職人2009/02/01 00:29

 今日は某大学の科研プロジェクトの第三者評価委員による評価会議に出席。どういうわけか私が第三者評価委員になっているので。億の金が出る研究プロジェクトなので第三者による評価が必要らしい。研究テーマは、アジアにおける経済発展と都市化による文化の変容、というもので、とりあえずは私の研究テーマと近接はしている。

 東南アジアが中心で中国は入っていない。活動報告を聞きながら私のところでもこういう科研費がとれたらいいのにと思ったが、難しそうだ。これだけお金が出ると、例えば研究施設の建設費や専属の人を雇う人件費も出るらしい。ただ、このプロジェクトが終わると間借りしていた研修所や専属のスタッフも辞めてもらわざるを得ないということだ。

 続けるなら、大学から金を出させるか、また科研に応募しなくてはならない。大学は、研究費は外部の競争による研究資金を取れという方針で金を出さない。が、科研はいつもとれるわけではない。結局、持続的な研究は難しいということであった。ただ、資金は出るのでデータベースなどを作って後の人たちに残る成果を出すことは出来る。そういう利点はあると言っていた。

 ここのところ、忙しくてブログを書く暇もない。基礎ゼミのテキスト作りもいよいよ大詰めで、しかもアジア民族文化研究に書く報告書の原稿も同時進行で書き進めている。期末試験が終わって試験の点数もつけなきゃいけない。会議だってないわけじゃない。パソコンのうちすぎよる頸椎症も出て、気分も優れない。

 いつもの愚痴しか書くことはないのだ。

 歌人のFから電話があって、雑誌を出すがどういうテーマで書いてくれるか、と聞いてきた。短歌の時評は飽きたろうということで、今何かテーマはあるか、と聞かれたが、ないことはないが、雑誌に書くようなテーマは思い浮かばない。思わずおっしゃってくれればどういうテーマでも、と言ってしまった。

 あとで反省。これじゃどうも私は批評の職人みたいなものだ。つまり、その場で客の求めに応じて何でも書くし、批評もする。少しは自分のこだわっているテーマで書かしてくれ、といわなきゃ、情けないのではないか。

 ベートーベン以前の作曲家は、音楽の職人で客の求めに応じて音楽を作った。後世に残そうなんて考えなかった。だから、作品番号を自分の作品につけなかった。ところが、ベートーベンは自分の作品に番号をつけた。だが、駄作にはつけなかったということだ。つまり、芸術として後世に残そうと意識した、ということらしく、だからベートーベンから職人ではなくなった、ということらしい。そうするとモーツァルトはまだ職人ということになる。やっぱり、職人だって天才は天才だということだ。

 むろん、職人であることは悪いと思っていない。テーマだってないわけじゃない。山田太一のテレビドラマ「ありふれた奇蹟」で主人公の男の子は下塗りの左官である。本人は漆喰などの見栄えのするかっこいい上塗りがしたい。が、左官屋のじいさんは下塗りでいいんだ、余計なことを考えるな、としかり飛ばす。職人なのである。うちの奥さんはこのドラマが好きで、このじいさんがいいと言っている。どうも、職人が好きらしい。

 漆喰などの壁塗りがしたいという気持ちはよくわかる。誰だってテーマを持って生きたい。が、テーマなど余計だ、ただこつこつ丁寧に生きてりゃいいんだ、という生き方もある。じいさんのようにだ。

 さて、私はテーマがないわけではない。が、いつも簡単にはそのテーマが出てこないようになっている。何となく簡単には言えないようなテーマばかり考えているからだ。だから、聞かれると戸惑うのだ。だからとりあえずは、引き受けた仕事は何でもしますと職人のように仕事をする。が、職人ではないとも思う。よくわからない。テーマを強く持つ人は、そのテーマにつながらない仕事は引き受けない。そういう強さは私にはないので、いつも私は忙しい。そろそろ体もきついし、そろそろ職人らしい振る舞いは辞めて、俺は後世に残る仕事をするぞ、と柄にもないわがままな生き方をせざるをえないのかなとも思う。まあ、無理だろうが。モーツァルトのように天才だったら、何も考えなくてもよかったのだが。

                       テーマなき二月をこつこつと歩む