職人2009/02/01 00:29

 今日は某大学の科研プロジェクトの第三者評価委員による評価会議に出席。どういうわけか私が第三者評価委員になっているので。億の金が出る研究プロジェクトなので第三者による評価が必要らしい。研究テーマは、アジアにおける経済発展と都市化による文化の変容、というもので、とりあえずは私の研究テーマと近接はしている。

 東南アジアが中心で中国は入っていない。活動報告を聞きながら私のところでもこういう科研費がとれたらいいのにと思ったが、難しそうだ。これだけお金が出ると、例えば研究施設の建設費や専属の人を雇う人件費も出るらしい。ただ、このプロジェクトが終わると間借りしていた研修所や専属のスタッフも辞めてもらわざるを得ないということだ。

 続けるなら、大学から金を出させるか、また科研に応募しなくてはならない。大学は、研究費は外部の競争による研究資金を取れという方針で金を出さない。が、科研はいつもとれるわけではない。結局、持続的な研究は難しいということであった。ただ、資金は出るのでデータベースなどを作って後の人たちに残る成果を出すことは出来る。そういう利点はあると言っていた。

 ここのところ、忙しくてブログを書く暇もない。基礎ゼミのテキスト作りもいよいよ大詰めで、しかもアジア民族文化研究に書く報告書の原稿も同時進行で書き進めている。期末試験が終わって試験の点数もつけなきゃいけない。会議だってないわけじゃない。パソコンのうちすぎよる頸椎症も出て、気分も優れない。

 いつもの愚痴しか書くことはないのだ。

 歌人のFから電話があって、雑誌を出すがどういうテーマで書いてくれるか、と聞いてきた。短歌の時評は飽きたろうということで、今何かテーマはあるか、と聞かれたが、ないことはないが、雑誌に書くようなテーマは思い浮かばない。思わずおっしゃってくれればどういうテーマでも、と言ってしまった。

 あとで反省。これじゃどうも私は批評の職人みたいなものだ。つまり、その場で客の求めに応じて何でも書くし、批評もする。少しは自分のこだわっているテーマで書かしてくれ、といわなきゃ、情けないのではないか。

 ベートーベン以前の作曲家は、音楽の職人で客の求めに応じて音楽を作った。後世に残そうなんて考えなかった。だから、作品番号を自分の作品につけなかった。ところが、ベートーベンは自分の作品に番号をつけた。だが、駄作にはつけなかったということだ。つまり、芸術として後世に残そうと意識した、ということらしく、だからベートーベンから職人ではなくなった、ということらしい。そうするとモーツァルトはまだ職人ということになる。やっぱり、職人だって天才は天才だということだ。

 むろん、職人であることは悪いと思っていない。テーマだってないわけじゃない。山田太一のテレビドラマ「ありふれた奇蹟」で主人公の男の子は下塗りの左官である。本人は漆喰などの見栄えのするかっこいい上塗りがしたい。が、左官屋のじいさんは下塗りでいいんだ、余計なことを考えるな、としかり飛ばす。職人なのである。うちの奥さんはこのドラマが好きで、このじいさんがいいと言っている。どうも、職人が好きらしい。

 漆喰などの壁塗りがしたいという気持ちはよくわかる。誰だってテーマを持って生きたい。が、テーマなど余計だ、ただこつこつ丁寧に生きてりゃいいんだ、という生き方もある。じいさんのようにだ。

 さて、私はテーマがないわけではない。が、いつも簡単にはそのテーマが出てこないようになっている。何となく簡単には言えないようなテーマばかり考えているからだ。だから、聞かれると戸惑うのだ。だからとりあえずは、引き受けた仕事は何でもしますと職人のように仕事をする。が、職人ではないとも思う。よくわからない。テーマを強く持つ人は、そのテーマにつながらない仕事は引き受けない。そういう強さは私にはないので、いつも私は忙しい。そろそろ体もきついし、そろそろ職人らしい振る舞いは辞めて、俺は後世に残る仕事をするぞ、と柄にもないわがままな生き方をせざるをえないのかなとも思う。まあ、無理だろうが。モーツァルトのように天才だったら、何も考えなくてもよかったのだが。

