文学の黄泉がえり2007/11/27 00:37

 土曜に奈良の万葉ミュージアムにて研究会。夜は京都のいつものホテルが観光客で満員で予約がとれずに、高槻のホテルに泊まる。そこで夕食をとったが、研究会のメンバーと酒を飲んでいたら、やや貧血気味になり、ふと意識を失った。一分くらいだったが、その時何かをぶつぶつ言っていたらしい。全く覚えていないのだか、神懸かったのだろうか。というのは冗談で、ここんところ疲れが溜まってきたせいか、ふと気がゆるんで酒をやや飲み過ぎたというところだ。気をつけねば。

 次の日は早めに出て東京に昼に着いた。午後は私の勤め先で学会のシンポジウムがあり、そのシンポジウムに顔を出す。あまり期待しないで行ったのだが、シンポジウムはけっこう面白かった。

 3人の発表と討論だったが、「文学の黄泉がえり」という面白いテーマである。文学は死んだという評価があちこちで言われている今、文学はどんな風によみがえるのか、というテーマだが、共通した内容としては、文学は、サブカルチャーの中に取り込まれ変貌を遂げながらけっこうよみがえっていく、という趣旨であった。ただ、そのことを了解しつつも、パネラーのそれを評価する態度はかなり違っている、というところが面白かった。

 フェミニズム批評の立場からのパネラーは、太宰治の「女性徒」をとりあげ、「女性徒」という作品の元になった、太宰ファンの少女の手紙という表現を作家が収奪していくその構造は変わらないのではないかと言う。つまり、少女の手紙がネットワークに載って膨大なサブカルチャー文化になって、太宰の文学を超えたとしても、実は、作家はそのサブカルチャーを自分の権力の維持のために利用するという構造は保持されるのだと、批判する。

 それに対して、他のパネラー、特に、エンタメ系の婦女子の表現が扱っている評論家は、あるエンタメ系の作家が生み出す主人公をモデルに次のように述べる。サブカルチャー的な膨大な言葉の世界は、それ自体世界を痛みとして感受する情報の蓄積そのものであって、その閉じられた内部では、抑圧(権力)と被抑圧との関係が絶えず反転していくような、流動性そのものなのである。例えば、それは、単純な男(抑圧)、女(被抑圧)という権力関係を作らない。むしろ、レズビアン同士の抑圧・被抑圧関係なのだということだ。

 つまり、被抑圧的な位置にある言葉が、メディアや情報ツールの中で増殖し、膨大なサブカルチャーに変貌を遂げるとき、それ自体の構造の中に流動的で絶えず反転する抑圧と被抑圧の世界を生み出す。とすれば、シンプルな抑圧と被抑圧といった従来の古典的権力関係そのものはすでに成立しないのではないか、ということになる。

 こういうことだ。増殖するメディアの中で怪物化したサブカルチャー的言語世界は、実は、それ自体が世界を痛みとして感受する悲痛の総体なのだ。だから、引きこもりという姿勢の中でしかそれは増殖しない。とすれば、自衛隊を海外に派遣するような国家(権力)に従属して、というよりその被抑圧的な位置にいることに何の意味も見いだせないということになる。何故なら、権力が権力であるためには、庇護下にある国民の苦痛を取り除かねばならない。そのために、国民は税金を納めている。が、サブカルチャー化した国民の苦痛を国家は取り除くことが出来ない。何故なら、サブカルチャー化した国民は自分の内のバーチャル的な世界で、国家をもそのバーチャル的世界を構成する要素として取り込んでしまうからである。

 そのことは何を意味するのか。国家という権力を一見無化してしまうように見えるのだから、一種の革命なのか。むろん、そうではないだろうが、ただ、従来のシンプルな権力関係を乗り越えてしまったのは確かである。問題なのは、怪物化したサブカルチャー的言語世界が、壮大な痛みそのものであると理解したとき、たぶんその理解は誰にも共有されるだろうが、その痛みを解放するなにものもない、ということもまた共有されているということなのである。だから革命ではない。

 サブカルチャー的言語世界がどんなに怪物化しても、シンプルな権力の抑圧・被抑圧の構造からは逃れられないのだという見解もまた正しいだろうが、そういう発想は、このサブカルチャーの痛ましさから目を背けようとする発想でもあるだろう。

 目に見える権力があって、それと闘うという態度を保持できる事がどんなに幸せなことか。そういう意味では、文学がよみがえろうとしている、というより取り込まれているサブカルチャー的言語世界は、むしろ、黄泉の国以上の黄泉である。そういうことをひしひしと感じさせてくれたシンポジウムであった。

         抑圧されしもの浅漬け食うて寝る