自閉と首狩り ― 2007/05/16 23:56
福島で母親の首を切り落とした少年が手も切り落としていたことをメディアが伝えている。この少年は明らかに病であって、ある瞬間われわれとは違う領域を生きてしまったことは確かだ。従って、これは、メディアのレベルで因果や科学的原因を究明したところでわかるはずはない。そんなに生やさしい心ではないはずだ。
だとすれば、メディアはただ事実を伝えるしかないだろう。センセーショナルに心の闇と書き立て、あたかもわれわれやあるいは社会の一つの喩であるごとく持っていくのは、こういう事件が起きたときの一つのストーリーではあるが、今回ばかりはちょっと違うという気がする。この事件はわれわれの心の中の闇とそのまま重ねることは無理がある。とりあえず今はこれは心の事故のようなものだと思った方がいい。もしそのメカニズムを知らなければならないのなら、専門家が時間をかけてじっくりとやるしかないだろう。
先週のアジア民族文化学会の大会発表で、山田氏は台湾の首狩り儀礼の話をした。首狩りという習俗は明らかに文化の一つである。が、その文化はあまりに暴力性が際だつ。だからこそ、その文化は社会に負荷を与えてしまう。その負荷を社会が許容するのは、その負担を補ってあまりある意義を首狩りが持つからだが、そのような意義は歴史によって変わり得る。
いずれにしろ、首狩りが異文化や他民族に波及するとそれは文化ではなくなりただの戦争になる。それが文化であるのは、閉じられた世界である必要がある。閉じられているから、それは戦争にならずに共同幻想によって社会にとって必要不可欠な意義を与えられるからだ。
その論理で行けば、徹底して自閉的であることが、身体への暴力に宗教的とも言える意味を与えるのであって、その逆はない。少年が母の首を切ったのは、母が他人でなかったからだ。他人だったら戦争になる。戦争は他者に開かれていく交流であり、自閉的では戦争は出来ないのである。少年の心の中は何もわからないが、首を切るという暴力性を、文化人類学的知見で解釈すればその程度のことは言える。むろん、これでこの事件がわかるなんてことは一切あり得ないが。
根切り虫よ少年のこころ断ち切れ
だとすれば、メディアはただ事実を伝えるしかないだろう。センセーショナルに心の闇と書き立て、あたかもわれわれやあるいは社会の一つの喩であるごとく持っていくのは、こういう事件が起きたときの一つのストーリーではあるが、今回ばかりはちょっと違うという気がする。この事件はわれわれの心の中の闇とそのまま重ねることは無理がある。とりあえず今はこれは心の事故のようなものだと思った方がいい。もしそのメカニズムを知らなければならないのなら、専門家が時間をかけてじっくりとやるしかないだろう。
先週のアジア民族文化学会の大会発表で、山田氏は台湾の首狩り儀礼の話をした。首狩りという習俗は明らかに文化の一つである。が、その文化はあまりに暴力性が際だつ。だからこそ、その文化は社会に負荷を与えてしまう。その負荷を社会が許容するのは、その負担を補ってあまりある意義を首狩りが持つからだが、そのような意義は歴史によって変わり得る。
いずれにしろ、首狩りが異文化や他民族に波及するとそれは文化ではなくなりただの戦争になる。それが文化であるのは、閉じられた世界である必要がある。閉じられているから、それは戦争にならずに共同幻想によって社会にとって必要不可欠な意義を与えられるからだ。
その論理で行けば、徹底して自閉的であることが、身体への暴力に宗教的とも言える意味を与えるのであって、その逆はない。少年が母の首を切ったのは、母が他人でなかったからだ。他人だったら戦争になる。戦争は他者に開かれていく交流であり、自閉的では戦争は出来ないのである。少年の心の中は何もわからないが、首を切るという暴力性を、文化人類学的知見で解釈すればその程度のことは言える。むろん、これでこの事件がわかるなんてことは一切あり得ないが。
根切り虫よ少年のこころ断ち切れ
指導力などないのに ― 2007/05/18 00:22
今日はめまいがするほど忙しかった。昼を食べる時間がなかった。授業を二コマやって、その間に会議が入る。昼は、学生の読書室委員を集めて課題図書の選定の会議だったが、なかなかうまくいかない。
学生たちに自主的にやらせたいのだが、そこまで持っていくのがけっこう大変だ。私は管理職ということもあって、いろいろなことを試みている。読書室というのを作って、そこに私たちの学科の課題図書や推薦図書の本を置き、学生に読んでもらおうという試みだ。読書レポートを書いてもらって、書いた人にはポイントをあげる。このポイントをリテラシーポイントという。
千字エッセイコンテストというのをやっていて、これに応募するとポイントがもらえる。英語スピーチコンテストに参加してももらえる。高得点者は表彰する。学生に本を読んでもらったり文章を書いてもらおうと、あの手この手でいろいろと試みている最中だ。
読書室の委員にはメルマガをだしてもらおうと思っている。メルマガといっても「読書室だより」というホームページを作り、それを学生のアドレスにメールで配信するというものだ。これからは、紙媒体の雑誌作りや広報ではだめだ。メルマガのような媒体に強くならないといけない世の中である。
