御柱シンポジウム2010/02/02 23:54

 授業も終わり、採点の時期に入った。一方来年度に向けての様々な雑務も毎日のようにある。忙しいのだが、これから4月の新学期に向けての期間は、今年書く論文のことや、学会の企画の準備やらで、とにかく勉強の時期である。授業が始まると、何も出来なくなるので、この2月・3月が勝負なのである。

 特に今年は、4月に御柱があり、諏訪でシンポジウムをやる。諏訪博物館と共催なので、このシンポジウムを何とか成功させなければならない。そのためにはまず勉強である。シンポジウムは、「変身する樹木」でやろうと考えている。樹木は不思議な存在で、それ自体自然物でありながら、同時に、聖樹と言われるように幻想的な存在である。一方、樹木は、切り倒され加工される。柱になったり楽器になったり様々な事物に変身する。が、むそこでも、やはり、幻想をまといつづける。

 「御柱」は、聖樹という幻想上の存在であり、柱という文明の事物となり、あるいは神の依り代か、曳かれていく行くときは蛇のような神体として幻想されもする。とにかく、自然が人為的に加工されて変身していくプロセスに、様々な幻想が付加されていく、そのところがこの祭りのおもしろさである。

 同じ自然物でも、石にはそのような変幻自在さはない。樹木は、世界樹として神話的にはこの世の起源として語られる。そして、われわれの住居の柱であり、ついには割り箸にまで変身する。ここまで、ピンキリに変身を遂げる物というのは樹木だけだろう。

 神聖な樹木なら伐ることは罪である。が、伐らなければ人間の生活は成り立たない。つまり、最初から本質的に矛盾的存在なのも樹木なのである。生命は神聖なものだが、その生命を食べなければ人間は生きていけない。こういう矛盾と同じである。絶対的な神は、そういう矛盾を克服しているが、アニミズム的な神は、そういう矛盾そのものの象徴として顕れる。その意味では常に境界性そのものなのである。つまり、樹木とは、境界性そのものとしてのアニミズム的な神である。異界的なモノであり、同時に文明的有用性そのものとしての物であるということだ。

 そういった樹木の不思議さを、具体的な変身の事例などを通して、パネラーに指摘してもらえば、このシンポジウムはなかなかおもしろくなるのではないかと思っている。4月24日・25日に諏訪市文化センターで行う予定だ。私も企画者として何か話さなければならない。その準備もあるので、私は今気分が晴れないのだ。

春待つ樹木黙々と仕事せり