経済でなく哲学2009/02/06 01:13

 ここのところ採点と基礎ゼミテキスト作りと、そして調査報告と、時間が足りない。今日は久しぶりに雑務がなく一日家で仕事。夕方、昔の友人達との飲み会で新宿へ出る。ここんと忙しくてこの飲み会にもなかなか顔を出せなかったが、今日は気分転換に顔を出す。

 ついでに税理士の友人に税金の申告の書類をわたす。たいした税金を払っているわけではないが、給与以外の収入がないわけではない。特に、私の文章が受験参考書に使われているために、少額の印税があちこちから入る。だから、申告しないといけないのだが友人がやってくれるので助かる。ちなみにこの友人かつての過激派だが、今は税理士のカリスマでけっこう有名になっている。

 昔大手予備校でかせいでいたときは、この申告は結構大変で、一度税務署から呼び出されて申告漏れを指摘されて追徴金を払ったことがある。予備校の支払調書が細かくて複雑なので、申告漏れが出てしまった。

 派遣村のような人たちを救うためなら税金たくさん払ってもかまわないが、官僚の天下り先の高額な退職金を払うのだったら、税金は納めたくはない。誰だってそう思っているだろう。税金を上げれば官僚が上前をはねてその税金を分配する権力を握る。だから、官僚は、福祉には財源が必要だと言って税金を上げたがる。それを批判する民主党のほうが今は正論だろう。

 久米宏の番組に竹中平蔵が出演していて、今の格差社会や派遣切りの元凶を作ったという声に対して、実に冷静に雄弁に反論していた。まず、相手の発言の不正確さをいちいち指摘して、自分を批判するものはいつも正確な事実を踏まえていないと、相手の主張に欠陥があると印象づける。それから、今起こっている問題は構造改革が中途半端に終わった結果だといつもの主張を繰り返す。どうして雇用改革は中途半端になってしまったのか、と言う声には、時間が足りなかったと、答える。結局、その場に同席した反竹中のコメンテーターは何も言えなくなってしまった。

 こういう弁の立つ人間と論争する時は情緒的になったら負けである。今悲惨な現実があるのにあなたは何とも思わないのか、という情緒的な叫びで終わってしまうだけで、竹中の論理そのものを突き崩すことはできなかった。

 ただ、竹中平蔵の言っていることは間違っているわけではない。派遣の問題についても、同一労働同一賃金が原則だと語っている。つまり、雇用形態で賃金に差があるのはおかしいので、正社員であろうと派遣であろうと、同じ仕事をしていたら、同一の賃金を払うべきということである。むろん、この考えには落とし穴があって、正社員の特権を奪って派遣に近づけるという考えでもあるから、不況時には大量の失業者を生む結果につながる。

 理想は確かに全員終身雇用だろうが、それは無理だろう。サービス業が主要な産業になった社会では、終身雇用というのは非現実的である。かつての共産主義社会の店員が無愛想だったようにサービスという観念のない社会ならまだしも、サービスが産業になってしまえば、店員はより若いほうがいいし、年をとれば別の職種に移ってもらうということになる。雇用の流動性はそれ自体悪ではない。ただ、雇用する側が、会社の利益を安易な雇用調整によって出そうとすると、労働する人間の価値が止めどなく貶められる、それが問題なのだ。

 自由競争を悪とは言えないが、そこに公的な抑制がないときには、人間は自分の利益のために労働する人間を奴隷のように扱う。そういう性悪説もまた真理である。経済が上手くいっているときは人間は性悪にならないが、不景気になれば人間は性悪になる。そして、もう一つ、人間は竹中が考えるよりももっと怠惰なのである。明日生きていく糧がないときでも、人はなまけものになれる。自分の意に合わない仕事なら喰うのに困っていてもその仕事を拒否する。それは悪ではない。むしろ、そういうなまけものさやわがままによって人間は、自由であるということなのでもある。

 そういうわがままさを働く気がないといって切り捨てるのではなく、そのほんのささやかなわがままでしか自由を享受できない人間という存在をまず認めて、そういう人間でも最低生きて行ける条件を作るのが、人間の社会なのであって、その社会の条件を整えていない、というより壊れてしまったのが今の日本なのである。

 つまり、こういうことだ。構造改革をすすめた竹中達の発想の前提は、人は常に努力して新しい価値を身につけるべきである、ということで、そうでないもののことをあまり計算に入れいていない。だから、セーフティネットの構築に熱心ではなかった。

 だが、そういう前提で生まれたのは、生活の出来ない賃金で平気で働かせる性悪な人間と、自分の生き方の選択肢を狭められたままそこから抜け出そうとしないで、その狭まった中だけで自由になろうとする、多くの孤立した人々である。

 つまり、常に競争の中で前向きに努力する人間を前提にした構造改革は無理であるということだ。欧米だってそんな人間ばかりいるわけではない。人間をとらえる前提が間違っているのである。社会の暗部や人間の弱さを見ようとしない、あるいは見たこともない、楽天的な経済学者の限界が其処にあると思う。そういう弱さを切り捨てられないから、今みんなが悩んでいる。

 竹中は間違ってはいないが、竹中の思うようには改革は進まないだろう、というのが結論だ。それは人間を甘く見ているからだ。構造改革を進めるためには、セーフティネットをきちっと作る必要があるが、その作り方は、人間の本質であるわがままさや弱さを前提にして作らないといけない。努力しないものも救うこと。そのためには、経済や政治ではなく哲学が必要である。この哲学が今欠落していると思うのである。

                         立春に哲学を説く枯木あり