                       テーマなき二月をこつこつと歩む

卒ゼミ打ち上げ2009/02/03 00:03


 二年生の「文学とことばのセミナー」の卒業レポート集が完成し、今日学生に配る。一人8000字以上のレポートを課し、ほぼ全員提出し、それを印刷し製本して皆に配った。製本といっても東急ハンズで買ってきた製本キットを使った手作りのものであるが。17名の卒業論文とも言えるレポート集でさすがに分厚い。学生達も満足げな顔をしていた。やっぱり、これを作る事がこの授業の目標と言ってきたので、その目標が達成されたというわけである。が、目標が達成されればもう終わりなので、何となく寂しさが残る。

 夕方から近くのイタメシ屋で卒業リポート完成の祝いも兼ねて打ち上げのクラス会。学生達は今日で試験も終わり、後は卒業するだけ。学校にはもうほとんど来ない。こういう最後の日にみんなでわいわい食事でもして騒ぐのは、楽しい。打ち上げというのは今まで努力してきた事が終わってしまう寂しさを紛らすイベントなのだ。

 このセミナーのテーマは「異界」。難しそうだが、要するに異界に関わるものなら何でもいい。宮崎駿のアニメでも宮澤賢治でも遠野物語でも、テーマの幅は広い。だが、それだけ何をやっていいか悩むということになり、なかなかテーマが決まらない学生もいて、こちらもはらはらした。でも何とかみんな書き上げてこちらも安堵した。

 こういう場では学生は授業で見せない表情を見せる。あれこいつこんなに元気な奴だったんだ、と気付かされる。まあ、学生のほうも先生ってこういう人だったんだ、と思っているだろうが。やっぱりこういう気づき合いは最後の方がいいかもしれない。途中で分かると、私の権威というのも怪しくなる(もともと権威などないが)。

 短大生を2年で送り出すのは早いなあと感じる。が、時間の短い方が、時間は輝くと言うこともある。4年を2年に凝縮したと思えばいい。わたしなど逆で、毎年おなじ事を繰り返しているから、1年を10年に引き延ばしているという感じだ。ただ、それなりにやることがあると時間は凝縮できる。ただかなり意志的にやらないと凝縮できない。そこが辛いところだ。若さとはこの凝縮された時間を特権的に持てるということだ。だからそれだけで輝けるのだが、その特権を無駄にしないで欲しいと願わずにはいられない。教師として。

寒明けやティラミス食べて騒ぎけり

経済でなく哲学2009/02/06 01:13

 ここのところ採点と基礎ゼミテキスト作りと、そして調査報告と、時間が足りない。今日は久しぶりに雑務がなく一日家で仕事。夕方、昔の友人達との飲み会で新宿へ出る。ここんと忙しくてこの飲み会にもなかなか顔を出せなかったが、今日は気分転換に顔を出す。

 ついでに税理士の友人に税金の申告の書類をわたす。たいした税金を払っているわけではないが、給与以外の収入がないわけではない。特に、私の文章が受験参考書に使われているために、少額の印税があちこちから入る。だから、申告しないといけないのだが友人がやってくれるので助かる。ちなみにこの友人かつての過激派だが、今は税理士のカリスマでけっこう有名になっている。

 昔大手予備校でかせいでいたときは、この申告は結構大変で、一度税務署から呼び出されて申告漏れを指摘されて追徴金を払ったことがある。予備校の支払調書が細かくて複雑なので、申告漏れが出てしまった。

