エヴァンゲリオンと自我の物語2013/05/28 00:13

 授業もいよいよ佳境にさしかかったところだ。来週から勤め先では一週間にわたって授業見学会というものがあり、父母や教職員が授業を見て廻る。さすがに、この時は、いい加減というわけにはいかない。いつもいい加減にやっているわけではないが、それなりに工夫は必要だ。

 「アニメの物語学」は人気の授業であるが、どうも上手く進まない。授業で解説をしたあとに、DVDのアニメを見せるだが、なかなかこちらの見せたいシーンをうまく出すことができず時間を取られてしまい、結果的に授業の進度が遅くなり、ということで、なかなか先へ進まないのだ。

 今週は「エヴァンゲリオンからセカイ系へ」というテーマ。ここで話題となるのが、TV版(1995年)の終わり方と劇場版(1996年)の終わり方の違いである。TV版の最終章では、「人類補完計画」が発動していくなかで、碇シンジのカウンセリングの様子だけが延々と描かれる。シンジが自分はなにものなんだ、自分には価値があるのかと自問自答していく場面が続き、最後に出演者のみんなからあなたはそのままでも(つまり、成功体験を持たないだめたな自分であっても)生きる価値があるのよ、と承認され、みんなで拍手されて終わる。この終わり方が余りにひどいと非難の嵐が起こり、翌年作られたのが劇場版である。

 劇場版では「人類補完計画」の様子が映像としてきちんと描かれ、最後にアスカとシンジが人の形を留めて生き残る。やはり自問自答しながら、シンジはアスカの首を絞めようとするができない。涙を流すシンジにアスカは「キモチワルイ」と言って最後が終わるのである。この劇場版の終わり方を評価したのが宇野常寛で、TV版は、シンジが厳しい現実(未来が見えず成功体験が描けない現実)に耐えられず、引きこもり的世界への回帰の中でみんなに自己承認(宇野は母体回帰によって母親からの全承認へと逃げていると批判)をしてもらうことで、物語の決着を付けた。それに対して、劇場版では、傷つくような現実に投げ出されたシンジが、アスカから承認されるのではなく拒絶されることで終わる。これは、未来のない現実を生きていくしかないというメッセージで、こちらの方がはるかに優れているという評価である。庵野秀明の思惑はよく分からないにしても、二作品を比べた評価としては宇野常寛の言うとおりだろう。

 つまり、『エヴァンゲリオン』を碇シンジの自我の物語として読むならば、物語は最初に自己を承認したいという欲望から始まる。その欲望は母子分離に伴う不安の克服であり、その不安を母からの承認ではなく(母からの承認は克服にならない)、社会(他者)からの承認によって克服することで、自分は価値ある存在だと思えるようになる。つまり自己価値の他者からの承認である。その承認が安定的自我(アイデンティティ)の確立であり、その自我の確保が自我の物語の終わりである。

 これを少年の冒険譚に読み替えるなら、まず自我への欲望があり、父との葛藤や他者に認めてもらうための試練がある。その試練とは、例えばモビルスーツで敵と戦い傷つきながらもみんなを救うという体験である。その試練を経て、少年は自分は価値のある存在だと他者に承認してもらい、そこで物語は終わるのである。例えば機動戦士ガンダムなどはこのパターンをだいたいなぞっている。少年アムロは戦争に巻き込まれ、恐怖に耐えながらもガンダムのパイロットとして成長し、他者の承認を得ていく。成長とはそういうことである。

 ところが、『エヴァンゲリオン』は、厳しい試練はあるのだが、他者に承認してもらうという最後の展開がない。何故なら、シンジがどんなに必死に使徒と戦っても、そのことがみんなを救っているという実感がないからである。ミサトがみんなのためにがんばったじゃないと元気づけても、それが一時的ななぐさめであることをシンジは見抜いている。

 『エヴァンゲリオン』には二つの物語がある。一つは、人類を滅ぼそうと来襲する使徒とそれを防ごうとする人類の側(エヴァはこちらだが、実はこの人類の側が複雑)との戦いという物語。もう一つは、碇シンジの自我確立の物語である。いわゆる、少年冒険譚の物語はこの二つの物語は「行って帰る」式の物語として同時進行する。

