『憲法九条を世界遺産に』を読んだ2006/10/07 00:19

ある雑誌を読んでいたら、企業で出世するための条件としてストレス耐性があるかどうかだということが書いてあった。つまり、仕事で失敗をした後にそれに落ち込んで立ち直れない奴は企業社会では生きていけないということだ。なるほどと思ったが、ストレス耐性があるかどうかは企業だけではなく現代社会ではあらゆる場面で必要とされる資質だろう。

この私にストレス耐性があるのかどうか。あんまりないという気はする。失敗したときはけっこう落ち込むし、元気に立ち直ったという記憶はあんまりない。ただ、あんまり引きずった記憶もない。私の場合、ひどく落ち込むがだいたい三日経つとそのことを忘れるように出来ている。これもストレス耐性なのだろうか。だから、落ち込んだときはまあ三日我慢すれば何とかなるだろうと思うことにしている。むろん、三日経って忘れないときも多いのだが。

ただ失敗は多い。いつも失敗ばかりしている気がする。これは、たぶんに反省というものをきちんとしないからだ。自分の嫌な部分を直視したくないのは誰でも同じで、私の場合忘れるのは得意だが、それに向き合って克服するなんていう前向きの対処は不得意だ。その意味で不経済な生き方をしている。最初失敗したときにちゃんと学習しておけばこんなに同じ失敗を繰り返さなくてもすむのに、と思いつつ、いつもまたそのままほうっておく。

まあ人生そんなもので、「しょうがない」のだ。「しょうがない」は私の口癖で、とりあえずしょうがねえなあとつぶやきながら自分の失敗や他人の失敗をやり過ごす。怒ったりはしない。とりあえずこんなやり方で何とかうまくはいっている。

中沢新一と太田光の『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)はけっこう面白かった。確かに憲法九条は思想信条によって護る対象ではなく保護もしくは保存の対象なのだ。九条を消去した憲法改正はバーミヤンの遺跡をダイナマイトで爆破するようなものなのだ。その後にくる精神の荒廃に日本人は耐えられるのか?とこの本は問うている。耐えられるとは思うがやはり空虚感が漂うだろうなあ。

その空虚感の由来を中沢新一は近代が切り捨ててきた生命原理のような古代性の喪失に求める。憲法九条は純粋であるが故に神話であり、神話であるが故に、発展していく世界の欲望の対極にある本質なのだと言うのだ。そこまで言うか、という感じだが、分からないことはない。太田光の方は、理想と現実のせめぎ合いの中で身動きの出来ない良心の、いわば、捨て身の戦略といったらいいか。どうせ神話なら、もうすでに日本人のアイデンティティそのものと化したバイブルなんだと神話を徹底化し、しかもその日本人はドンキホーテみたいなもんで、このドンキホーテを笑う奴はいても馬鹿には出来ないんだと言っているのだ。

さてこの憲法九条、わたしたちはこれを保持していくしか「しょうがない」んじゃないか。九条は、戦後のどさくさに奇跡のようにして出来た条項だが、この奇跡には、世界戦争で何千万と死なせてしまったことに後ろめたさを持つ世界の人々の無意識のバックアップがあったろう。そして、解釈改憲の侵略に耐えながら生きながらえてきたのは、やはり、荒唐無稽な神話を憲法に持つ国が一つくらいあってもいいという世界の国々の暗黙の了解がある、と考えてもいい。

とすれば、この九条の破棄はなかなか勇気がいることだ。ドンキホーテが幻想を失ったら、普通の人になるのではなく廃人になるしかない。だから本の中でも触れられていたが、冷静なサンチョパンサとともにドンキホーテ日本人はこの憲法を、世界遺産として守っていくしかないのだ。憲法九条が無くなると世界が悲しむだろう。その前に日本人が廃人になる危険性がある。

世界が憲法九条のあまりにお人好しな荒唐無稽さを日本に託してるかぎり日本の安全保障は保証されると思われる。無防備でありたいと宣言する国を侵略する勇気を持つ国は、今の世界にはいない。ドンキホーテと本気になって喧嘩する奴がいないようにだ。

現代世界のように、核のバランスによって先進国の国家間の均衡が成り立つ限り、先進国への武力侵略は起こり得ない。もし起こったらそれが世界戦争になりそれが引き起こす結果(最終戦争)を誰もが知っているからだ。言い換えれば、そのような戦争の不可能さの上に、この九条は起き上がりこぼしのように生きているのである。アフリカの血で血を洗う国家間抗争のただ中にあるような国には九条は成立しないのである。

つまりドンキホーテが幻想を追いながら生きていられる根拠はそれなりにあるということだ。言い換えれば、日本が世界の核の均衡の一部に組み込まれているからこそ、九条は輝きを帯びているのだ。核を否定する平和思想ということではなく、核という絶望によってしか平和を保持出来ない人間のだめさかげんや、言いしれぬ不安を時に癒してくれる象徴として、憲法九条はあるのである。この癒しを失った人間は荒廃していくしかない。武力による均衡によって平和というものは成り立つ、それがリアリズムなのだとうそぶいていられるほど人間は強くはないのだ。

だから、わたしたちは「しょうがなく」憲法九条を世界遺産のように保護していくしかないだろう。九条があることによって引き起こされる不安より、それを無くすことによって引き起こされる不安の方が遙かに大きいからだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2006/10/07/550892/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。