 派遣村のような人たちを救うためなら税金たくさん払ってもかまわないが、官僚の天下り先の高額な退職金を払うのだったら、税金は納めたくはない。誰だってそう思っているだろう。税金を上げれば官僚が上前をはねてその税金を分配する権力を握る。だから、官僚は、福祉には財源が必要だと言って税金を上げたがる。それを批判する民主党のほうが今は正論だろう。

 久米宏の番組に竹中平蔵が出演していて、今の格差社会や派遣切りの元凶を作ったという声に対して、実に冷静に雄弁に反論していた。まず、相手の発言の不正確さをいちいち指摘して、自分を批判するものはいつも正確な事実を踏まえていないと、相手の主張に欠陥があると印象づける。それから、今起こっている問題は構造改革が中途半端に終わった結果だといつもの主張を繰り返す。どうして雇用改革は中途半端になってしまったのか、と言う声には、時間が足りなかったと、答える。結局、その場に同席した反竹中のコメンテーターは何も言えなくなってしまった。

 こういう弁の立つ人間と論争する時は情緒的になったら負けである。今悲惨な現実があるのにあなたは何とも思わないのか、という情緒的な叫びで終わってしまうだけで、竹中の論理そのものを突き崩すことはできなかった。

 ただ、竹中平蔵の言っていることは間違っているわけではない。派遣の問題についても、同一労働同一賃金が原則だと語っている。つまり、雇用形態で賃金に差があるのはおかしいので、正社員であろうと派遣であろうと、同じ仕事をしていたら、同一の賃金を払うべきということである。むろん、この考えには落とし穴があって、正社員の特権を奪って派遣に近づけるという考えでもあるから、不況時には大量の失業者を生む結果につながる。

 理想は確かに全員終身雇用だろうが、それは無理だろう。サービス業が主要な産業になった社会では、終身雇用というのは非現実的である。かつての共産主義社会の店員が無愛想だったようにサービスという観念のない社会ならまだしも、サービスが産業になってしまえば、店員はより若いほうがいいし、年をとれば別の職種に移ってもらうということになる。雇用の流動性はそれ自体悪ではない。ただ、雇用する側が、会社の利益を安易な雇用調整によって出そうとすると、労働する人間の価値が止めどなく貶められる、それが問題なのだ。

 自由競争を悪とは言えないが、そこに公的な抑制がないときには、人間は自分の利益のために労働する人間を奴隷のように扱う。そういう性悪説もまた真理である。経済が上手くいっているときは人間は性悪にならないが、不景気になれば人間は性悪になる。そして、もう一つ、人間は竹中が考えるよりももっと怠惰なのである。明日生きていく糧がないときでも、人はなまけものになれる。自分の意に合わない仕事なら喰うのに困っていてもその仕事を拒否する。それは悪ではない。むしろ、そういうなまけものさやわがままによって人間は、自由であるということなのでもある。

 そういうわがままさを働く気がないといって切り捨てるのではなく、そのほんのささやかなわがままでしか自由を享受できない人間という存在をまず認めて、そういう人間でも最低生きて行ける条件を作るのが、人間の社会なのであって、その社会の条件を整えていない、というより壊れてしまったのが今の日本なのである。

 つまり、こういうことだ。構造改革をすすめた竹中達の発想の前提は、人は常に努力して新しい価値を身につけるべきである、ということで、そうでないもののことをあまり計算に入れいていない。だから、セーフティネットの構築に熱心ではなかった。

 だが、そういう前提で生まれたのは、生活の出来ない賃金で平気で働かせる性悪な人間と、自分の生き方の選択肢を狭められたままそこから抜け出そうとしないで、その狭まった中だけで自由になろうとする、多くの孤立した人々である。

 つまり、常に競争の中で前向きに努力する人間を前提にした構造改革は無理であるということだ。欧米だってそんな人間ばかりいるわけではない。人間をとらえる前提が間違っているのである。社会の暗部や人間の弱さを見ようとしない、あるいは見たこともない、楽天的な経済学者の限界が其処にあると思う。そういう弱さを切り捨てられないから、今みんなが悩んでいる。

