ラカンを読むと村上春樹は…2013/05/15 02:12

 学会資料の準備をしているあいだでも本は読んでいた。ラカンの解説本が主で、その他、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も読んだ。ラカン解説本は二度読みである。それくらい難しい。読んでいる時はわかるのだが読み終わってその論理を再構成しようとすると、うまく頭の中で再構成出来ない。どうもラカンという人は、そういうように精神分析の論理を作っているところがある。その意味では、私は正しい読みをしているのだと思う。というのは負け惜しみで、まだ読みが足りないというのが本当のところだ。でも、わからない割にイメージはつかめた。

 例えば、人間が人間であると思い込めることに何の根拠もないのであって、それは、言語のシステムにとらわれることでそう思っているに過ぎない、といようなこと。人間とは無根拠の上に構築された余りに脆い存在に過ぎない、ということ。言わば徹底したニヒリズムの上に構築された精神分析理論といったところだ。ラカンの精神分析を学習していると、普通に生きられていることが奇跡のように思えてくる。

 真実や本当の自分があると思うのは、言語にとらわれることでそう思わされているのであって、そのことで自己の向こう側の闇を見ないで済むということなのだ。だが、人間は不安から逃れることは出来ない。幼児期に、鏡像段階で、まだ分裂したままの自分を統一された自己として誤認することで獲得された自分は、いつまたばらばらになるか不安にさいなまれる。

 要するに人間はみな常に精神的な病を抱えているのであって、その病から解放されるのは死でしかないというのである。これじゃカウンセリングなんか出来はしないだろう。現に、日本ではラカン派は、カウンセリング理論としてはあまり用いられないという。確かに、人間のみならず、社会の分析理論として、哲学や思想として語られることが多い。

 カウンセリングの盛んなアメリカの自我心理学は、自我には不安によって葛藤する自己を安定させる調和的な力があると考え、カウンセリングはそのような自我を患者とともに見出して行く作業だというが、ラカン派は自我は葛藤を鎮めることは出来ず、嘘をついてごまかすことで病状として発症しないようにするだけだ、という。ラカン派にとって自我は嘘つきのことなのである。だから、患者に対しては、あなたが神経症なのは正しい、みんなそうなのだ、程度の差があるだけだ。みんな自分に嘘をついて発症しないように生きているのだから、自分の嘘を辿り直して、上手く嘘をついていきましょう、といったことしかラカン派は言えないだろう。

 たぶん、神や真理といった超越性が信じられていた時代は、人間の精神構造も、どこか、自らをコントロールし得る心の場所があって、それを見失ったことが精神の病だとする考えだったのだろう。それをひっくり返したのがフロイトであり、フロイト理論を受け継いだラカンだということだ。ラカンは、徹底して、人間の心に自らをコントロールできる安定したあるいは超越的な場所などないとする。そのように人間が思うとしたら、言語によってそう思うに過ぎない、ということだ。言語とは、他者である。つまり、言語という他者によって、人間は存在のよりどころを夢見る存在なのだ。だが、そこで夢見られるよりどころの根拠などどこにもない。不安に充ち満ちているのだ。なんとはかない存在だろう。

 村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』はカウンセリング小説である。割合面白く読んだ。だが、ラカンを勉強すると、村上春樹はまだ甘いと思わざるを得ない。何故ならカウンセリングが可能なように描かれるからだ。むろん、だからこそ、村上春樹の本は売れるのだし、そこに希望を見出すことも出来るのだろう。たとえ、心の底に誰もが闇を共有しているのだとしても、人とわかり合える余地を拒絶しない。そこのバランスが、村上ワールドの大事な勘所なのだ。この本の感想は次回である。