大学は数が多いのか?2012/11/08 23:36

 田中真紀子大臣の新設大学不認可発言には驚いた。というのは、勤め先でも学科の学部昇格への申請をしていたところで、こっちは申請が通ったが、不認可になった三校はお気の毒としか言いようがない。結局認可にはなったが、この間の当事者の心痛察するに余りある。当事者がわが校で会ったら、たまったものではなかったろう。この騒動、大きな原因は、大学認可ルールを最終段階になって突然変えてしまった田中大臣の暴走気味パフォーマンスによるのものだが、ただ、一方では、大臣の指摘にも一理あるとする風潮がある。それには、一言申し上げたいことはある。

 田中大臣の言いたいことは、大学の数が多すぎて質が低下している、だから新設は認めないというものである。確かに、一理あるが、現状を認識した言い方ではない。先進国のなかでは日本の大学進学率が最低であることはすでに分かっていることである。イノベーションの時代とか、知的能力を高めることが国の発展につながるとか、だれもが言う時代である。それなら、大学進学率を先進国のなかで高めていかなくては、技術革新の競争に遅れをとり、日本社会が衰退していくというのが理屈だろう。その意味では、進学率を大幅に上げるには、日本の大学数を増やして行かなければならない、というのが、日本が取らなければならない教育戦略なのである。

 高校卒では現在ほとんど就職できなくなっている。当たり前で、高卒では、人件費の安い中国やタイ、ミャンマーの労働者と同レベルでの競争になるからであり、アジアの労働者に比べて十倍の給料が必要な日本の高卒労働者に職があるわけがない。職があってもほとんどがワーキングプアになるしかないのである。
 
 それなのに、何故、日本は大学進学率が50パーセントにしかならないのか。これでは、毎年一学年の人口の半分をワーキングプア予備軍として排出していることになる。その理由は簡単で、教育費が高いからである。日本の大学の教育費は先進国の中でも圧倒的に高い。アメリカも高いが奨学金の制度が日本とは違う。ヨーロッパは驚くほど授業料が安い。つまり、高等教育にかける社会的経費を日本は安く見積もり、一部のエリートは支援するが、それ以外は少しの援助はするがだいたいは私費で教育を受けろ、というのが国の方針である。

 社会的経費をかけないことで大学の教育費は個人の負担増になり、結果、志願者は減少し、大学教育の必要性を見越して大学を作ったものの、志願書がすくなく、定員割れが続出するという事態になっている。従って、大学数が多いのではなくて、日本の社会のレベルにみあうほどに大学進学者が少ないことが問題なのである。

 大学教育の質の低下を言われると、耳の痛い話しだが、確かに、規制緩和によつて大学の数がふえたことに一因がないわけではない。が、質をあげるために大学の数を減らせというのは本末転倒である。問題は、進学率を上げなければならないとすれば、大学もまた、機能別にある程度様々なレベル分けされるということである。大学をみな均一な教養教育機関とみなす発想は出来なくなるだろう。基礎学力の低い学生のための大学があっても構わない。そういう棲み分けは必然的に起こり得る。その棲み分けを前提にして、それぞれの質をどうあげるかの議論が必要なので、一般的に、大学全体の質は低下している、と切ってしまうのは生産性のない議論である。

 こういう場合、教育の質をあげるように大学や教員は自覚せよ、というのは限界がある。大学も教員もある程度の競争性にさらされる必要がある。その意味でいえば、大学設置基準が緩められ、大学自体が競争原理にさらされるのは、質の向上という意味では間違ってはいないのである。むしろ、国家が過度に介入して既存の大学を保護してしまえば、結果的に質の低下を招くことは、銀行などの護送船団方式の破綻ですでに体験済みのことである。

 危機意識をもたねば何事も動かない。そういった競争原理をどう導入するか、実は、何処の大学でも苦心している。国の方針もその方向にすすんでいるが、アメリカや中国のようには思い切った競争原理が導入できない(中国の大学教員競争の厳しさは日本の比ではない、学生のアンケート結果で本当に首になる)。むろん、性急な導入はだいたい上手くいかないのだとしても、現状の教員が置かれている環境はあまりにぬるすぎる。大学に身を置く私が言うのだから間違い無い。

 教員の努力も必要だということだが、大学も多様化せざるを得ないし、その多様化の中で、全体的に大学生を増やして行くなかで、競争原理が働き優秀な教員が自ずと育つのだということではなかろうか。文科省の天下り教員や、学生集めのためテレビコメンテーター教員とか、教員になる基準がよくわからない現状があるが、これも、多様化の一つの現象であろう。問題は、実力が無ければ職にとどまれない、というそこそこの厳しさも必要であるということだ。厳しすぎるのも困るが。