 竹中は間違ってはいないが、竹中の思うようには改革は進まないだろう、というのが結論だ。それは人間を甘く見ているからだ。構造改革を進めるためには、セーフティネットをきちっと作る必要があるが、その作り方は、人間の本質であるわがままさや弱さを前提にして作らないといけない。努力しないものも救うこと。そのためには、経済や政治ではなく哲学が必要である。この哲学が今欠落していると思うのである。

                         立春に哲学を説く枯木あり

チビが救い2009/02/12 00:40


 毎年思うが採点はきつい。あまり授業を持っていない今年ですらこうなのだから、授業コマが増えたらどうなるのだろうとぞっとする。

 ここんとこほんとに疲れた。土日は入試が入って休みがなかったし、会議も多かった。一般入試A日程の結果も出た。ほぼ去年並の志願者である。倍率は去年よりやや高め。短大の定員割れが続く中、ありがたいことである。

 さすがに体調を崩した。風邪気味であるが、風邪と言うよりは疲労だろう。学科内でいろいろ問題もあり責任者として神経を使った、というより磨り減らした。これも給料のうちだが、そんなに高い給料もらっていないのに、と愚痴りたくなる一週間であった。

 自分の原稿の仕事がまったく手に着かない。なぐさめはうちのチビだけである。ところが、最近、少しわがままになってきて、触ると時々吼えたりすることがある。ずっと脅えたようにふるまっていた以前からすると、やっと犬らしくなってきたと言うことだが、一応しつけはしなきゃいけないので、怒ることにしている。怒ると、私の手をぺろぺろ嘗めてくる。ごめんなさいのつもりだろう。たぶん反射的に吼えてしまうのだろうが、吼えてからしまったと反省しているのだ。そこが可愛いのである。

 それに対して人間のなんと可愛くないことか。私も可愛くないひとりであるが。

                     寒明けに義理チョコとやらもらいけり

ここんとこ故障ばかり2009/02/15 23:56

 金、土、日にかけて山小屋に行く。仕事でそれどころじゃないが、実は修理を頼んでおいたパソコンが出来たという連絡が入ったので、茅野市のヤマダ電機まで取りに行かなくてはならないのが、行く理由。ついでに、調査報告も書き上げる予定で行った。

 パソコンは金を掛けたお蔭で立派になって戻ってきた。でもノートパソコンを買ってしまったし、学校で使いたい人がいるというのであげることにしたが、ここまで直るともったいないという気がしてくる。

 調査報告書は何とか書き上げた。原稿用紙90枚近くになった。基礎ゼミのテキストと併せて、私は年明けから200枚近くの原稿を書いたことになる。研究論文とは違うので書くことに苦労はないのだが、それでも、よく書いたものだと感心。ただ、実は、2月締め切りの原稿(これは研究論文)は間に合いそうにない。さらに、3月までには、短大の評価報告書を作成しなきゃならない。あと100枚以上は書かなきゃならないだろう。

 今日山小屋から帰ってきたが、諏訪南のインターから乗ったのだが、高速に入ったとたん、ETCが突然エラーの表示になる。料金所では開閉バーが上がり通行可という表示が出たのに、何故なんだ、と慌てた。実はこれが二度目で、このエラーが出ると、出口の料金所では通過出来ない。つまり、ETCの料金所の開閉バーが閉まり係員が出てきて処理するまで、そこに停まっていなきゃならない。当然後から来た車は私の車になにやってんだと罵声を浴びせる。前に経験したことである。

 仕方なく小淵沢で降りて、係員に処理してもらった。原因は分からない。カードの接触不良でなく、料金所の通信機能の不具合か車のETCの機械の故障か分からないという。でも二度目なので、故障の可能性は高い。まったく、私の体といい、機械といい、ここんとこいろいろと故障する。