 ところが『エヴァンゲリオン』ではこの二つの物語は、解決もしくは成長へと同時的に帰結しない。使徒と人類の戦いは、人類が勝利して世界が救われる、という物語定番の帰結にならない。最後には「人類補完計画」のような、使徒から人類を守るはずの側(ゼーレやゲンドウ)が、逆に人類を一旦リセットするような計画を持ち出す。読者は結局それじゃ人類の敵である使徒と同じじゃないかと思ってしまうような展開なのである。ある意味で未来のない(今を生きる人類が結局全部死ぬという解決だから)終わり方である。それと呼応するように、シンジの自我の物語はシンジの成長(自己価値の他者からの承認)に帰結しないのである。

 つまり、物語そのものがシンジの成長を期待させながらその成長を裏切るように出来ているのである。例えば、シンジのがんばりは、人類の終末を早める、ということにつながる。というのは、シンジがエヴァに乗ってシンクロすればするほど、それは母であるユイとの結合を意味し(エヴァはユイの魂でもある)、自我以前の混沌とした世界に引き込まれることになるのである。そのことは、結果的にエヴァ(母)とシンクロしたシンジが巨大なエネルギー体と化して人類に対して脅威となってしまうことにつながる。

 つまり、『エヴァンゲリオン』の物語展開によって、自我の確保を求める試練(シンジがエヴァに乗って使徒と戦うこと)が、決して他者の承認を得られないという展開になっていまうということだ。とすれば、シンジの自分は何なんだという自問は決して解決がない。この絶対的なジレンマにシンジを追い込んだ時点で、庵野秀明は行き詰まったと言っていいだろう。シンジの自我の物語も、「行って帰る」式の物語も、終わらないということである。終わらせるために、TV版では、みんながシンジをカウンセリングして元気づけるという、物語とは関係なく、シンジだけの自我成立の物語にするしかなかったのである。むろん、これはとってつけた終わり方だったので、劇場版では、自我の確保(他者からの承認)へ向けた試練は決して終わらない、という非情な現実を描いてとりあえずの終わりにしたということだ。

 実は、このジレンマは、コミック版「風の谷のナウシカ」7巻にも描かれたものである。むろん、庵野はコミック版「風の谷のナウシカ」の影響をうけたことを自ら認めている。巨神兵を子供として扱い、オームの存在や腐海が地球の浄化システムであることをナウシカは知るが、実は、最後にそれら全てが人類リセット計画の一部であることが明らかになってしまう。ナウシカが抱いた地球の浄化という希望が、人類を一旦滅ぼす計画であることを知り、ナウシカは自分が置かれたジレンマに気づくのである。が、ナウシカがそこで取った行動は、ゲンドウの「人類補完計画」の発動を許してしまうように、人類リセット計画を受け入れてただ悩むことではなかった。人類リセット計画を破壊し、人類によって汚染された地球とその汚染した人類とともに生きていく決意を最後にする。それが「生きねば」という最後のセリフなのであるが、このナウシカの置かれたジレンマを、実は、『エヴァンゲリオン』でも踏襲しているのである。そのことが、『エヴァンゲリオン』の物語の終わり方のすっきりしなさにつながっている。むろん、このすっきりしなさは、物語を現代のわれわれの世界のあり方を深く反映させようとした結果であり、評価されるべきものである。

 だが、庵野秀明は、このジレンマのナウシカ的解決を、TV版でも、劇場版(旧)でも取ることができなかった。シンジはナウシカのように毅然と立ち向かうことが出来ず、「人類補完計画」に翻弄されるだけである。

 ところが、2012年の『新劇場版エヴァンゲリオンQ』では(以下はネタバレです)、ナウシカ的な解決への道筋を示している。Qでは、シンジは使徒に飲み込まれた綾波レイを救おうとしてオーバーヒートし、サードインパクトを引き起こしてしまう。その14年後の世界、ゲンドウ達の「人類補完計画」を阻止しようとアスカやミサトがゲンドウたちに立ち向かう。シンジはゲンドウの側に取り込まれるが、何とか人類を救おうとする。結局エヴァに乗ることで、「人類補完計画」や使徒やゼーレによる人類破壊への計画に手を貸してしまうが、それをアスカやミサトが食い止めようとする…というところで終わるのであるが、まだ希望は潰えたわけではない、という余地を残して「つづく」になっている。

 つまりナウシカのように「生きねば」で終われるのかどうか。少なくとも終われるようにQではストーリーを変えてきているのは確かである。その意味で、今度のQは旧劇場版より希望がある。つまり、シンジの自我の物語も希望の余地があるということである。果たしてナウシカ的な決意を示せるのかどうか。私などはもうそれしかないだろうと思うのだが。

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