古本市のための読書10月編2012/10/08 23:56

9月末からこれまでに読んだ本。

塚本靑史『始皇帝』(講談社文庫)、司馬遼太郎『項羽と劉邦』上・中・下巻(新潮文庫)、伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫)、伊藤計劃『虐殺器官』(ハヤカワ文庫)、西島大介『凹村戦争』(ハヤカワ文庫)、神林長平『言壺』(ハヤカワ文庫)、綿矢りさ『勝手にふるえてろ』(文春文庫)。

『始皇帝』、『項羽と劉邦』は中国歴史もの。いずれも★★★☆。こういう歴史ものあんまり若い人は読まないだろうなあ。実は、何故これらの本を読んだかというと、アニメの『キングダム』をたまたま見て、マンガの「キングダム」を読み始めたら止まらなくなって、とりあえず今出ている26巻は全部読んでしまった。これは秦の始皇帝の物語だから、始皇帝の歴史物語が読みたくなり、塚本靑史を読んだということである。
 これを読み終わったら、今度はその続きが読みたくなった。つまり、秦が滅んで劉邦が漢を建国する物語である。それが司馬遼太郎の『項羽と劉邦』全三巻だが、スキャン読書であっという間に読み終えた。それぞれに面白い。司馬遼太郎は、やや講釈が入りすぎだが、項羽の描き方がとてもよい。
 それにしても、中国の歴史物はほんとに面白い。戦争の勝ち負けが人格やその合理性の問題として徹底的に解釈される。これは、易姓革命の思想があるからに他ならない。つまり、中国では治世が乱れればそれは王(もしくは皇帝)の徳がないとみなされ交替させられる。だから、絶えず反乱が起こり王朝が交替する。したがって、中国の王朝は、自分がどうれば交替させられずにすむのか、それを学ぶテキストとして必ず歴史書を作ったのだ。歴史書には失墜する王の欠陥がきちんと描かれる。だから面白いのだ。天皇が交替しない日本では、その意味で歴史書は面白くない。NHKの大河ドラマが源平合戦や戦国時代ばかり描くのは、実質的な王朝交替はその時代しかないからだ。だが、中国の王朝交替とはスケールが違う。項羽は20万人の秦の捕虜を生き埋めにする。この残酷さは信長など足元にも及ばない。それにしても、「キングダム」の続編早くでないか待ち遠しい。

今週はハヤカワ文庫週間で、4冊読んだ。伊藤計劃『ハーモニー』★★★☆。『虐殺器官』★★★★。『虐殺器官』が伊藤の最初の長編。これで世に出た。そのあと『ハーモニー』を出して、34歳で病死。『虐殺器官』はSFの傑作だろう。賞を総なめにしたのもわかる。こういう作家を天才というのか。物語は、アメリカの特殊部隊隊員が、世界の発展途上国で虐殺を引き起こすプログラムを実践する人物を暗殺しようとする話しだが、チョムスキーの言語理論が人間を虐殺に追い込むモデルになるなど、言語理論や哲学の話題に凝りながら、ハードボイルドや恋愛などもからめて、実に上手く展開している。たぶんにK・ディックの影響が強いとみた。『ハーモニー』も面白い。こちらは人類が細胞レベルで世界何とか機関に支配されている世界の話し。支配されることで誰もが健康で長生きできる。したがって、酒、タバコは許されない。つまり、自由を奪われた近未来の物語。当然、そのような息の詰まる世界に抵抗する主人公の物語となる。人間が細胞レベルで支配されるとというそのアイデアがスゴイ。

 西島大介『凹村戦争』は、SFもののマンガである。★★★。特に面白いというわけではないが、ゼロ年代の作家らしい雰囲気はある。神林長平『言壺』★★★☆。これはある程度の意思と知性を持ったワープロに翻弄される人間とことばの物語。この知性を持つワープロは「私は姉の子どもである」という文章を書こうとしてもそれは間違っていると決して許さない。が、作家は何とかその文章を作ってしまうことから世界がおかしくなり始める。という具合に、ことばが全ての原因であるというある種の本質を皮肉に描いたSFである。ことばが好きな人にはお勧めである。