 首狩りを行っていたワ族の調査報告書を書いていて、やっぱり、ワ族でも首を狩られるのは嫌だったんだ、ということを確認した。40年前の記録に首を切られる者が歌ったという歌があって、それは私は村の豊作のためなら喜んで首を切られます、というような内容であった。今度の調査でそういう歌はあるかと聞いたところ、それは宗教者が首を狩られ者の代わりに歌ったものだ、ということで、本人はやっぱり嫌だというような答えであった。

 そりゃそうだよな。とりあえず首を切られるのは誰だって嫌なんだと言う当たり前のことが確認できただけでもほっとした。殺されるのは嫌だ、でも殺してしまう。これが人間の不条理だが、喜んで殺される、という不条理よりはましである。

 山小屋は春のような陽気。積もった雪もかなり溶け始めいる。そういう山路を行くチビとの散歩だけが気晴らしである。

   雪間草尿する犬を叱りけり

外的自己と内的自己2009/02/19 00:42

 疲労困憊でブログを書く元気もない。タフなつもりでいたがここんとこさすがにまいった。中川大臣のように、失態をしでかして(首にならない程度に)、学科長を解任、ということになったらどんなに助かるか。任期はあと1年だが待ち遠しい。

 私は酒が飲めないのであんなにろれつが回らなくなることはほとんどんない。だいたいちょっと飲み過ぎるとすぐに気持ちが悪くなってしまう。その意味では酒での失敗はしそうにないのだが、ただ、あんな風に酔っぱらいたい気持ちは分からないではない。

 岸田秀の心理学分析にならえば、彼は外的自己と内的自己の分裂の幅が大きすぎたのである。彼の内的自己は自信なさそうでたぶんコンプレックスをかなり持っている。東大出の官僚達をあごで使いながらも、漢字が読めない教養のなさを笑われているんじゃんないかと内心はそうとうプレッシャーがあったろう。外面の強面ぶりは、内心の弱さを見せまいとするバリヤーでもあったのだ。

 だいたい、保守派の政治家はこの手の人が多い。安倍元総理もそうだ。共通するのは、個人や生活の価値よりも国家の価値を優先する国家主義者であること。つまり、権力そのものである国家を絶対化し、それを自分の思想的な装いとすることで、政治家としてあるいは権力家としてふるまう自分を支えようとする。もともと、自分の意志というより親の遺産を継承して政治家になった人たちだから、内面的な根拠など最初からないし、それを作る必然性も持っていなかったはずだ。だとすれば、内面に自信のない自分を偉く見せるのは、とりあえず誰もがひれふする国家主義者になるしかない。2世、3世の頼りなさそうな政治家がみな保守的な国家主義者になるのは、だいたいそういう理由による。  

 ところが、そうであるからこそ、外的自己と内的自己の分裂はひどくなる。自分の内面をかくすために権威的な外的自己をより拡大する。内と外の差はどんどん大きくなる。心理学的には、この差は一定の限度を超えると人間の心を壊してしまう。

 かつて羽田沖で逆噴射して飛行機を墜落させた機長がいた。確か、操縦に自信が無く、いつも過度の緊張に神経を磨り減らしていた。つまりパイロットという外的自己と自信のない内的自己との差が限度を超えてしまった。そこで、その差を一挙に縮めようとした。どうしたかというと、外的自己を壊せばいいのである。つまり、墜落することでパイロットである自己を壊したのである。

 中川大臣を見ているとどうも同じことをやっているように見える。一番やってはいけないタイミングで、やつては行けないとわかっていたことをやってしまうのは、つまり、無意識ではそれをあえてやりたかったということである。大臣であり政治家である外的自己を壊したかったのだ。そうすることで、外的自己と内的自己とを一致させたかったのである。

 安倍元首相も同じである。一番辞めては行けないタイミングで体調を崩して辞めたのは、これも外的自己の破壊である。二人とも国家主義者で、タカ派と呼ばれ、権力的であろうとした政治家である。が、一方で内面では、そのような外的自己を支える必然性も思想もあまりなかった。日本の保守的政治家の貧困さをこの二人は象徴しているように思う。

