本のタイトルが決まる2013/10/12 23:42

 十月も半ばになるというのにまだ暑い。夏からいきなり冬で、秋がなくなりつつある、ということなのか。今日から三連休だが、大学は月曜に授業がある。大学としては三連休は迷惑なのである。月曜ばっかり休みになるから、授業回数を確保ではない。そこで、振替休日という一月曜休日は代替が休みではない。何処の大学でも同じである。

 今日はAO入試で出校。受験者減に悩むわが短大としては大事な入試なのだが、志願者が伸びない。大勢として、短大志望は減少傾向にある。その流れに抗う術はないということである。

 雲南の神話や祭祀に関する本は11月には出版予定。タイトルも『神話と自然宗教(アニミズム)―中国雲南少数民族の精神世界』になった。いろいろ悩んだが結局はシンプルな題名になった。やや大仰なタイトルだが、本の内容をよく伝えるものになっている。

 専門的な内容だが、私の好奇心いっぱいの文章なので、一般向けのけっこう面白い内容になっていると思う。まあこうご期待といったところ。

 19日、20日は学園祭。わが学科の読書室では、古本市を開く。それに向けてけっこう本を読んできた。新刊を買って古本にするためにである。かなりたまったのではないかと思う。売り上げはユニセフに寄付することになっている。昨日、近くのツタヤに行ったら、店が模様替えされ店の半分が貸本屋に変身していた。一律100円で借りられる。是じゃますます本は売れないと思う。

 古本市のための読書。横山秀夫『64』、警察小説の傑作とある。最初の展開は警察内部の軋轢がこれでもかというように描き出される。組織内の争いばかりでなんだ推理小説じゃないのかと思わせるが、最後に事件が動き始める。その展開はさすが。途中で止めないで良かったと思わせる小説である。ただ、最近刑事物は警察内部の内幕暴露ものが多すぎる。もう食傷気味である。この小説で終わりにしてもらいたい。★★★☆。
 ジェフリー・アーチャー『死もまた我らなり』上下巻(新潮文庫)。前作『時のみぞ知る』上下巻の続編。とりあえず完結篇である。従って読まざるを得なかった。前作が次どうなるか気になる終わり方だったので。つまり、うまく、作者に乗せられたということになる。一気に読んだが、この手の読み物によくあるように、主人公は神(作者のことだが)によって守られている。つまり、どんなに弾丸が飛んできても、爆弾が近くで炸裂しても主人公は死なない。これをやり過ぎると、物語のリアリティを失う。続編は、やや失っている。こんな強運な奴は絶対いないと思わせるからだ。ハラハラドキドキの作りものは、ここが難しいところだ。★★★。
 ヒュー・ハウイー『ウール』上下巻(角川文庫)。アメリカの電子書籍で出版されベストセラーになり、各国に翻訳されたというSFである。SF好きの私としては、こういう本は読みたくなる。いわゆる、核戦争後等で廃墟となったその後の世界の物語。地下に埋もれたサイロで生きる人類を描いている。サイロ内の設定は、ジョージオーウェルの「1984年」の影響を受けたか。女性の主人公が果敢に戦っていく姿は、最近映画化された『ハンガーゲーム』を彷彿。長い小説だったが面白かった。こういう物語の場合、やはり、女性が主人公の方が圧倒的に面白い。★★★★。

中国の宗教ブームがすごい2013/10/14 23:07

 今、教科書というテーマを与えられて論文を書かなきゃいけない。それで苦しんでいる。柳田国男は戦後直ぐに教科書作りにのめり込んだ。そのことを書こうと思っているのだが、参考文献が多くて困っている。時間がないのだ。おかげで、紀要の論文をキャンセル。その割には、古本市の読書は止めていないのだが。これは、ストレス解消。だから、どうしても、外国の冒険ものやSFに傾く。日本のは、発想はいいのだが、リアリティにかけるので、いまいちのれないのだ。これは映画と同じ。日本の映画は、抒情が入り、展開にテンポがない。だから、ストレスがたまっているときは、日本の映画は観ない。これは、エンター系の物語も同じだ。

 柳田の民俗学は、その性格からいってもともと教育的な性格を持っていた。柳田は、戦前から民俗学の教育的な方向を実現させようと考えていた。それは、彼の児童向けの文章に結実する。青年や大人向けに、歴史や国語の問題を語っても、簡単には、動かせない。だが、子供向けなら、柳田の理想は実現出来る、と考えたのかどうかはわからないが、「村の学童」などという文章は、教育的配慮に満ちている。

 それが敗戦によつて、社会科という教科が新設され、柳田に教科書を作るチャンスが訪れた。自分の学問の方法をそっくりまるごと教科書に反映させるチャンスなのである。柳田は当初、子供の教育に教科書は必要ないと言っていたが、やはり教科書つくりに熱心に乗り出す。考えて見たら、自分の学問の方法をそのまま教科書に反映させることは、日本の子供の社会科教育を、柳田の理想の方法で行うことになるのである。こんな機会を逃すものなど誰もいないだろう。