 わが短大は学生集めに苦労している。質の低下がもたらしたものではないと信じている。教員はけっこう頑張っているのだが、なかなか受験生には伝わらない。今度認可申請した三校もそうだが、短大ではもう受験生がこないので大学に昇格しようとしたというところだ。それだけ、短大は厳しいということである。その厳しさのなかで、何とか頑張って生き延びなければならない。いやはやである。

選挙も近そうだ2012/11/13 01:05

 「大学の数は多いのか?」と書いたら地方に就職した教え子から早速コメント。地方の事情が少しわかった。インターネットで関連の記事を読んでいたら、内田樹がやはり同じような内容でブログを書いている。ただし、内田樹の方が、わたしより深読みである。

 内田は、大学の数と教育の質の低下は関係ないという。その通りである。さらに、大学の数を減らしたいのなら、高卒の給料を上げれば解決する、という。つまり、現在、高卒では就職口もないし給料も安い、だから大学に行かざるを得ない。企業が高卒の給料を上げれば大学に行く数は大幅に減るから、大学だって少なくなる。設置認可を厳しくするより、その方が効果的だというのだ。これもなるほどである。

 さらに、大学の質がどうであろうと、高校を卒業しさらに四年間教育を受ければ、知識も学力も高まるに決まっている。よりよいところに就職するためには進学率を上げた方がいいのに決まっている。それなのに何故企業や政治家はそろって大学の数が多いというのか? 実は、これは、企業の側の深謀遠慮があるというのである。つまり、日本の労働者の給料を、中国や東南アジアの労働者並みに下げたいと考えているのだという。日本の人件費を月数万円くらいの給料に下げれば、何も人件費の安いアジアに工場を移転する必要はないからだ。大学は一部のエリートを作り出すだけにして、他の大多数の高卒は大学にいかず低賃金労働者であれば、企業にとっては都合がいい。だから、大学の数を増やせとは言わないのだ、というのである。

 この指摘には私もうなった。ここまで読むか。つまり、日本の企業は徹底した格差社会を望んでいるということになる。ほんとうかなと思うが、なるほどと思うところはある。日本が徹底して高度資本主義化し、情報社会や技術革新による新技術によって儲ける社会になれば、進学率を一〇〇パーセントに上げなければならないだろう。が、現実はそうではない。アジアの低賃金労働形態とそう大差ない労働者も大勢いる。労働市場に国境がないグローバル経済では、総中流と呼ばれた日本であっても、低賃金労働と高度な技術力を持つ高給労働との格差が出てくる。現在のワーキングプアの出現はこの格差のあらわれである。

 つまり、進学率をあげて日本人全身を高度な技術社会に適応させようというのはあきらめて(韓国はその戦略で進学率は七〇パーセントを超えるという。だが大学卒でも就職口はない。大手企業の数が圧倒的に少ないから)、進学率を下げてもっと低賃金労働者を増やして、日本の企業の競争力を上げる、というのは、一つの経済合理性なのか、という気がしないでもない。今の日本の社会を見ているとそういうようにすすんでいる気がする。その意味では、内田の深読みは当たっているのかも知れない。

 しかし、そうすると、日本の消費力は落ち込み、韓国のように、一部の巨大なグローバル企業だけが生き残り、あとはほとんどかつかつの自営業のような零細企業しかいなくなる。それこそ、発展途上型の国になる。が、そうなれば日本のGDPは半分になり、社会保障そのものが崩壊するに違いない。おそらくそのようにはならないというのが私の考えだ。

 法的に最低賃金制度があり、それが無くなると、日本の企業は果たしてアジアの労働者並みに日本の労働者を扱うのか。中にはそういう企業もでてくるだろうが、大多数はそこまで思い切らないだろう。企業も日本社会の共同体の一つである。共同体である限りは、日本の社会が暗黙に合意しているその成員に対する慣習的なあるいは経済的な規範を遵守せざるを得ない。これは、法的な規制とはまた別の問題である。甘いかも知れないが、大多数の企業は日本の社会に対してそういう倫理性を持っている、と思うのだ。

 それから、アジアの中では最も自由にものが言える日本の民主主義もまたそのような発展途上型への移行を防いでいる。現在の日本の民主主義は、何も決められないポピュリズム型民主主義と悪口を言われているが、ある意味では、その民主主義が徹底した格差社会を防いでいるのだ。というのは、低賃金労働者が増えれば、当然、彼らの意見を代表する政治家が増え、格差社会の是正を訴える、ということになるからだ。これが現在の民主党で、むろん、財政基盤を考えずに票欲しさに主張したから破綻したが、日本の政治システムは、格差社会を是正するように働く仕組みに一応はなっているのである。ただ、そのことが、財政悪化を招くなどの批判にさらされ、格差を是認する意見を持つ国民もいて、結局政治は何も決められないジレンマを抱え込んでいる、というわけだ。

