書き終え、山のような雑務をこなし、会議が目白押しで、しかも授業が始まった週で、そして、アジア民族文化学会の秋の大会の案内の発送と、こんなに仕事をしていいのか、というくらいに仕事をした。

 会議で大変だったのは、いわゆるFDの委員会で、GPAについて夏休みにレポートを書いてこいという宿題を出されていて、それをすっかり忘れていて、会議の前の晩に慌ててまとめた。GPAは、グレード・ポイント・アベレージの略。学生の成績評価を五段階(4・3・2・1・0)に分け、履修した単位の平均値の数値である。4が最高で、2.5が真ん中ということになる。2以下だと成績不良というレッテルが貼られる。2以下だと、卒業できなかったり、もっと下がると退学勧告されるところもある。

 この評価制度を文科省が推奨していて、全国の大学でも取り入れているところが多い。導入にどんな意味があるのかというと、学生の成績のレベルを一目瞭然にして、成績不良の学生を指導して、大学の教育の質を上げようという狙いである。つまり、日本の大学の教育の質が悪いのは、成績評価がいいかげんだからで、かつては単位を取って卒業すればいいんだというように教員も学生も思っていたが、国際競争の時代ではそんなんではだめだ、と文科省が言い出したというわけである。GPAは大学間の競争の激しいアメリカで発達した制度で、だいたい日本はアメリカで流行ったものは必ずまねをする。

 大学は、学生の成績をあげる努力をせよ、学生も成績があがるように勉強せよ、というように意識改革をするためにこのGPAがある、というわけだ。これも時代の流れで導入はやむを得ないのかなあと思いつつ、なんか抵抗がないわけでもない。

 学生には悪い成績を取る自由があるのではないか。その自由をこのGPAは奪ってしまう。それが心配である。つまりだ、単位が取れるぎりぎりの最低ライン程度の成績で、自由な学生生活を有効に使うという選択があってもいいはずである。授業は余り出ずに、政治活動、ボランティア、演劇や音楽とかに力を注ぐ、そういう自由を与えてくれる役割を大学は持っている筈である。ところが、GPAは単位の平均的な成績の数値であるから、そういう数値に表れない学生の活動は排除する。その結果、大学そのものを息苦しくするのではないかと、その委員会でみんなのレポートを聞きながら思った。

 私のレポートも、とにかく、GPAとは何かといったただ調べたことを書いただけのもので、あまり深く考えたものではなかったのだが、他の人の詳細なレポートを聞くに及んで、これはあんまり真面目に導入しない方がいいかな、と思うようになった。

 今は大学も全入時代で、自由が大学のいいところだ、なんて言えるのは優秀な学生の集まる一部の一流校だという声が帰ってこよう。確かにそういう面もある。多くの大学では、学生一人一人を懇切丁寧に面倒をみなければならないのが実情である。そうであってもやはり危惧するのは、排除の思考がこの制度には強いからだ。単位を取っていても、全体的な成績が悪ければ除籍されかねない制度なのである。当然、学生はいい加減な授業や成績評価に敏感になる。いい加減な教員も大変である。ちょっといいかげんな私も、たぶん大変になる。導入する側の立場にいる私なのであるが、どうも気が重い。こんなことを考えさせられたこともあって、この一週間はきつかった。

                        空高し地べた這うわれらの空

関係という物語2010/10/08 00:08

 授業で久しぶりに樋口一葉を読んでいるる。「文学を歩く」という授業で、樋口一葉の「たけくらべ」をみんなで読むのと、ゆかりの地を歩いて来ようという授業である。まずは、NHKで以前に放送した樋口一葉のドラマを見ている。一葉役は大原麗子で、ちょっと年齢に違和感があるが、まあまあ引き込まれる。年譜で24歳の生涯を説明しただけではわかりにくいのだが、さすがドラマだとすっと入っていく。ただ、ドラマには解釈がはいっているので、危ういところはある。

 一葉が恋愛感情を抱いた半井桃水の役は石坂浩二である。実物の写真に似ていなくはないが、こちらは妙に優しい好人物。ほんとうだろうかという疑念は残る。兄の虎次郎は蟹江敬三。陶工の職人になった人物だが、職人らしさをうまく演じていた。

