中国の宗教ブームがすごい2013/10/14 23:07

 今、教科書というテーマを与えられて論文を書かなきゃいけない。それで苦しんでいる。柳田国男は戦後直ぐに教科書作りにのめり込んだ。そのことを書こうと思っているのだが、参考文献が多くて困っている。時間がないのだ。おかげで、紀要の論文をキャンセル。その割には、古本市の読書は止めていないのだが。これは、ストレス解消。だから、どうしても、外国の冒険ものやSFに傾く。日本のは、発想はいいのだが、リアリティにかけるので、いまいちのれないのだ。これは映画と同じ。日本の映画は、抒情が入り、展開にテンポがない。だから、ストレスがたまっているときは、日本の映画は観ない。これは、エンター系の物語も同じだ。

 柳田の民俗学は、その性格からいってもともと教育的な性格を持っていた。柳田は、戦前から民俗学の教育的な方向を実現させようと考えていた。それは、彼の児童向けの文章に結実する。青年や大人向けに、歴史や国語の問題を語っても、簡単には、動かせない。だが、子供向けなら、柳田の理想は実現出来る、と考えたのかどうかはわからないが、「村の学童」などという文章は、教育的配慮に満ちている。

 それが敗戦によつて、社会科という教科が新設され、柳田に教科書を作るチャンスが訪れた。自分の学問の方法をそっくりまるごと教科書に反映させるチャンスなのである。柳田は当初、子供の教育に教科書は必要ないと言っていたが、やはり教科書つくりに熱心に乗り出す。考えて見たら、自分の学問の方法をそのまま教科書に反映させることは、日本の子供の社会科教育を、柳田の理想の方法で行うことになるのである。こんな機会を逃すものなど誰もいないだろう。

 が、結局、作った教科書は期待したほどにひろがらず、消えていく。この過程を辿りながら、柳田の考える教育を貫いた思想とはどんなものだったのか、それについてちょっとでも考えようというのが今考えている論の趣旨である。柳田は、選挙にきちんと自分の考えで投票できる人間を作ることが民俗学の果たす役割だといっているのだが、民主主義の根幹のようなこの考え方をどう受け取ったらいいのか、これか案外に難しいのだ。そのままでは、確かに、近代民主主義の原理的な考え方だが、ただ、どうも、自分の考えを持つ人間、というニュアンスを、そのまま近代の自立した個人というレベルで受け取ると、柳田を理解したことにならない。ここいら辺の理解の仕方に実は悩んでいるところなのだ。

 柳田は集団の意見に引きずられる個を批判するが、一方で、群れの力の持つ知恵を評価する。突出した個がいなくても、人々は共同体の中でそれなりに上手く世の中を切り盛りしてきた。それを学校では教えてくれない。だから民俗学で学ぶべきで、そこに民俗学の教育的な役割があるというのである。とすると、集団に引きずられる個は、一方の共同体という集団の中では、智恵を生み出す当事者の一人でもある。前者と後者は日本という社会の中では矛盾しない。とすれば、前者を批判し、後者を評価する、というのは論理としてはおかしなことになる。柳田を読んでいると、こういうことにいつもぶつかるのである。といったことをどう評価していくのか、そこが問われているのだ。

 昨日、NHKの特番で、中国社会がいま宗教の勢いがすさまじく拡大しているドキュメンタリーを放送していた。キリスト教の信者はかなりの勢いで増えつつあり、一億人に達するのではないかという。一方で、儒教もまた宗教のようにその信奉者をふやしつつある。理由は、資本主義の浸透によって格差が広がり、中国社会の道徳的な基盤が崩壊し、人々がこころの病を抱えるようになったからだという。この現象は、欧米でも日本でも起こったことだ。

 中国は国是として無神論を唱えた国であるが、最近、宗教を経済発展を補助するものとして国家が肯定した。こころの問題を共産主義では救えないということがわかったということだろう。それにしても、この宗教ブームの勢いはすさまじい。中国の集団的熱狂もまた日本とはスケールが違う。が、どうして、日本ではキリスト教がこれほどの力を持たなかったのか。日本人も集団的熱狂にかけてはなかなかのものではないか。

 中国ほどの格差社会を作らなくてすんだということもあろうし、今の中国社会の荒廃ほどには荒れなかったということもあろうが、中国の今のキリスト教の役割を果たしたのは、日本では新興宗教だったということがあろう。日本のキリスト教は上品すぎて、貧者の中にずかずかと入り込んで煽動するようなことはしないのである。中国のキリスト教、特に、当局の管理から外れている「家庭教会」は、ほとんど新興宗教のようであった。人々が、宗教であれ、国家が押しつける価値観とは違う何かを求め始めたのは、悪いことではない。これで、中国が変わっていけばいいのだが、と思いながら見ていたのである。