 佐藤優『人間の叡知』(文春新書)は、もう日本の民主主義はだめだ。これからは、政治システムとして新帝国主義やファシズムも選択肢に入れた方がいい、そしてエリートを教育して、もっと独裁的な方向に行ったほうがいいと、直接的にではないが、だいたいそういう方向で論じている。今の「維新の会」や石原慎太郎などの保守の動きもだいたい同じ方向である。

 確かに、何も決められない現在の民主主義にはうんざりするが、しかし、決められないのは、低賃金層や、年金への不安を持つ人たちを代表しようとすると、財政基盤がないので結局は何も決められなくなる、からである。それは必ずしも悪いことではない。決める政治というのは、独裁的な権限を政治に与え、自由競争社会、格差社会を是認して、弱者を切り捨てていく、ということになりかねないからだ。

 極端な格差社会を作らないか、あるいは低賃金であっても社会保障を充実させられるような社会にするか、同時に財政を立て直し、経済もそこそこ持続するようにする、なんてうまい話はないかもしれないが、しかし、そのバランスをどうとるのか、にしか、日本の、いや世界の資本主義の選択肢はないのである。

 佐藤優の言うように、これらのジレンマを経済成長で問題を解決しようとすれば、今の中国のように、軍事力を背景に、経済権益を確保するため資源や消費市場を確保するための覇権主義をとらざるを得なくなる。佐藤は今や中国だけではなく各国がそのような帝国主義をとらざるをえない時代なのだという。が、それは、新しい戦争を生むだけだろう。二度の世界大戦を経験した世界はそこまで愚かではない。

 これを日本の教育の問題に引き寄せれば、内田樹が言うように、高卒でも就職があってそこそこの賃金がもらえる社会になれるかどうか、でなければ、みんな大学に行って、高度技術社会に適応して就職できるかどうかである。事情があって教育を受けらず就職出来なくても、社会保障によって生活は出来る、であればまた問題はない。

 このように主張することをポピュリズムとして排除するのではなく、可能性としてどのような方法があるのか、そのためには何が必要で何をがまんしなければならないのか、といったことを、空想的にではなく現実的に説くことが求められているのではないか。選挙も近そうだが、それが政治家を選ぶ基準であろうと私は思う。

政治の話しなどするか秋の虫

中間の物語2012/11/20 23:27

 11月はほとんど休みなしである。先週は、土曜は柳田国男の研究会で五反田へ。駅前ホテルの会議室で座談会である。ホテルに行ったら何とMさんとばったり。Mさんは大学の雑務でホテルに泊まり込みだそうである。そうか、この近くの大学に勤めているのだった。今年は古事記1300年で忙しいでしょうというと頷いていた。

 座談会は私が問題提起の役回りで、事前に話す内容を文章にして送ったおいた。現代社会における民俗学の可能性について議論しそれを活字にする、ということであるそうだ。この研究会、最後の会合だそうで、私はその最後にお邪魔したという格好になった。私の話したことは、「大きな物語」でもなく、「小さな物語」でもなく「中間の物語」が必要ではないか、というもの。宇野常寛が「中間共同体」が必要と言っているのを受けて、「中間の物語」にしたのだ。つまり、新しい公共性の構築が現在の課題である、とすれば、その公共性に対応する物語が必要ではないか。それが中間ということだが、具体的なイメージはない。

 ということで、この座談会、ほとんど雲をつかむような議論に終始したが、でも、それなりに面白かった。民俗学は、言わば古い村落共同体の公共性を研究対象とするところがある。その公共性からどういう知恵を引き出すのか、というのが民俗学の仕事みたいなところがある。私が例として出したのは、江戸次第の農村で行われていた盟神探湯の例である。例えば、村の境界争いが起こったとき、その是非を神判裁判で決着させるというもので、その代表的な例が、盟神探湯である。盟神探湯は熱い湯に手を入れてやけどしたら罪を受けるというものだが、鉄火裁判というのもある。鉄火裁判とは、真っ赤に焼けた鉄を争っている各村の代表に手に乗せ、やけどした方が負け、というものである。負けた村の代表は処刑されたそうである。

 これらの神判は江戸時代末期まで行われていた。川崎に鉄火碑が残っていて、実際に行われていたことがわかる。こういうのも公共性であり、共同体の知恵である。公共性というのは、ピンキリにいろいろあるのである。むろん、このような神判による裁定もまた一つの知恵であり、更新次第では、新しい公共性にとっての知恵になり得るかも知れないが、何とも言えない。ただ、文化は流動的である、ということは言えるだろう。

