伊勢神宮の建物が面白い2013/08/06 23:27

 ようやく夏休みである。といっても実は休暇で無く、この期間は授業がないので、仕事が免除されている職免期間というものになる。だから、仕事があれば出勤しなければならない。例えばオーブキャンパスなどがそうである。といっても慣習的には休みであるということになるが、研究や原稿の締め切りを抱えている身は、そういうわけにもいかない。ただ、授業と会議のストレスから解放されることが一番大きい。

 先週の土日はオープンキャンパス。定員割れをしているわが学科としては来年の志願者動向を占う機会である。どういうわけかけっこう相談者が多い。AO入試の申込者もすでに昨年の数に近づきつつある。さい先はいいのだが、これがどこまで続くのか。後半のオープンキャンパスが勝負である。

 私の属する学会の今年秋のシンポジウムテーマは伊勢神宮である。そこで、パネラー二人に私の勤め先に来て貰い打ち合わせをした。一人はアジア的名視点から、一人は日本史の視点から、伊勢神宮の成立やその背景などを探ろうという展開になる。この打ち合わせのために、井上章一『伊勢神宮と日本美』(講談社学術文庫)を読んだ。分厚い本だが一気に読める。

 式年遷宮を繰り返す伊勢神宮のあの建築様式を「神明造り」というらしいのだが、日本の建築史では、この建築方法が、日本の住居の原形であり、しかも古来から聖なる建物である、という前提がいつのまにか成立していたのだが、その根拠は何もない、ということを厖大に資料で解き明かしていく、という試みの本である。

 その建築方法とは、千木と鰹木、棟持柱、高床式である。現在のような美して整然とした建物になったのは江戸時代であろうと言うことだ。それ以前にどういう建築だったかはわからないが、千木、鰹木、棟持柱、高床式の様式は古くからあったのではと考えられている。それは、埴輪や土器の絵、あるいは古墳時代の住居跡に棟持柱の跡があるなど、同じ様式の建物のあることがわかっているからで、そこから伊勢神宮も同じだったと考えられているのだ。

 ただ、これには疑問も出ている。まず、日本人の古来の住居は竪穴式住居であって、四隅に柱を立てるものではない。高床式は中国西南、東南アジアに見られる建築様式でその影響であろうとする説。高床式が穀物倉庫であり、穀物霊を納めるということで聖なる建物とみなされるのだが、高床式で無い穀物倉庫も発掘されており、またアジアでは高床式の建物は住居であること、という点から、高床式を聖なる構造物とみなすことに根拠は無いという批判。伊勢神宮の建築様式を、日本の建築の起源にしたいという期待や、その聖性の起源を伊勢神宮の聖性から推論していくという逆立ちした方法だという批判等、井上章一はたくさんの批判の論点をあげている。これら批判はけっこう当たっている。

 最大の問題は、歴史的にみて、古事記神話の完成と同時期の八世紀に伊勢神宮が整えられたと考えられ、とすれば、その時期における聖なる建築様式は、基壇の上の仏殿や宮殿のような中国様式の壮麗な建築だったはずである。それなのに、何故、かなり地方の伊勢に、しかも、かなり古めかしい簡素な建物、しかも、アジアの影響をかなり受けているそういう建物を、高天原という神話世界の再現の地に建てたのか、という疑問である。

 これについては、パネラーの一人も、また井上章一も、意図的に田舎に古めかしい建物を作ったという考えである。その理由は、日本書紀に対して古事記をあえて作ったその意図と似ているということである。なるほど、と思わせる展開である。

 なお、遷宮の際ご神体を包む布に、基壇を持つ宮殿のような建物の模様が描かれている。これを根拠に伊勢神宮は高床式で無く瓦屋根を抱く宮殿のような建物だったのではないかという説もある。また、お寺のように朱に塗られていたのでは、という説もある。

 今でも、弥生から古墳時代の公的な建物の柱跡が発掘されると、その柱跡の上に建築物が再現されるが、その建築物は、ほとんどがも伊勢神宮の神明作りをモデルにしたものだという。それに対して批判的な学者もいるが、そのように作ることが実は費用を出す自治体の意向であって、学者はそれに逆らえないのだという。つまり、伊勢のあの整った建築様式は、日本美の典型としてすり込まれていて、そのことが、日本の建築史に大きな影響を与えているということなのだ。このように解き明かしていくところに大いに興味が持てた。井上章一の本はいわゆるカルスタ系の本であるが、なかなか面白い本であった。

