肉を食う2006/12/21 00:55

 今日は今年最後の授業。「遠野物語」演習はレポートの締め切りで、全員ではないがほぼ揃った。私は演習の仕上げとして毎年レポート集を作ることにしている。従って、レポートは書式を決めてワープロで打ったものを提出させる。だいたい4000字程度のレポートである。少ない枚数ではない。印刷してレポート集に製本して全員に配る。レポート集は取っておいて時々人に見せる。つまり、自分のレポートは公開されるということになる。当然、あまりに変なレポートは書けない。毎年やっているが、みんなけっこうきちんとしたレポートを書く。

 今日は河童の発表だったが、発表者がよく調べてきていて、みんなの質問に饒舌に答えていた。私も知らないことなどけっこうあった。それにしても日本の河童伝承はすごい。ぶ厚い『河童伝承大事典』もある。日本人は水辺の妖怪めいたものはみんな河童にしてしまう。いまだに河童目撃譚があちこちで語られる。日本人は本当に河童が好きなのだ。

 地域文化論では、イ族の祓い儀礼のビデオを見せた。羊に家族の汚れを付けて羊を殺しあの世に持っていってもらおうという儀礼である。子どもも一緒になって羊を殺す。その場面はビデオでは見せなかったが、それでも残酷だという感想は多い。確かに、わたしたちの生活では動物を殺すなどという場面を目撃することはないから残酷なのはよくわかる。私だって、保健所で処分を待つ犬など見ていられない。

 でも、中国ではそういうつまり動物の供犠の現場に出くわせばそうは思わない。慣れというのもあるが、そこには、そうすることで成り立つ生活というものがあり、その生活の場に身を置けば、動物を殺すことはわたしたちの生きることそのものであると自然と思うからだ。保健所で犬を処分するのは、そうではないから可哀相なのだ。

 世界のほとんどの地域では、食肉確保のための家畜文化を持つ。日本は農耕用の動物は飼うが食肉用の家畜文化を持たない。さらに、都市的な文明は、動物の死と食とを完全に切り離した。だから、豚肉のその向こうに豚の死があることを想像しないですむ。が、本当は、動物を食べることはその死を食べているのだ。現代の日本人はその意味では、他の国の人たちに比べて動物の死にうぶなのである。

 その意味で人間が生きていくための動物の死を教えるのも一つの教育であるのだろう。死の光景を忌避する感性はそれもまた大切だが、現としてあり、それに深くかかわっていながら、自分だけは見ないで快適に生きようなどという態度が、いつまでも通用するとは思わない。が、残酷なのは趣味ではないから、動物の死の場面は見せない。ただ、そういう場面を残酷だと思う自分が矛盾しているということを知ることが出来ればいい。

      寄せ鍋の煮え立つ汁に声高く 

      靴下の届かぬ脛が冷たかり

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