 さて、学生に「たけくらべ」を朗読してもらおうと思っているのだが、ほとんど古文である原文が読めるのかどうか不安である。幸田弘子の朗読を聞かせながら、ということになるだろうか。今年初めて受け持つ授業だが、実は、この授業今年度で廃止。来年から「アニメの物語学」を代わりに始める。ところが、今年で終わりだというのに、意外に受講生が集まった。こんなに集まるなら残しておけばよかった。

 隙間読書で読んでいた、マイケル・サンデルの「これから正義の話をしよう」を読了。けっこう面白かった。サンデルの立場は、割合複雑である。その基本的な思想のよりどころはカントであるが、それだけではない。人が正義を実行するのは、その人の本性だとするのがカントの立場である。つまりカントの立場とは、正義を実行するとき、功利主義やある道徳的な立場に左右されるものではないとする。ただ、サンデルはカントの立場では、現実に生起する問題に対処できないと言う。例えば、二人の子供がおぼれているとする。一人は、自分の子供、もう一人は他人。この場合、子供を優先的に助けたとすれば、それは親子という感情を判断に絡めたという意味でカント的な立場では正義ではないとされる。がサンデルは、これはおかしいと言う。

 人間のアイデンティティは、実は、様々な関係の中で作られる。それを物語と述べている。従って、人間がその物語から逃れられない以上、正義という判断はその物語を切り離すことはできないというのである。ただ、それはカントを否定するということではなく、カント的立場を踏まえた上で、人の正義の判断は関係の物語にある程度縛られるのはやむを得ないということである。だから自分の子供を優先的に助けることはある意味で当然であるという。むろん、行き過ぎれば、家族や国家という関係の物語を優先させ、冷静な判断はできなくなる。そこまで優先しろとは言っていない。ただ、人間から、関係の物語を排除して、正義を判断することは無理だと言っているのである。 その意味では、家族愛や、共同体への愛、国家愛というのを必ずしも排除すべきではない、という。

 この論理なかなか現実的でよろしいと思う。ただ、どこかで懐かしいような論理だとも思っていたが、要するに、これって、吉本隆明の「関係の絶対性」というやつではないか。人は関係から逃れることはできない。思想は、人と人との関係の中で作られていくことがある。その関係の絶対性を、肯定的に人間のアイデンティティとして評価した上で、その関係の絶対性と時に矛盾するような正義への判断をどう下すか、それを究極の選択のような例を出しながら論じていく。

 カントが言うような人間の本性としての理性を信じ、かつ、関係の絶対性も排除しないという論理の組み立て方は、ある意味、いいとこ取りの思想だが、逆に、それが矛盾を孕んでいるという意味では、けっこう難しい思想だとも言える。が、案外生活の現場では、誰もが些細なことでこういう判断をけっこう繰り返しているのではないか。そうも言える気がする、とすれば、思想というより、これは「知恵」の問題だとも言えるのではないか。
 
       物語とらわれながら秋の風

スカイツリーを真下で見る2010/10/11 00:47

 今日は午後から奥さんと錦糸町駅近くのコンサートホールに出かける。マンションの住人のHさんが、墨田区で趣味でチェロを習っていて、その教室の弦楽合奏団の定期演奏会に招待されたというわけだ。メンバーはほとんどが中年以上で、素人ばかりであるが、さすがによく練習していて、それなりに楽しめた演奏会であった。

 わがマンションにはプロの音楽家もいる。時々案内をもらうが、さすがにそちらの演奏会はそれなりの料金がかかる。それに比べれば、今日はいわゆる発表会でむろん金はとらない。気軽に聴けたのがよかった。ちなみに演奏した曲はバッハの「管弦楽組曲第2番ロ短調」と他2曲。

 錦糸町は初めて行った。駅を降りたら、すぐ近くにスカイツリーが見える。こんなに近くなのである。それで、演奏会が終わって奥さんとスカイツリーに向かって歩き出した。せっかく来たのだから寄っていこうと決めたのである。錦糸町駅からまっすぐ20分ほど歩いてスカイツリーの真下に着いた。日曜とあって、結構観光客が多い。現在の高さは478メートルと書いてある。さすがに下から見上げると高いが、高すぎるのかあまり実感はわかない。

