無防備になる2006/12/25 00:44

 大きな仕事を終えてとりあえず何もない一日を送っている。疲れが出たせいか午前中からやや貧血気味。でも、山小屋への大移動の準備をしなくちゃならない。中国で買ってきたイ族関係の本やら、和歌の本やら、そんなに読めるはずもないのに、とりあえずは詰め込む。年末年始はだいたい山小屋なので、荷物もいつもより多くなる。

 新聞や郵便物は留め置きをしてある。だから、大事な手紙などはださないでほしい。正月が過ぎないと私は見ることができないのです。

 川越の隣の狭山に住むKさんの所に寄る。昨日知り合いの所の恒例の餅つきに行けなかったので、ついた餅があるので取りに来いというので寄ったのである。娘が子供を連れて遊びに来ていた。Kさんの孫だが上はもう八歳になる。彼とは同じ歳だから私にも同じ歳の孫がいてもおかしくはないのだ。そう考えるとおかしな気持ちになる。

 まあ私も歳をとったわけだ。彼の娘もその子供も生まれたときから知っているので、他人のような気がしない。外見はすっかり若くはなくなってきたが、意識の中では年を取るという感覚がよくわからない。身体的な衰えというのは確かにあるが、それは、歳を取らなくたってあることだ。

 いつも鏡を見て生きているわけではないから、歳を取るという実感は日頃意識しない。ただ、友人や奥さんを見ながらみんな歳をとったなあなどと感慨にふける時にふとそういえば俺だって、そう見られているのか…と思うときが、多少老けたのを自覚する時だ。

 老いを悲しむのは古典的な詩のテーマだ。万葉集にも歌われている。理屈で考えれば、身体の束縛からだんだんと自由になるのが老いだから、つまり、神に近づくというわけだが、それなりの神秘の世界に近づけるのも老いなわけだが、それを楽しむのはやはり相応の修行が必要だろう。老いは悲しいもの、人の世のはかなさとしてだいたいは歌われる。

 まだ老いたわけではないが(主観的にはまだ働き盛りの壮年です)、そのように歌うことはわかる気がする。人間は本能的に自然に抗うところがある。若いときには、若い肉体に抗い、肉体の束縛のない自然にあこがれ、老いてくれば老いという宿命とも言える自然に抗い、暴走気味の肉体にとらわれる若さにあこがれるのだ。そういうものなのだ。恋にあこがれる老人はいても死にあこがれる老人はいない。そこが若者と違うところだ。死をあこがれと語れるところが、若さの特権なのである。

 山小屋でチビの相手をしている時は無邪気になれる。人がペットを必要とする理由がよくわかる。ペットはどんなに歳をとっても赤子と同じなのである。人は赤子以外の人には見せることのない自分の無邪気さをペットには見せる。ペットの前で人は無防備になる。それは歳というのものを超越してしまうことだ。ペットが癒しになるとはそういうことだろう。むろん、チビは私を無防備にする。その癒し効果はかなりのものである。

   サンタなどこしらえごとだと言いし頃  

   たまらずに犬に頬ずり年の暮れ

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