品格って何だ2010/02/05 23:12

 今日は、家で仕事。仕事とは、基礎ゼミナールのテキスト作り、採点、「アジア民族文化研究」の原稿、シラバスの作成、といろいろある。まずは基礎ゼミのテキスト作りをやる。「レポートの書き方」のバージョンアップ編を記述。

 ニュースは朝青龍の話題一色。相撲界にとって朝青龍は必要な存在。彼がいることで相撲界は盛り上がった。が、品格がないという理由で引退へ。しかし、品格を問うなら稽古での暴行で若い命を奪った事件の責任をうやむやにし、理事の選挙で誰が貴乃花に投票したかを追求したあの親方たちも者みな品格はない。

 よくわからない品格を建前としてかかげる相撲界そのものが、たぶん品格とは縁遠い世界である。そして、縁遠いからこそ、相撲界はいまだに生き残っているのであり、盛況だということではなかろうか。むろん、品格は建前でも、無ければ伝統という看板をかかげられないので困る。そして、世間でも、相撲取りはそんなに品格があるわけでもないことをわかっているので、たがを外さないように伝統という縛りをかけているのだろう。

 伝統とか品格というのは、人格のことではなく、土俵の形とか、対戦前の四股の踏み方とか、様式としての振る舞いそのものなのである。その外形的な型そのものを維持することはそこで生活する人にとっての生命線だから、型を守らない行為には厳しい。朝青龍の問題はその型を逸脱してしまうほどに個性を発揮してしまった、ということだ。が、ほんとうの問題は、その型を守ることが、現代の社会の品格から逸脱し始めている、ということなのだが、相撲協会はそれに気づかない。あの理事選がそれをよく物語っている。

 その意味では、朝青龍は、相撲界が本質的に抱え込んでいる時代との乖離というジレンマを隠蔽するためにスケープゴートにされた、という見方も出来ないことはない。相撲界も興行面での収入減を考えれば引退させたくはなかったろう。今一番困っているのは、建前でしかない品格問題で引退まで追い込んでしまった相撲協会だと思うのだが。

 昨日まで二日間で、書籍を15万円ほど買う。学校の個人教研費の図書費が残っていたので、とにかく限度いっぱいまで買った。伝票での注文はすでに締め切りを過ぎていたので、自分で本を買ってその領収書を提出するかたちになった。それで書店に行って本を買い求めたのである。

 こういう時に大学が神保町にあるというのは助かる。新刊でも古書でも、また専門分野の本もだいたいすぐに揃う。買い求めた本は、ほとんどが来年度に授業で必要になる本である。あと、中国関係である。神保町には、内山書店と東方書店があるので、これもだいたい揃う。

 来年度から演習の授業で宮沢賢治をやることにしたので、宮沢賢治の本をだいぶ買った。宮沢賢治に関しては、私は論文は一本しか書いていないので(それでも一本書いているのがすごい、しかも洋々社の『宮沢賢治研究』に書いている)、あまり詳しくないのだが、とりあえず適当に買い揃えた。この授業どうなることやら、心配である。

 今年度は中国調査に行かなかったので、その旅費を図書費にしたので図書費が増えたということがある。来年度は、図書費の分をパソコン購入費用にまわす予定なので、来年度分の図書費を今年使うという具合になった。

 ただ、本を買うたびに置く場所が無くなるのと、処分する時に大変だろうなあと、心配になる。本の置き場所は、今、研究室と、自宅であるが、山小屋にもかなり置いてある。引っ越しの時にだいぶ処分をしたが、もうどこもすでに満杯で、実際床に山積みの状態になっている。

 地震で本の下敷きになって亡くなった人の記事を読んだのは最近だったような気がする。このままだと私も犠牲者になる可能性がある。かといって読んだから本が消えていく訳ではない。そこがやっかいなところだ。捨てるか売るか、だが、それができていたらこんなに本は貯まってはいない。もう買うまいと思うのだが、仕事柄そうもいかない。悩ましい問題である。

  型通りいかぬことばかり春寒し

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