 日曜日は、公募制推薦入試。我が学科はかなりの受験者減である。推薦で学生の数を確保する他ない。しかし、かつてはこんなもので、一般入試の受験生が圧倒的に多かったのだが、今は違う。短大は、何処でもそうだが、推薦で確保出来ないとだいたい定員割れする。今年度のわが学科がそうなった。

 入試のあとはまた研究会。今度はアジア民族文化学会のなかの研究会。大学の科研費で作製している研究報告のまとめの作業である。この報告のために11月に入って私も何とか原稿40枚ほど書いた。少しほっとしたが、某学会へ提出する原稿が一本残っている。こちらは何とか今月中に書き上げる予定である。

 今週は、今度の日曜が推薦入試。風邪を引かずに乗り切らなくては。

初めての競馬2012/11/25 00:11

 馬主の知り合いがいて、前々から競馬場にきませんかと招待を受けていた。それで、今日日程が空いていたので、奥さんと府中の競馬場につれていってもらった。一応、正装でということなので、私はネクタイ着用である。府中競馬場の地下駐車場に乗り入れ、エレベーターで7階の馬主の役員室へと案内された。実は私は競馬というものがはじめてで、競馬場に来るのもはじめてである。私の競馬場デビューなのだが、いきなりこういうVIP待遇でやや戸惑った。ただ好奇心でおつきあいしたのだが、こんなに立派なところへ案内されるとは思わなかった。

 ガラス張りの部屋からの多摩丘陵の景色が素晴らしく、外の特別席に出れば馬場全体が見渡せる。府中競馬場はとてもきれいで設備も新しい。かなりの費用をかけて改装したのだという。招待してくれたSさんは競馬場の役員もやっているので、普通入れないようなところへも案内してくれる。はじめて見る世界なので、ただただこういうものかと感心ばかりだった。

 競馬場では実にたくさんの人が働いていた。馬も近くで見ることが出来たが、とても可愛い目をしていた。観客の数も多かったが、明日がジャパンカップなので明日は今日の倍は来るという。政治家は日銀を脅して紙幣を発行させ国民がもっと消費するようにと苦心しているが、考えてみれば、今いるこの競馬場では、実に巨額の貨幣が消費され、その貨幣がたくさんの人の生活を支えているという意味で、貨幣がぐるぐる回っている場所だ。その意味では、資本主義の理想の場所なのかも知れない。かつて石原都知事が東京にカジノを作りたいといった意味が、実感としてよくわかる。

 私は競馬場に来たのは実ははじめてではない。小さい頃父親に地方のだが競馬場に連れられていった記憶がある。競馬場に入ると予想屋やという人が何人も大声で怒鳴っていて周りに人だかりが出来ていた。戦後の高度成長の前の頃だから、たぶん雰囲気はかなりすさんでいたのではないかと思う。父親は、競馬にのめり込み、母親が家を出て行くということになった。私と弟とは母親に引き取られたわけだが、そういうわけで、私の、競馬場の記憶はあまりよいものではない。

 私がギャンブルに興味がないのはそういった記憶も要因としてあるのかも知れないが、だいたい賭け事で勝ったという経験がないということが一番大きいだろう。7階の特等席で、一応馬券の買い方を教えてもらって買ってみた。新聞の予想通りに買ったが、単勝で一度だけ当たりあとは全部外れた。何となく、みんながのめり込む理由が分かった気がする。大枠では予想通りに人気の馬が上位に入るが、必ずしも一番、二番人気が一位になるわけではない。4、5番人気が一位になったりする。それを見越して、様々な組み合わせの買い方が設定されていて、みんなどの買い方が配当率がいいかリスク計算しながら馬券を買うわけだ。さらに、そこに馬への個人的な心情や勘といった不確定要素も加味されるので、考えれば考えるほど答えが出ないことになる。

 馬券の買い方も感心した。マークシートに塗りつぶす方式で、自動の馬券発売機にシートと金を入れるだけだ。払い戻しもその機械に入れれば自動で出てくる。ちなみに、京都競馬場のレースも同時に行われていて、その場で馬券を買えるようになっている。とにかく初めてのことなのでいろいろと興味深かった。

 馬主の世界についていろいろ聞くことが出来た。私たちの住む世界とは別世界の人たちの話ではあったが、競馬が結局消費そのものを目的にした祭りでもあるということだけは感じられた。馬主は、何億という投資をして馬を持つが、その馬が勝てなかったり骨折でもすれば、全部失う。馬券を買う人たちはその何十分の一の投資で同じ行為をする。そのような場では自分が普段の自分でないものになる。祭りと同じである。

 馬主さんは私が競馬にのめり込むかもしれませんよ、と言ったが、ビギナーズラックもなかったし、のめり込むということはないだろう。とにかく、毎日忙しいのだ。のめり込まなくても、競馬に行ける余裕は欲しい。馬券の買い方も覚えたし。