 こんな機会がないとスカイツリーを見ることがなかっただろう。Hさんに感謝である。スカイツリーの真下は東武線業平駅だが、半蔵門線の押上駅もすぐ下である。半蔵門線は勤め先の神保町も通っているし、行こうと思えばすぐに行けるということがわかった。

 行き帰りの電車で、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を100頁ほど読む。実は、昨日までに東浩紀の本『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『コンテンツの思想』三冊を一週間で読んだ。宇野常寛の本は、東浩紀を批判的に止揚したというところで、けっこう面白い。やや後出しじゃんけんみたいなところがあるが、的は射ていると思う。感想についてはまた後ほど。

                       秋の空スカイツリーか日も暮れぬ

「ゼロ年代の想像力」を読む2010/10/13 11:00

 宇野常寬『ゼロ年代の想像力』を読了。最近評論を読まなくなって久しいが、この本はお薦めである。1978年生まれだから、まだ若い。が、評論としてはかなりのレベルである。これだけ読み応えのある評論を読んだのは久しぶりだ。東浩紀の評論は、ポストモダン以降の状況を見事に整理していてその手際にさすがと感心させられるが、宇野常寛の評論は、むしろ感動するところがある。なんて言うのか、状況を整理するというスタンスではなく、どういう生き方をすればいいのか、という問いかけを直球でぶつけてくる迫力があって、とにかくその説得力は並ではなかった。

 ポストモダン状況とは、イデオロギーや国家といった大きな物語の喪失であり、個々が小さな物語に閉じこもった時代と言えるだろう。東はこのポストモダン状況のゼロ年代の推移を「まんが・アニメ的リアリズム」から、「ゲーム的リアリズム」ととらえる。

 まんが・アニメ的リアリズムは、言わばキャラクター小説のリアリズムだという。衰退した大きな物語に代わって、データベース化した物語の集積から、物語の享受者はキャラクターを抜き出してそれぞれの小さな物語を作りその世界に閉じこもる。例えばエヴァンゲリオンはキャラクターのデータベースとされ、おたくはそのデータベースから例えば綾波レイといったキャラクターを抜き出して、そのキャラクターを原作とは別のそれぞれのおたく達の小さな物語の主人公にしていくのである。これをデータベース消費と東は呼び、そのデータベース消費によって作られるおたく系のそれぞれの小さな物語に、リアリズムを見いだしている。

 例えば、「セカイ系」とは、大きな物語を失った状況下で、戦闘する少女というキャラクターをデータベースから取り出し、少女の恋愛と世界の危機を救うというあり得ない設定の物語のことだが、現実のリアリティを失った引きこもりおたくが、言わば自分の存在論的な現実感覚をキャラクター少女との恋愛と世界の終末という組み合わせに重ねた、ということになり、東はそこに新しい想像力の形を見いだす。ゲーム的リアリズムは、さらにすすんで、物語の中の人物の視点と、プレーヤーの視点と、その物語の設計者の視点とを自在に移動する物語享受者の自在な立場の移動が、リアリティをもたらすとする。つまり、固定的な物語はすでに存在しなく、ある物語で主人公が死ねばプレーヤーの視点に立って別のプレー(物語)に移動する、また、その物語の設計そのものを変更する、というように、終わりなき物語を常に変更しまた反芻する、というところが、現代の状況そのものを映し出しているのであるというのだ。

 この東のポストモダン状況のとらえ方に対して、データベース消費というとらえ方は評価しつつも宇野は真っ向から批判する。大きな物語を失った後に訪れた世界とは、それぞれが小さな物語に島宇宙のような共同体として閉じこもり、他者を排除することでその共同体を守り抜く戦いの時代になったのだと言う。つまり、引きこもっていられる状況ではすでになく、生き残りをかけて否応なしに何らかの決断を強いられながら競争しあう時代なのだという。それを決断主義とかバトルロワイヤル的状況と述べる。

