詩の共同体 ― 2006/12/14 00:06
どうやら少しずつせっぱ詰まってきたようである。いつもこういう感じで生きてきたから、慣れてはいるが、せっぱつまると風邪をひく。今年はどうだろうか、一応インフルエンザの注射は打っておいたのだが。
学校の仕事も結構せっぱつまってきた。来年度は改組やら教養教育の全学的改革やらで、今が正念場だ。来年のシラバスを書かなきゃいけない時期になってきたので、教員達が、改革によって自分が予期しなかった授業を受け持つことに気付き、どうシラバスを書いたらいいのか悩み始めるころなのだ。
結構風当たりも強い。改革を進める側に立ってしまうことの宿命みたいなものだ。別に好きでその立場に立ったわけではないが、いつもこういう役回りになるのはどうしてか。改革好きの顔でもしているのだろうか。そのはずはないのだが。
今、頭が和歌のことでいっぱいになっている。どういうわけか、和歌に関するシンポジウムやら座談会やらの企画が重なり、こりゃあ勉強せなあかんといろいろと読み始めている。そんなに和歌好きではなかったのに、何でこうなってしまったのか。それもよくわからない。ただ、言えることは、和歌は、身体というレベルでの超越性に支えられている、という気がしていて、それは案外大事なことではないかと最近気付いた。
俯瞰的な位置からの超越性ではなく、身体の中に沈み込むようなふるまい(ふるまいという言葉はY氏の用語だがとても気に入っている。)の超越性。この超越性によってわたしたちは言葉の共同体、別の言い方をすれば「詩の共同体」を作り上げているのだ。さらに別の言い方をすれば「叙情の共同体」とも言えようか。
盤石を穿ちたる穴の水涸るゝ
冬の水の定まらぬごと帰途につく
学校の仕事も結構せっぱつまってきた。来年度は改組やら教養教育の全学的改革やらで、今が正念場だ。来年のシラバスを書かなきゃいけない時期になってきたので、教員達が、改革によって自分が予期しなかった授業を受け持つことに気付き、どうシラバスを書いたらいいのか悩み始めるころなのだ。
結構風当たりも強い。改革を進める側に立ってしまうことの宿命みたいなものだ。別に好きでその立場に立ったわけではないが、いつもこういう役回りになるのはどうしてか。改革好きの顔でもしているのだろうか。そのはずはないのだが。
今、頭が和歌のことでいっぱいになっている。どういうわけか、和歌に関するシンポジウムやら座談会やらの企画が重なり、こりゃあ勉強せなあかんといろいろと読み始めている。そんなに和歌好きではなかったのに、何でこうなってしまったのか。それもよくわからない。ただ、言えることは、和歌は、身体というレベルでの超越性に支えられている、という気がしていて、それは案外大事なことではないかと最近気付いた。
俯瞰的な位置からの超越性ではなく、身体の中に沈み込むようなふるまい(ふるまいという言葉はY氏の用語だがとても気に入っている。)の超越性。この超越性によってわたしたちは言葉の共同体、別の言い方をすれば「詩の共同体」を作り上げているのだ。さらに別の言い方をすれば「叙情の共同体」とも言えようか。
盤石を穿ちたる穴の水涸るゝ
冬の水の定まらぬごと帰途につく
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