宮崎駿の葛藤2013/08/27 00:30

 だいぶ長いことブログを休んでいた。夏休みというところであるが、実際はそうではなく、忙しくて書く暇もないというところだった。29日から中国へ行く予定だが、まずそれまでに、原稿を2本書かなくてはならなかった。それから、今度出版する本の初稿校正が届いていて、これも29日までに仕上げなくてはいけない。三つの仕事を同時並行的にこなしていたので、さすがにブログを書く気にはなれなかった。

 何とか、今日までに三っつを仕上げた。初稿校正は特に大変である。読み直すと必ずどこかに間違いがある。また写真などの注文もあって捜すのに苦労した。が何とか終了。原稿の一つは遠野物語。これが一番苦労した。40枚ほどである。テーマは「遊び」。遠野に出てくる異人たちはけっこう遊ぶ。この遊びに着目した。もう一本は、アジアの歌文化について。こっちは、短い文章なので苦労はなかったが、逆に何度も書いている内容なのでどう新味を出すかが難しかった。たまたま遠野物語を書いていたので、そのテーマと重ねた。つまり、歌掛け文化は遊びだ、というような視点を入れてみた。この視点で書くのは始めてなので新鮮であった。

 先週の水曜から金曜までは、学会のセミナーで箱根へ。土曜と日曜は、オープンキャンパスで仕事。その前までは、山小屋で原稿書き。明日から中国行きの準備で、帰って来たらすぐに仕事で出校。会議は9月の初旬から始まる。こんな感じで今年も齢を重ねて行くわけである。

 NHKのプロフェッショナルで宮崎駿特集をやっていた、「アニメの物語学」を講義している者としてこういう番組は見ざるを得ない。「風立ちぬ」の制作までを追っかけたドキュメンタリーである。以前日テレでも同じような番組をやっていたが、さすがNHK、戦争の道具を作った主人公の映画を何故作るのかという葛藤を持つ宮崎駿、というテーマ設定で仕上げている。宮崎の答えは、時代は選択出来ない、解決がつかなくても人は生きて行かざるを得ない、というものだ。

 確かに、住む場所も時代も親も選択は出来ない。が、そのことに理不尽さを感じて、自由に生きたいと思うこともあれば、その選択出来ないことを受け入れながら、その引き受けた世界の中で自分なりの自由や目的を捜す生き方もある。国家が戦争に向かっていた時代、その時代に生まれてしまった者の自分らしさの追求を、結果的に国家に抵抗しなかったから全部だめとは誰にも言えないだろう。

 が、それでも、零戦の設計者と普通の庶民の生き方は区別されるべきだという意見もあるだろう。これは微妙な問題だ。「責任」ということとかかわってくる。私は「風立ちぬ」を観ていないから何とも言えないが、この番組をみて、人間は矛盾を抱えて生きていくんだ、という宮崎駿の信念のようなものが伝わってきた。そういえば「もののけ姫」もそうだった。

 宮崎駿は飛行機工場の工場長の息子で、軍事おたく少年として成長する。そして、東映動画時代は組合で反戦平和思想を抱く。内気な宮崎少年は、「白蛇伝」のヒロインに恋をする。そのことが彼のトラウマになっていると斎藤環は書いているが、彼が少年の成長譚が描けずに少女の成長譚しか描けないのは、性的衝動を含めて矛盾した宮崎駿少年を宮崎駿が強く抑圧したことによるだろう。つまり、宮崎駿は自分の成長物語が描けず、代理行為として少女の成長物語を描いたということだ。

 が、そろそろ最後の作品かなということになって、やっと自分の成長物語を描こうとした、ということのようだ。そのモデルになったのが、軍事おたく少年時代に憧れた堀越二郎だった。齢を重ね、少年時代の矛盾した自分を抑圧せずにすむようになったということであろうか。余裕が出来たら観てみるつもりである。