ホームセンターと忘年会2006/12/18 01:10

 久しぶりに日曜は川越である。午前は遅く起き、少し本を読む。午後、紳士服のアオキにズボンを買いに行く。最近毎日のように仕事に出るものだから、仕事着が必要になる。こういうのは経費で落ちないんだろうか。けっこう洋服代がかかる。その後、川越の郊外に出来たカインズホームセンターに行く。

 開店したばかりでとにかくうんざりするほど混んでいた。それにしてもでかい。これも今流行の大規模な複合型ショッピングセンターで、ホームセンター、スーパーマーケット、ツタヤ、電気店といろいろある。駐車場もばかでかい。川越郊外にはこういう大規模ショッピングセンターがいくつかある。これじゃ、街中の商店は潰れるわけだ。今日、行ったのは、川越の北側で圏央道のインターが出来る予定の国道沿いだが、埼京線の南古谷近くにある大規模ショッピングセンターは、大型マンションとセットになっていて、カートを押しながら自宅の玄関までいけるというのがマンションの売りになっている。

 実は私はホームセンターに行って買い物をするのが嫌いではない。これでも山小屋の薪小屋とか物置などは自分で作った。大工道具も揃ってるし、従って、ホームセンターに行くとつい道具とか建材とかに眼がいってしまう。

 家に戻ってから、急いで上野に向かう。今日は短歌結社「月光の会」の忘年会。久しぶりに福島泰樹と会う。いつ会ってもエネルギッシュだ。あまり寝ていないという。寝ると気が入ってしまって寝付けないのだという。私とは大違いである。私はどんなに仕事をしていても寝付けなかったことはない。だから、本が書けないのだなあ、と思った。

 家に戻ったのは10時を過ぎていた。それから読書。とまあ、こんな風に一日が終わる。

 『国学の他者像』を読み返しているので、少し考えたことを記しておく。国学者が和歌に注目するのは、和歌の「情」が規範を逸脱する過剰さを孕むものなのに、それが、人のこころのあり方として穏やかに治まる、その論理をいかに見いだすかにあった。この問いは、中世仏教の衰退によって、仏教の規範では説明できないものとして和歌を自覚するようになったこと、そしてまた儒教ともども外部の論理を排するということとして現れる。

 別な言い方をすれば、恋という過剰な「情」を、表現の普遍性として持つ和歌の不思議さにあらためて気付いたということだ。それを仏教や儒教という外部の論理でない方法でどう説明づけるか、そこにそれぞれの国学者の思想のポイントがあった。だいたいは、古(いにしえ)という価値もしくは「神道」的な価値において説明づける方向に落ち着くのだが、その具体的な展開自体は、自然と直接に接するような人間の存在を価値とし、そこから離脱することで(理屈っぽくなることで)、人は汚れていくのだとする。ルソーとよく似ている。

 折口信夫が国学に傾倒していたことがよくわかる。ある意味で、折口も同じ発想だと言えるだろう。国学者達は、和歌を通して、人間(こころ)の(自然と不可分のような)直接性を発見したのである。それが和歌の内面ということである。

    風邪の神来訪するとや手を洗ひ
 
    言の葉をめくればひとつくさめする