 東浩紀は、小さな物語に引きこもる若者を、新しい時代の存在の仕方としてやや肯定する所もあったが、宇野はその評価はまったく間違いだと言うのである。例えばセカイ系に対する評価は、少女に決断させて自分が益を得るといった差別的決断主義とも、潜在的には女性への差別的なレイプファンタジーに過ぎないとかなり厳しい。つまり、男の子は何も決断せず、身代わりに少女を戦わせてその少女を恋愛で支配するというご都合主義の物語であり、父性という大きな物語を失った代わりに新たな母性支配の物語が顕現しているのだという。この辺りの批判は、ジェンダー論に偏り過ぎているところがあるが、説得力はある。

 現代の排除型コミュニティに閉じこもるもの同士のバトルロワイヤル的状況をどう克服するのか、というのが宇野常寛の問いである。宇野は、バトルロワイヤル的状況を避けられないのならそれを引き受け、そこから暴力性を排除し、穏やかに開かれたコミュニティを作っていくしかない、と述べる。例えば、その糸口を「木更津キャッツアイ」やテレビ版「野ぶた。をプロデュース」に求める。そこには、作られたキャラクターの共有にではなく日常そのものの中に生き生きした関係が構築できることを示しているからで、それを「ゲームの勝利では購えない(有限であり入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得する可能性が提示されている」と述べる。

 この結論の出し方はある意味で古典的でそれ故に信頼できるものである。東と宇野の違いは、こういうことだ。東は、人間の身体や生活の常識的感覚から乖離し、その人間を消費対象として翻弄していく時代状況の分析と整理に重きをおき、その状況に応じて人間の想像力は変わっていくしそこに面白さがある、というようにスタンスを定めている。これは、人間の視点というよりは時代状況という超越的な視点に立つことであり、アカデミズムの評論家だなあと思わせる。

 それに対して、宇野は、時代状況の分析は同じだとしても、あくまでも当事者における身体や生活という視点から発想する。つまり、当事者の想像力は、身体や生活に縛られるものであり、時代状況がどんなにそこから乖離しようと、結局は、人間の歴史的な営為そのものを決定的に変更することなどあり得ない。むしろ、生存するための防衛機制によって排他的になるだけだ、という覚めた見方である。

 感心するのは、排他的になる現代の若者(だけではないが)の共感の上に、どう克服するのかという論を真っ向から立てようとしてることだ。東浩紀にはこのような積極的姿勢はない。状況の新しい展開にわれわれは変わっていかざるを得ないのではないか、というような曖昧な態度でしかない。が、宇野は、はっきりと否をつきつける。その解答は「関係性の共同体を獲得する」というもので、昔全共闘の頃われわれが政治活動の中で唱えていたようなことなので、思わずこんなところに復活したのか、といささか驚いたが、いずれにしろ、とても穏やかで、地味である。が、結局は、ここに戻るしかないのではないか。

 サブカルチャーの勉強を面倒だなあと思いながら続けているが、宇野常寛を知ったことはラッキーであった。若い人にも、しっかりと人間を見据えたところから考えていく人がいるのだなあと、いささか感動したのである。
 
案山子など気にせぬ雀ばかりなり

「かわいい」とは何か2010/10/16 22:40


 勤め先では例年の如く学園祭が始まり授業はない。私の場合、来週は、出張があるので一週間授業がない。ただし、その分補講をしなければならないのが辛いところである。

 学園祭では、これも例年の通り、読書室活動の一環として、学生が中心となって古書市を開いている。今回で三回目である。とにかく古本を集めるのに苦労した。毎年出しているから、さすがに古書に出す本がない。それでも、何とか格好がつく程度には本が揃った。教員の皆さんに頼んで供出していただいた。売り上げはユニセフに寄付している。毎年感謝状をもらっている。

 今回は、展示本コーナーに私の妖怪関係の本を並べた。学生の関心が高いので集めていたのだがそれなりに揃ったで、展示したというわけである。教員の趣味でも研究でもいいからある分野の本をそろえて展示する、これは今年の新しい企画である。といってもいつも思いついた私がやっているだけだが。

 サブカルチャー系の読書が続いているが、四方田犬彦『かわいい論』(ちくま新書)、内田樹『街場のまんが論』を読む。二冊ともあっというまに読めたが、「かわいい論」はきちんとした文化史系での論で、勉強になった。内田の論は、いつものようにブログの文章を集めたものだから、勉強になるというものではない。ただ内田樹はおたくではないらしいが、少女マンガ好きだということはよくわかった。

