身体の問題2007/11/29 00:46

 先週受けた人間ドックの結果が届いて、やはりコレステロールが高かった。すぐに治療しろと書いてある。これも体質なのだろう。というより、やはり職業選択を間違ったというしかない。肉体労働向きの身体なのに、身体を動かさない精神労働ばかりやっているからこうなるのだということだ。

 養老猛司ではないが、脳だけで生きている、というのは人間の生き方としては不自然なのだ。養老猛司によれば、脳とは、頭の中の部分を言うのではないという。体中の神経組織もまた脳を構成する一部分であって、従って、身体を動かすことは脳を使っていることにもなるということだ。ただ、外界への情報のやりとりというレベルで言うと、身体組織はあえて鈍く出来ているはずだ。そうでないと、個体の身体は外界の情報に翻弄され、その固有の身体を失ってしまうはずだからだ。

 自然のあまりのゆったりとして動きには、人間の身体は苛立ち、意志的にスピードを上げて動くが、社会の中での情報のやり取りに対しては、身体は逆に動かない自然であるかのように動きを鈍くする。そうしないと、心の中の感情という深さにまで到達しかねない外界との接触反応をうまく抑制できないからだ。外界の刺激とは常に痛みのようなものであって、情報とはまた外界の刺激の一つであるとすれば、情報過多の現代は膨大な痛みに満ちた時代である。

 だれでも動かない自然に似た身体を持っているから、刺激に満ちたこの現代の痛みの中で生きていられる。身体が時に不調で痛むとしても、それはとりあえず身体の「病」であって、自然が不変でないように命あるものは不変ではないということによって受け止め可能である。が、自然の身体から切り離された、過剰な情報に接触することによってもたらされる痛みは、それを仕方がないと受け止めるどんな論理もない。

 このように書いてみたのは、先週の日文協のシンポジウムの中で、小谷真理さんが紹介していた小説、飛浩隆「ラギッド・ガール」の、膨大な情報の痛みをその皮膚で受け止める主人公阿形渓のことを思い出したからだ。

 自然的な身体を失って、頭の中の脳、つまり、情報処理装置のようなものだけで生きてしまえば、身体は、情報受信装置の先端に過ぎないのであって、当然、その面積を拡大して多量の情報を受け取ろうとする。身体は肥大化し、化け物のようになるだろう。自然的な鈍い身体というものはそこにはない。

 私の身体はたぶんやや肥大化し、自然的な身体であることを止めようとしているのではないかと思う。止めればどうなるか。自身の自然の生理を支えきれずに自壊作用が始まるだけだ。コレステロールが高過ぎるというのを理屈づけていくとそういうことになる。情報処理装置の先端として存在するほど私の身体は高級ではないということだ。

        ひたすらに大根洗ふ冷たさや

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