 それに比べると麻生首相は、外的自己と内的自己の分裂があまりないように見える。どういうことかと言えば、どうもどちらもいい加減で、漢字が読めなくてもあまりこたえているようすもなく、コンプレックスもないようだ。それよりも、権威的であろうとする外的自己をあまり作らない。どうも内的自己も外的自己も、あまりつきつめて極めようとするタイプでない。ようするに典型的な遊び人のお坊ちゃまで、こういう人は自分を嫌いになることはまずない、だから、自分を壊してしまうと言う衝動などとも無縁だろう。

 総理にはどうかと思うが私は人間的には嫌いではない。何となく緊張感がないので、どうも100年に一度の大不況が、ちっともそのように感じられないのは、この人が総理をやっているせいだろう。

 私はどちらかと言えば中川タイプだろうか。麻生タイプでないことは確かだ、だいたいおぼっちゃまじゃないし。でも、外的自己と内的自己の分裂があるのかというと、そんなに無いような気もする。自分のことはよく分からない。

 久米宏の番組で、最近の若い男の子の特集をやっていて、草食男子、というテーマ。欲望をあまりもたずに、いつも待ちの姿勢で、女の子に告白されたいと思う、内向きタイプのことで、最近多いらしい。草食男子かどうかのチェックがあったが、10個のチェックポイントの内で私は4個あてはまった。出演者の男性は2個。微妙な数だが、私は世代としては、肉食男子の世代だ。その世代の中では草食男子であることが判明した。やっぱりなあ、という感じで、外的自己と内的自己の分裂があまりないと思うのもそんなところに理由があるのかも知れないと思った。中川さん、肉食の固まりみたいな顔しているからなあ。 
                
     醜態をさらす人あり春寒き

壁と卵2009/02/26 00:40

 何とか基礎ゼミテキストの原稿を完成させた。予算の関係で、結局、A5版180ページのテキストを、私が編集して打ち出した原稿をそのまま印刷して製本するということになった。つまり、表紙のデザイン、目次、ページ番号、活字の大きさ、ページごとのデザイン、全部私がやって、印刷所はそれを印刷して製本するだけ、ということである。だから安く出来る。普通はデータを出して編集も含めて印刷所にやってもらう。その編集を私がやるわけだが、むろん私には編集費ははいってこない。

 難しかったのが、一太郎とワードの両方のデータがあって、そのバランスをどう調整するかである。私は一太郎で原稿を作るので私の書いた原稿は一太郎である。ところが、依頼した原稿はほとんどがワードで、しかも図表が多い。A4の大きさで作ってくるが、A5の大きさに直すと図表などはかなりずれてしまう。その調整がやっかいであった。書式を整えるには、ソフトを統一した方がよいのだが、使い勝手は一太郎がよいので、どうしても一太郎に頼ってしまう。ワードを一太郎に変換したくても図表が入っていると難しい。それは逆も言えるのである。A5の用紙に一応全部印刷してみた。なかなかうまくいったと思っている。 

 昨日、篠原霧子歌集『白炎』の歌集評の原稿を8枚ほど書いて送る。二日で書き上げたが、なかなかアイデアが出なくて辛かった。それでも面白いユニークな歌集だったので、書いていて楽しかった。評論は料理の面白さというのとほんとに良く似ている。今回はけっこう上手く料理ができたのではないかと思っている。ただ人が読んでどう味わうかはわからない。特に本人はどう受け止めるか、評を書き終えた後は、ちょっと言い過ぎたかなとか、もっとほめときゃよかったとか、いつも反省である。