 「かわいい論」で面白かったのは、「かわいい」と「美しい」の違いや、「きもかわ」は何故成立するのかという論点である。「きもい」と「かわいい」は対極にある概念なのに融合するのは何故か。「美しい」と「醜い」はそう簡単には一つの言葉に合体しないだろう。どうやら、「かわいい」と「きもい」というグロテスクさと隣り合わせの概念であるということだ。

 四方田はそれをフロイトの『不気味なもの』という論がヒントになると言っている。一般的に女性器を人はグロテスクなものとみなしているが、それは自分の起源の場所であるにもかかわらず、その事実が抑圧され隠蔽されてしまったために、親近感が反転して不気味に思えるのだという。つまりグロテスクだと思われるものには、人々の無意識的な抑圧の痕跡があるという。

 例えば、赤ん坊は「かわいい」と誰もが思う。だが、赤ん坊とは、われわれが一般的に人間だとイメージする人間の顔と身体から逸脱した畸形の顔と身体をもった存在である。従って、描きようによってはとてもグロテスクな顔や身体になる。例えばルネッサンスの聖母子を描いた絵画における赤ん坊はよく見るとグロテスクに描かれている。ところが、当時それを人々は愛らしいとみなしていた。つまり、そこには畸形と逸脱の身体を「かわいい」とみなす薄皮のような約束事があるからであると四方田は述べる。
 
 映画ETのエイリアンはどうみてもグロテスクである。が、映画を観ているうちに人々はグロテスクさを忘れかわいいと思うようになる。それは映画のストーリーが、「かわいい」とみなす薄皮のような約束事を作り上げて観客に刷り込んでいくからである。つまり、ETはきもいから次第に「きもかわ」になっていくというわけである。

 「かわいい」と「美しい」の違いは、対象との距離感の違いではないか。「かわいい」は触れるような近さがある。「美しい」はそれよりはだいぶ距離が空いている。触れるところまで近づくと、隠蔽されていたグロテスクさにも触れてしまうということになる。逆に、グロテスクとみなす対象に思い切って近づいてみれば、心理的な操作によって「かわいい」とみなす薄皮をかぶせて「きもかわ」くなるのだ。距離が離れているとこの操作が出来ないということである。

 内田樹の本で面白かったのは、人間のエロスに関するところである。内田は、性的な抑圧から人間的自由を回復するという発想は成立しない。何故なら、人間とは性的抑圧の効果として成立したものだからだ、と言う。言われてみればその通りである。従って、人間の主体性にエロスを統御するような能力があるはずがない。エロスを統御しているのは、人間の本性ではなくて、抑圧的な諸制度そのものである。その制度に人間が従っているのは、性的抑圧を人間的価値の形成とリンクさせてきたからだという。

 この論理を「かわいい」に適応すれば、「かわいい」は人間的価値形成に反する、ということになる。つまり「かわいい」は「美しい」よりかなりエロス的な概念であるからだ。日本の「かわいい」の使われ方が自分より弱い者に対する性的な感覚を微妙に内包させた支配の意味を持つことを考えると、そのことがよくわかるであろう。ただ、このエロス性は、成熟した女性が放つエロス性とは違う。男女という性的な分離以前の幼児的な段階における緩やかな抑圧によって顕れる、他者との未分化な感情とでも言うべきものだ。男女に分化したレベルでのエロスは、他者との同一化をエロスの努力目標とみなすが、「かわいい」は、他者とすでに同一化してしまっていることの同意を自他に強いる言葉である。
 
 いい大人が「かわいい」言葉を連発し、「かわいい」と呼ばれることに嬉々としている光景というのは、社会に、エロスを抑圧する諸制度が機能していないか未発達ということになる。つまり、これが今の日本の文化の評価ということになる。が、これは、ある意味では西欧的な人間の価値観をそのまま当てはめた言い方である。西欧では、「かわいい」は、未成熟だとみなされる。いい大人が使うべきことばではない。幼児的な段階を抑圧し、成熟することで、エロスを制御しながら大人の恋愛をしろという社会である。

