身をよじる抒情2006/10/26 20:52

 帰りの電車、シルバーシートの前で立っていたのだが、赤ちゃんを抱いた若い母親が座っていた。その赤ちゃんが大声で泣き出しこれが泣きやまない。周りは、通勤時間だからほとんど男で、シルバーシートはくたびれた勤め人ばかり。わたしもそうだが。母親は必死にあやす。周囲はどうしていいか分からずただ黙りこくるばかり。中には迷惑そうな顔の奴もいる。こんな時間帯に赤ん坊と乗るなと言いたげである。中にはにこやかに母子を眺めている人もいる。わたしはこの後どうなるだろうかと気になりながら川越で電車を降りた。泣き声というものは力のあるものだと感心しながら。

 津田君はブログでハードボイルドな抒情という言い方をしている。その言い方が気に入った。抒情を抜きにはたぶん和歌は語れないだろう。言葉遊びのような言語ゲームのレベルで和歌を見ることも当然有りだが、例えば折口は、そのような言葉遊びそのものの起源に憑依したシャーマンの口調を想定しているのは確かだ。
 ただ、その時に、憑依したシャーマンの身体性に眼を向けるべきだ。そこにはかなりの苦痛が伴っていたはずだ。神の側から言葉をこの世に送り出すときには、それなりの衝撃が伴うのである。
 和歌の抒情はほとんどが悲しみから出発している。それこそ山折哲雄の言う「身をよじる抒情」である。例えば挽歌がそうだ。その悲しみの起源は、身をよじるような身体の衝撃だったはずだ。それこそ、あの世との往来を身体レベルで果たそうとしたこの世の身体の試みである。
 そう考えたとき、抒情はハードボイルドになる。こういう視点で和歌を語れる人はいないものか。山折哲雄はちょっと偉すぎるなあ。難しいところだ。これは来年の古代文学会の企画の話だ。
 
     身をよじる抒情はありや鳳仙花

     末枯れの勤め人らに赤子泣き

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