 村上春樹のエルサレム章受賞のスピーチがあちこちに出ていて、読んでみたが、さすがにうまい比喩を使った良いスピーチだなと感心。壁と卵の比喩はこれからもよく使われるだろう。壁はシステムのたとえだと言う。英語でシステムと言っている。週刊朝日はこのシステムを「体制」と訳していた。他はほとんどそのままシステムと訳している。

 体制というのは古くさいイメージが漂う。ここはシステムの方がいいだろう。体制はそのまま国家のイメージと重なるが、システムは国家というよりは装置のようなものである。イスラエルの暴力は確かに国家の暴力だが、村上春樹の言う暴走するシステムという壁は、もっと身近に何処にでもあり得るものだろう。例えば自爆テロも、管理者がいて、自爆テロの計画数が決められていて、志願者を何人か集めてくるノルマがあって、そうやって若者を自爆させているとしたら、それは国家ではないが、村上が言う壁としての立派なシステムだ。

 システムによってわれわれは自分が生きている社会を成立させているが、そのシステムによって時には人間であることの根拠を奪われる。だが、システムの規模を小さくして身近なものにしていけば、それは壁として嫌悪すべきものでもなくなる。そこまで考えてしまうと、村上春樹のスピーチは意味を持たなくなるが、むろん、そこまで小さくする必要はない。どんなに親しみのもてるものであっても、ある限界を越えると、それは人間を排除する機械にも暴力装置にもなる。村上の言っている壁としてのシステムとはそういう限界を越えてしまったシステムのことだろう。

 もう少し批評的に語るなら、村上の言う卵とは常に一個でしかない。孤立した絶望を抱え込んだ卵、というイメージで、村上は人間とはそういうものだと語ろうとしている。それは村上春樹の文学のテーマでもあるが、ただ、政治的なメッセージを帯びてしまうスピーチでは、その孤立した卵の比喩は、どこまで届くだろうか。

 人間とは弱い者である。その弱さの側に立つというメッセージと、圧倒的な暴力にさらされている力を持たないものの側に立つというメッセージとでは明らかに違いがある。パレスチナ人が力を持てば、たぶん人間の弱さを否定して戦うだろう。そして勝つために自らをシステム化するだろう。卵をシステム化し戦車に対抗する手段がないわけではない。システム化とは、孤立しない戦略のことであもある。卵も組織化されれば強くなるだろう。それをやめろ、ということは誰にも出来ないはずだ。

 村上春樹のスピーチが感動させた相手、つまりそのメッセージがほんとうに伝わった相手は、イスラエルの暴力に虐げられた弱い卵のようなパレスチナ人ではなく、その暴力の側で弱い人間の部分を隠しきれないでいるイスラエル人である、ということである。このスピーチをかなり冷ややかに見れば、このスピーチによって多くのイスラエル人は救われたろう。たぶん、イスラエル人だって、一人一人は弱いし弱い者に同情的でありたいと思っているが、自分たちの作ってシステムによってそれを表現できないでいる。だから村上春樹という他者にそれを語らせたのである。そして、パレスチナ人は、村上のスピーチを聴いても感動しないだろう。自分たちはただ壊されるだけの卵ではなく、今は卵でもいつかは壁に対して復讐すべきもっと強い壁にならなくてはと、強い怒りと共に考えているだろうからだ。

 だから、このメッセージに意味はないということを言いたいわけではない。ただ、このスピーチが平和に結びつくなどという幻想を余り持たない方がいいと思うだけだ。このスピーチはスピーチとして感動的だし、イスラエル人にも、実際は壁の側で生きている(村上春樹もそうだ)多くの先進国の人々を感動させるだろう。

 私もそれなりに感動的に読んだが、それは私も人間の弱さを排除する思想やシステムが嫌いだからで、村上春樹と考え方は同じだからだ。ただ、村上春樹が、みんなから受賞式に行くなと言われたので行くことにした、と答えたように、私も、みんなが感動的だとほめると、ついそんな単純じやないよ、と言ってみたくなる。ただそれだけである。

       弱い樹も強い樹もみな梅ばかり