 が、日本は「かわいい」を卒業せぬまま、大人の段階にまでいってしまう。だから、「かわいい」が文化になる。これは、日本人が未成熟だからか。ここからは日本文化論になるだろう。性的抑圧を人間的価値形成にリンクさせてきたという内田の論からすれば、果たして日本人は、人間的価値形成において西欧ほどうまくいかなかった民族なのか。

 仮にそうだとして、それで西欧に比べて特に日本の社会にとって不都合なことがあっただろうか。私には不都合なことがあったとは特に思えない。むろん、内田の言ってる原理的なことが違うと言うことではない。これは「程度」の問題かもれしない。日本はおそらくは抑圧の程度がとても緩やかなのだ。

 源氏物語で、光源氏が紫の上を「かわいい」という段階から女へと見なしていくその別の位相への変換点が実に曖昧である。私はこれは、性的抑圧の諸制度が実に緩やかにしか機能しない日本の有りようを象徴的に示しているように思えるのだ。

  抑圧のなきがごと今日の空高し

宮崎アニメは何故面白いのか2010/10/19 23:39

 昨日今日と家で仕事。明日から某短大へ第三者評価の実地評価に行くので、その準備である。去年、私の勤め先はやはり実地評価を受け、私がその責任者であったが、今度は私が評価を行う立場になったというわけだ。書類や資料を読み込み、きちんとした評価が出来るよう準備。夏の間に一応は目を通したが、やはり本番になると、力も入る。評価を受ける方は、たぶんかなり準備して大変であったろうから(私もそうだったので)こちらもそれなりに緊張するというわけだ。

 一方、宮崎駿を論じた本を一冊読了。それにしても、宮崎駿を論じた本で、宮崎駿のアニメをすばらしいと評価する本がほとんどないのはどうしてか。この本もそうであった。褒めるのはだいたい「風の谷のナウシカ」で、「もののけ姫」など酷評である。それ以降の作品もほとんど同じ。

 思うに、宮崎駿の作品というのは、徹底して曖昧である、というところに特徴がある。ストーリーに所々破綻があるのは誰もが指摘する。宮崎駿のアニメのメイキングなどを見ると、宮崎は途中でけっこうストーリーを変える。大きな物語の骨格に従いながら、当たり前すぎてまつらないとストーリーをけっこう変えていく。こういう作り方がストーリーの矛盾や説明不足を生んでいくのであろう。そのため、ストーリーのメッセージ性が何となく曖昧になってしまうところがある。

 「風の谷のナウシカ」はある意味で戦闘少女の走りであり、おたく達がかなり萌えたアニメだが、宮崎はその後戦闘少女を描かなくなってしまう。セカイ系の流れに迎合したくなかったのだと思われる。何故いつも少女なのか、とは必ず出る問いだが、やはり、時代的におたく系の感性を持っていることは確かだろう。おたく系とは、父性との対立(父殺し)を最初から放棄した人たちである。彼らを守るのは母親であるが、その母親を克服しないと自立出来ないという矛盾を抱え込んでいる。従って、母親のいない少女、すなわち誰にも守られず、いきなり世界の危機と向き合う少女に感情移入することで、矛盾した母性との関係を克服出来ると思う、というわけだ。しかも、その少女の愛を一手に引き受ける男の子に感情移入すれば、少女は母ともなる。まさに、おたくにとっての母の両義性を少女は体現しているというわけである。

 この母との関係を宮崎駿もまた持っていると思われる。宮崎作品の主人公が少女である理由はこういったところに求めることができるだろう。だが、宮崎駿はおたく系のアニメ文化に対する嫌悪がある。これは、ある意味自己嫌悪に近いところもあるが、当然、その嫌悪感は作品に反映されているはずで、そのことも、いわゆるおたく文化が作り出したジャパニメーション的作品でもない曖昧さの理由になっていると思われる。

 宮崎駿は徹底してディズニー的なエンターテインメントに徹しきれない。かといって文芸路線でもない。「もののけ姫」のようなややエコロジスト的イデオロギーを意識するが、あえてそれを肯定せず中途半端になる。

