宮崎駿の葛藤2013/08/27 00:30

 だいぶ長いことブログを休んでいた。夏休みというところであるが、実際はそうではなく、忙しくて書く暇もないというところだった。29日から中国へ行く予定だが、まずそれまでに、原稿を2本書かなくてはならなかった。それから、今度出版する本の初稿校正が届いていて、これも29日までに仕上げなくてはいけない。三つの仕事を同時並行的にこなしていたので、さすがにブログを書く気にはなれなかった。

 何とか、今日までに三っつを仕上げた。初稿校正は特に大変である。読み直すと必ずどこかに間違いがある。また写真などの注文もあって捜すのに苦労した。が何とか終了。原稿の一つは遠野物語。これが一番苦労した。40枚ほどである。テーマは「遊び」。遠野に出てくる異人たちはけっこう遊ぶ。この遊びに着目した。もう一本は、アジアの歌文化について。こっちは、短い文章なので苦労はなかったが、逆に何度も書いている内容なのでどう新味を出すかが難しかった。たまたま遠野物語を書いていたので、そのテーマと重ねた。つまり、歌掛け文化は遊びだ、というような視点を入れてみた。この視点で書くのは始めてなので新鮮であった。

 先週の水曜から金曜までは、学会のセミナーで箱根へ。土曜と日曜は、オープンキャンパスで仕事。その前までは、山小屋で原稿書き。明日から中国行きの準備で、帰って来たらすぐに仕事で出校。会議は9月の初旬から始まる。こんな感じで今年も齢を重ねて行くわけである。

 NHKのプロフェッショナルで宮崎駿特集をやっていた、「アニメの物語学」を講義している者としてこういう番組は見ざるを得ない。「風立ちぬ」の制作までを追っかけたドキュメンタリーである。以前日テレでも同じような番組をやっていたが、さすがNHK、戦争の道具を作った主人公の映画を何故作るのかという葛藤を持つ宮崎駿、というテーマ設定で仕上げている。宮崎の答えは、時代は選択出来ない、解決がつかなくても人は生きて行かざるを得ない、というものだ。

 確かに、住む場所も時代も親も選択は出来ない。が、そのことに理不尽さを感じて、自由に生きたいと思うこともあれば、その選択出来ないことを受け入れながら、その引き受けた世界の中で自分なりの自由や目的を捜す生き方もある。国家が戦争に向かっていた時代、その時代に生まれてしまった者の自分らしさの追求を、結果的に国家に抵抗しなかったから全部だめとは誰にも言えないだろう。

 が、それでも、零戦の設計者と普通の庶民の生き方は区別されるべきだという意見もあるだろう。これは微妙な問題だ。「責任」ということとかかわってくる。私は「風立ちぬ」を観ていないから何とも言えないが、この番組をみて、人間は矛盾を抱えて生きていくんだ、という宮崎駿の信念のようなものが伝わってきた。そういえば「もののけ姫」もそうだった。

 宮崎駿は飛行機工場の工場長の息子で、軍事おたく少年として成長する。そして、東映動画時代は組合で反戦平和思想を抱く。内気な宮崎少年は、「白蛇伝」のヒロインに恋をする。そのことが彼のトラウマになっていると斎藤環は書いているが、彼が少年の成長譚が描けずに少女の成長譚しか描けないのは、性的衝動を含めて矛盾した宮崎駿少年を宮崎駿が強く抑圧したことによるだろう。つまり、宮崎駿は自分の成長物語が描けず、代理行為として少女の成長物語を描いたということだ。

 が、そろそろ最後の作品かなということになって、やっと自分の成長物語を描こうとした、ということのようだ。そのモデルになったのが、軍事おたく少年時代に憧れた堀越二郎だった。齢を重ね、少年時代の矛盾した自分を抑圧せずにすむようになったということであろうか。余裕が出来たら観てみるつもりである。