 が、結局、作った教科書は期待したほどにひろがらず、消えていく。この過程を辿りながら、柳田の考える教育を貫いた思想とはどんなものだったのか、それについてちょっとでも考えようというのが今考えている論の趣旨である。柳田は、選挙にきちんと自分の考えで投票できる人間を作ることが民俗学の果たす役割だといっているのだが、民主主義の根幹のようなこの考え方をどう受け取ったらいいのか、これか案外に難しいのだ。そのままでは、確かに、近代民主主義の原理的な考え方だが、ただ、どうも、自分の考えを持つ人間、というニュアンスを、そのまま近代の自立した個人というレベルで受け取ると、柳田を理解したことにならない。ここいら辺の理解の仕方に実は悩んでいるところなのだ。

 柳田は集団の意見に引きずられる個を批判するが、一方で、群れの力の持つ知恵を評価する。突出した個がいなくても、人々は共同体の中でそれなりに上手く世の中を切り盛りしてきた。それを学校では教えてくれない。だから民俗学で学ぶべきで、そこに民俗学の教育的な役割があるというのである。とすると、集団に引きずられる個は、一方の共同体という集団の中では、智恵を生み出す当事者の一人でもある。前者と後者は日本という社会の中では矛盾しない。とすれば、前者を批判し、後者を評価する、というのは論理としてはおかしなことになる。柳田を読んでいると、こういうことにいつもぶつかるのである。といったことをどう評価していくのか、そこが問われているのだ。

 昨日、NHKの特番で、中国社会がいま宗教の勢いがすさまじく拡大しているドキュメンタリーを放送していた。キリスト教の信者はかなりの勢いで増えつつあり、一億人に達するのではないかという。一方で、儒教もまた宗教のようにその信奉者をふやしつつある。理由は、資本主義の浸透によって格差が広がり、中国社会の道徳的な基盤が崩壊し、人々がこころの病を抱えるようになったからだという。この現象は、欧米でも日本でも起こったことだ。

 中国は国是として無神論を唱えた国であるが、最近、宗教を経済発展を補助するものとして国家が肯定した。こころの問題を共産主義では救えないということがわかったということだろう。それにしても、この宗教ブームの勢いはすさまじい。中国の集団的熱狂もまた日本とはスケールが違う。が、どうして、日本ではキリスト教がこれほどの力を持たなかったのか。日本人も集団的熱狂にかけてはなかなかのものではないか。

 中国ほどの格差社会を作らなくてすんだということもあろうし、今の中国社会の荒廃ほどには荒れなかったということもあろうが、中国の今のキリスト教の役割を果たしたのは、日本では新興宗教だったということがあろう。日本のキリスト教は上品すぎて、貧者の中にずかずかと入り込んで煽動するようなことはしないのである。中国のキリスト教、特に、当局の管理から外れている「家庭教会」は、ほとんど新興宗教のようであった。人々が、宗教であれ、国家が押しつける価値観とは違う何かを求め始めたのは、悪いことではない。これで、中国が変わっていけばいいのだが、と思いながら見ていたのである。

チビのブックカバー2013/10/21 00:16


 学園祭が終わった。読書室委員による古本市も何とかうまくいった。売り上げは去年に届かなかったが、3万円を超えることができたので、なかなか良い成績である。売り上げはユニセフに寄付することになっている。私の出した本は期待した程には売れなかった。特に、外国のSFや冒険活劇、ミステリー系はほとんど売れ残った。やっぱり、日本の本屋大賞や恋愛ものじゃないと売れないと実感。かといって、そういうのあんまり読む気がしないのだ。来年に向けての対策を考えなきゃ。

 学園祭もまあまあの盛り上がり。ミスコンがさすがに賑わった。今年は、わが学科の学生が出ていて、見事に優勝した。やっぱり自分のとこの学生が優勝すると嬉しいものである。AO入試も今日で終わり。去年よりは人数が増え、少し安心である。11月の推薦入試がどのくらい増えるのか、それが気がかり。

 助手さんがチビの写真から作ったブックカバーを製作。それを古本市で本を買った人にあげていた。種類は幾つかあるのだが、さすがにチビのブックカバーの人気が高く、直ぐに品切れになり、増刷したということだ。私も、もらいたくて、まだ読んでいないクライブ・カッスラー『アトランティスを発見せよ』を購入。チビのブックカバーを手に入れた。

 来週の土曜は成城大学で、アジア民族文化学会のシンポジウム。「伊勢神宮とは何か」がテーマである。今日の天気予報では、どうも週末に台風が接近するらしいとのこと。心配である。パネラーは、大山誠一、工藤隆。大山さんは聖徳太子はいなかったという説で有名な人。工藤さんは、『古事記の誕生』で最近テレビに出ている。この二人の話、面白いはずである。一般の人が来てくれるといいのだが。それにしても、台風には早めに来てもらって通過してくれるとありがたい。

 学園祭が終わり、お茶の水に向かった。実は、大学の時の同窓会で、私は某大学の二部出身なので、その時の同級生との飲み会である。今日はその大学のホームカミングデーなので、この日にあわせて飲み会を開いている。30年ぶりに会う人もいた。私は、28の時に大学に入り直したから、同級生はほとんど10歳下である。が、彼らももう50代半ばになろうとしている。互いに歳を重ねてきたものである。

 来週には本が出るとの連絡が入った。学会のシンポジウムには間に合いそうである。私にとっては久しぶりの単著ということになる。短歌時評の原稿も今日脱稿。明日から、柳田国男と教科書というテーマで論を書き始めないと、間に合わない。どうなることやらである。