 以上の他にも宮崎作品の曖昧さはかなりあげることができそうだ。が、それでも宮崎作品は圧倒的な面白さを持っているのは何故か。作画のうまさや細かなストーリー運びのすごさをあげる評論家は多い。そのことは、整合性のあるストーリーや明確なメッセージ性などなくてもアニメは充分に面白く作れるということだが、ただ、やはり、それでも宮崎作品の面白さは語られていないと思う。やはり、この中途半端さにむしろ面白さの理由があるのかもしれない、などと思うのだが。

 作品の評価とは、その作品にある意味を見いだしていくことだが、宮崎作品に意味を見いだそうとするとどうもうまく見いだせない。だから、これはつまらない作品だと評価するが、みんなが面白いと騒ぐものだから自信がなくなり、あらためて見直すとけっこう面白い。それで余計どう評していいかわからなくなる。私が読んだ本にそう書いてあった。なるほどなと思った。私もそうだったかもしれない。 

膝掛けは在処にあるやらやや寒し

秋田から帰る2010/10/22 23:55

 秋田から帰る。秋田市には初めて行った。二泊三日だが、駅前のホテルと評価に訪れる学校との往復である。観光どころではないので、秋田がどういうところか味わう暇がなかった。新幹線で東京から四時間。行き帰りほとんど寝ていたので車窓を眺める、ということもなかった。

 仕事は何とか無事終了。私の役割をそれなりに果たしたのではないか、ということで安堵。ただ、報告書を書かなきゃいけない。これからそれで大変。

 秋田の街は普通の地方都市でどこも同じだという印象。学校は郊外にあったが、郊外の風景もほとんど全国同じで、紳士服とか靴とかその他いろんな全国展開の量販店が同じようにある。地方都市に来たなあ、と感じたのは、学校の校舎から遠くに男鹿半島と海がみえた時である。この時、この学校いいところにあるなあと感じた。ただ、それだけ郊外にあるということで、そのことは、学生集めに苦労する要因になる。今時、どこの大学でもそうだが、良い環境に位置するということは不利なのである。それは交通の便が悪いということを意味するからだ。

 人・モノ・情報の効率的に集まるところが、結局は文化の中心地になってくる。大学の立地も、今はそういった環境の近くを求めつつある。大学が都市の中心に回帰しつつあるのだ。知識を習得し教養を身につけることは、静かに思索にふけるに適した環境ではなくて、膨大な情報が瞬時に手に入り、それを生かせるような人と人とが集まる場所でないとだめなのだ。現代のネット社会における知識の習得とは、情報の処理であって、情報化ではないと、養老孟司がテレビで言っていたが、それは大学の環境にもあてはまる。情報化とは、身体的な知覚で得られた情報を、抽象化して頭の中にインプットする作業。この作業は多少時間がかかるので静かな方がいい。情報の処理とは、瞬時の整理であって、静かな環境である必要はない。むしろ、大量の情報が集まる場所でないとこの作業は出来ない。

 その意味で、地方の大学は学生集めに苦戦するということになる。多くの若者は、情報化ではなく、情報処理のスピードを自分の能力として求めたがるからだ。都市の大学で学べば何となくそれが可能になるかのような気分になるのだろう。だが、都心の真ん中にある私の勤め先にそれなら学生が集まるのかというと、そんなこともない。都心は競争が激しいということがある。立地条件の良さだけでは生き残れないというのも、都心の大学の宿命なのである。

 そんなことを考えながら、東京に戻る。明日はアジア民族文化学会の大会である。実は、大会の準備をしてから出張に行ったのだが、その時懇親会の予約をいつもの中華料理店に入れておいた。ところが、E君から連絡があり、神保町の居酒屋から明日の予約は何名か問い合わせがあった、という。えっ、なんで、だれが予約したのだ、と聞くと、どうも夏休み前の研究会のときに、そこに飲みに行って秋の大会の懇親会を予約したらしく、その場に私もいたというのだ。まったく忘れていた。そのように言われても思い出せない。これはかなり歳のせいと言うべきなのか、ほんとうは私がその場にいなかったのか、でも最近物忘れが激しいから歳のせいだろう。とにかく、懇親会のダブルブッキングである。いつもの中華料理屋をキャンセルして、何とか解決。これからこういうことが増えそうである。

                      そぞろ寒わたしとわたしそれだけで