 綿矢りさ『勝手にふるえてろ』は★★★。「蹴りたい背中の」女子高生がOLになって、おんなじように生きてるなあという感じ。この主人公女子高生の時から変わってない。つまり、自己中心的世界から抜け出せず、そんな自分とつきあう男は、徹底して自分とコミュニケーションがとれない。男女だからコミュニケーションがとれないというより、他人と分かち合えるようなちょっとしたものを持っていない、ということだが、それでも、決然と一人で生きていく決意が出来ず男は必要という主人公の、自分で自分にいらいらしている生き方が、たぶん共感を呼ぶところなのだろう。私にわかるのはそこまでだ。

iPS細胞と『老人と宇宙』2012/10/21 23:59

 学園祭が今日で終わる。古本市も無事終了。売り上げは去年を越えた。読書室委員会の催しだが場所があまり良いところではなく来場者数も少なかったような気がするが、それでも、けっこう売れたので、結果オーライである。私の古本市のための読書も少しは役にたったようだ。これで、私の古本市のための読書も終わりである。ホッとした。

 学園祭は二日間だったが、天気もよく盛況だった。私は、学園祭の様々な企画展示やパフォーマンスを評価する係になってしまったので、スタッフのおそろいのTシャツを着て、あちこち見て廻った。優秀な企画を表彰するためである。読書室委員有志の企画を推薦したいところだが、身内の企画なのでさすがに遠慮せざるを得ないのが残念。

 それにしてもここのところ何かとイベントだらけで忙しい。昨日はS先生の古希記念論集出版記念パーティに出る。国学院大学で行ったのだが、それにしても国学院大学の立派さよ、いつのまにこんな高層ビルやお洒落な建物が建ったのだ。同じ都心の大学としてうらやましい限りである。今日は、私が二十代後半に入った大学二部の同窓会。読書室委員有志の展示会場の片付けを少しばかり手伝い、お茶の水の駅前の居酒屋に駆けつけた。

 私は同級生より10歳年上であったから今みんなは五十代前半と言ったところか。読書会をやっていたメンバーが10人ほど集まる。卒業以来だから30年ぶりに会った連中ばかりだ。やはり懐かしい。あの頃、私は勤労学生で、本もよく読んだし勉強もした。そんな時のことが思い出された。

 明日からは別な忙しさで、たぶん息つく暇はなさそう。今度の週末は学会大会と研究会。論文も今月末に1本。11月は論文1本と短歌時評1本。11月の土日は推薦入試や学会と研究会でほとんど埋まっている。

 山中教授の特集番組を見る。長期的な目標をたて、がむしゃらに研究すること。地道な実験を積み重ねて、予想外の結果であってもむしろ好奇心を持って受け止めろという。一応研究らしいことをしている身として、理系と文系の違いはあれ、突き刺さってくる言葉である。がむしゃらであったか、と問えば、時々手を抜くなあと反省。

 山中教授のノーベル賞が異例の早さで決まったのには、世界各国からの推薦があったからだとインターネットのニュースで伝えている。NHKの番組を見ていたらその理由が分かった。世界中の製薬会社、ベンチャー企業が、研究者と手を組んで、iPS細胞を使った新薬開発や治療法の開発をしている。その開発に膨大な額の投資がつぎ込まれ、あるいは、投資を呼びかけている。研究者がノーベル賞は投資の追い風になると語っていた。つまり、巨額の投資の保証としてノーベル賞が必要であり、そのために推薦が世界中から集まったということだろう。それだけの巨額のお金を動かす力が山中教授の発見にはあったというわけだ。

 古本市の為の読書で、SFだがジョン・スコルジーの『老人と宇宙』の三部作を読んだ(四作目の「ゾーイの物語」は読んでいない)。いずれも★★★☆。このシリーズもののアイデアは、75歳の老人が、自分の細胞で培養された新しい二十歳代の身体に生まれ変わり兵士として宇宙戦争に赴くという話しである。また、特殊部隊というのがあって、この部隊の兵士は、死んだ人間の細胞から培養された、ずば抜けた身体能力を持つ人間として作り出されたものたちである。

 老人の兵士の生存率は四分の一。つまりほとんどは戦死するが、それでも、兵士に志願しなければただ老いて死んでいくことを考えればこの死亡率はそれほど高いわけではない。それが老人を兵士に志願させる理由である。

 このSFの面白さはこのアイデアにあると言って良い。実は、最初の「老人と宇宙」が出版されたのが2005年。山中教授がiPS細胞を発見した時期である。「老人と宇宙」の、細胞を培養して兵士の身体を作るアイデア、iPS細胞を使えば実現できる気がする。スコルジーが iPS細胞を知っていたとは思えないが、それ以前にES細胞は知られていたから、その種の知識で書いたSFだろう。それにしても、この「老人と宇宙」とiPS細胞発見とが時期的に重なるのは、偶然とは思えない。iPS細胞の発見は、むしろ、小説世界ではない現実の世界がSFの時代に入ってしまったということではないだろうか。

アニミズムと諸行無常2012/10/29 00:26

 先週は前半は学園祭の片付け等で休講。後半は、市民講座の授業、学会、研究会等で休みなし。市民講座の準備をしすぎて、かえって要領が悪くなり、結果として講義は失敗。少しばかり落ち込む。やっぱりあれもこれもと欲張ってはいけない。

 学会は、参加人数少なし。時期的に他学会と重なったこともあるが、テーマが地味だったか。「アジアの歌と万葉集」だが、声と文字の出会いといったテーマをもっと前面に出すべきだったと反省。

 原稿はすすまず。テレビばかり見る。久しぶりにテレ朝のミュージックステーションを見たら、9㎜・バラベラム・バレットが出ていた。私はこのバンドの「バンパイヤ」のCDを持っている。ほとんどロックは聴かないのだが、このバンドだけは何故か気に入ってCDを買ったのだ。3年前のことで、久しぶりに見る。ただ、このバンドの歌の歌詞は自意識が前面にでてきて、その意味で面白い歌詞なのだが、とても乗れそうにない。が、それでも抜群の演奏力で強引に引っ張っていく。不思議なバンドだ。不思議と言えば、家入レオという17歳のシンガーソングライターが出ていた。つり上がり気味の目が大きくアニメの少女のようだった。歌は迫力があり、この歌い手も不思議な少女だった。

 隙間読書は二冊。石破茂×宇野常寛『こんな日本をつくりたい』(大田出版)。中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 自然死のすすめ』(幻冬舎新書)。前者の本は、宇野常寛のファンとしてとりあえず読んでおかなきゃと読んで見た。保守派の政治家が、宇野とどういう話しをするのか興味があった。結局、石破は、保守であるけれど、徹底した現実主義者で、合理的でない理想論を冷ややかに見つめることの出来るタイプ。宇野も政治に対しては、憲法9条を守ることの物語にとらわれない、とりあえず現実主義から出発という考えだから、ある程度は石破と波長が合うようだ。考えてみれば石破は私より若い。自民党総裁になれなかった理由がわかる。非現実的な主長を馬鹿にするそのクールさは、やっぱり古い政治家に嫌われるだろう。でも、やっぱり安倍よりは石破が総裁になるべきだったと思う。

 二冊目の『大往生したけりゃ医療とかかわるな 自然死のすすめ』は私より年上の何人かから、お前ももう六十をすぎたのだからこの本を読めとすすめられていて、まあ仕方ないと読んで見た本。ベストセラーである。要するに、癌にかかっても治療せずにそのまま受け容れて自然死を選べ、という本。延命治療をするから、痛みにさいなまれる。人間の身体は自然死の時には苦痛なくあの世に行くように出来ている。その邪魔をするべきではないという。私は「諸行無常」を説く本と読んだ。

 人間にとっての「生きる意味」はその人間の社会性によって決まる。人間は社会的な動物なのだから嫌だと言っても仕方がない。つまり、自分が自分をどう評価するによって決まるわけではない。その意味では、関係の中で生の意味が決まるのであり、別な言い方をすれば関係に翻弄される存在だ。だから、宗教は、そういう関係性から逃れる方法を説く。つまり、社会性とは別なところに「生きる意味」を与えるのが宗教だといってよい。

 この本は、宗教の本ではないが、基本的には宗教と同じ発想を取っている。つまり、関係に縛られないで、自分の「生きる意味」を考えろ、と言っている。その方法が「自然死」を受け容れろである。人間は関係に縛られるから、病気になれば治癒の為の治療を行い、重篤な場合は延命治療が施される。社会的に生きていることが、それを命じるのである。

 「自然死」とはそういう関係性の拒否である。人間どうせ誰も死ぬのだし、遅いか早いかの違いだ、と思い切った地点に立てということだが、関係に縛られたら普通は思い切れない。自分の生も身体も自分のものではないからである。が諸行無常まで言い切ったら、たぶん、関係のほうでそっとしておいてくれるかも知れない。日本人にはそういうところがある。

 それは、仏教的というより、私はむしろアニミズム的という気がしてならない。人間も、草木も動物も自然に生まれ死んでいく、それを仏教は諸行無常というが、むしろ、そこから出家して悟りに向かうのではなく、日本人は静かにそれを受け容れる、というところがある。これはアニミズム的な無常観、といったものではないか。アニミズム的諸行無常といったらいいか。

                          誰も死ぬじたばたするな秋の月