私の学科で地方から出てきて親元を離れている学生(1年)を調べたら一割いることがわかった。これはかなり多い数字である。というのは、われわれはほとんど募集の範囲を首都圏に絞っていて、地方からは数はすくないが何人かはいるな、という程度で考えていたからだ。
ところがけっこう全国から来ている。それで急いで対策を立てることにした。みな親元を離れて戸惑うことも多いだろうし、悩みもあるに違いない。また、何故この学科を受験しようと思ったのか、それも聞いて来年から募集の参考にしたい。それで地方出身の学生を集めて懇談会を開くことにした。ただ、みんな来てくれるかどうかそれが心配であるが。
こういう努力を積み重ねないと、学生は来てくれない。こういった試みはほとんど私が考えて実施しているのだが、私の属する短大文科はそれが出来るほどよい大きさなのである。たぶん、これが四大の学部だったら、このように思いついたことを実行することはほとんど不可能だと思う。教員に負担をかける試みばかりだから、反対が出てだいたいつぶされる。実行に移すためには、上に立つもののかなりの指導力が問われる。それこそ独裁するような力業が必要だ。
私の属する学科はみんな協力的で助かっている。何か改革を続けないとすぐにつぶれるという危機感を共有しているからだと思う。それくらい、われわれを取り巻く環境は厳しいということだ。だから、私は、そんなに権威的になったり、強引に進めたりする必要がなく、悪い人格にならずにすんでいる。ありがたいことです。
今のところ思いついたことはだいたい実行に移している。後はそれがどのように成果として出てくるかだ。それは来年の募集結果としてあらわれる。数字が悪ければ私のせいである。世の中なかなか厳しい。
卯の花や生き急ぐもの振りかえらず
学生たちに自主的にやらせたいのだが、そこまで持っていくのがけっこう大変だ。私は管理職ということもあって、いろいろなことを試みている。読書室というのを作って、そこに私たちの学科の課題図書や推薦図書の本を置き、学生に読んでもらおうという試みだ。読書レポートを書いてもらって、書いた人にはポイントをあげる。このポイントをリテラシーポイントという。
千字エッセイコンテストというのをやっていて、これに応募するとポイントがもらえる。英語スピーチコンテストに参加してももらえる。高得点者は表彰する。学生に本を読んでもらったり文章を書いてもらおうと、あの手この手でいろいろと試みている最中だ。
読書室の委員にはメルマガをだしてもらおうと思っている。メルマガといっても「読書室だより」というホームページを作り、それを学生のアドレスにメールで配信するというものだ。これからは、紙媒体の雑誌作りや広報ではだめだ。メルマガのような媒体に強くならないといけない世の中である。
私の学科で地方から出てきて親元を離れている学生(1年)を調べたら一割いることがわかった。これはかなり多い数字である。というのは、われわれはほとんど募集の範囲を首都圏に絞っていて、地方からは数はすくないが何人かはいるな、という程度で考えていたからだ。
ところがけっこう全国から来ている。それで急いで対策を立てることにした。みな親元を離れて戸惑うことも多いだろうし、悩みもあるに違いない。また、何故この学科を受験しようと思ったのか、それも聞いて来年から募集の参考にしたい。それで地方出身の学生を集めて懇談会を開くことにした。ただ、みんな来てくれるかどうかそれが心配であるが。
こういう努力を積み重ねないと、学生は来てくれない。こういった試みはほとんど私が考えて実施しているのだが、私の属する短大文科はそれが出来るほどよい大きさなのである。たぶん、これが四大の学部だったら、このように思いついたことを実行することはほとんど不可能だと思う。教員に負担をかける試みばかりだから、反対が出てだいたいつぶされる。実行に移すためには、上に立つもののかなりの指導力が問われる。それこそ独裁するような力業が必要だ。
私の属する学科はみんな協力的で助かっている。何か改革を続けないとすぐにつぶれるという危機感を共有しているからだと思う。それくらい、われわれを取り巻く環境は厳しいということだ。だから、私は、そんなに権威的になったり、強引に進めたりする必要がなく、悪い人格にならずにすんでいる。ありがたいことです。
今のところ思いついたことはだいたい実行に移している。後はそれがどのように成果として出てくるかだ。それは来年の募集結果としてあらわれる。数字が悪ければ私のせいである。世の中なかなか厳しい。
卯の花や生き急ぐもの振りかえらず
植物という環境 ― 2007/05/19 00:07

木曜の夜に山小屋に向かう。今日は山小屋で授業の準備と道路脇に積んである薪を運ぶ作業。新緑は一面という訳にはいかないが、あちこち芽吹き始めている。
この時期は花の季節で、散歩しているといろんな花に出会う。ニリンソウの群落が道ばたを覆っていたり、クリンソウ、ヒトリシズカなどが小さい花を咲かせている。写真にニリンソウを載せておいた。
五月の連休に植えたドウダンツツジも芽吹いていた。根はついたらしい。実は、20代私は、植木農業協同組合というところに勤めていた。そこで農薬の資格もとったし、植木のことは少し勉強した。あの頃は樹木の種類などかなり詳しかったのだが、今はほとんど忘れてしまった。
時々植物は不思議だなと思う時がある。縄文杉のように個体が人間とは桁違いに長生きするものもあれば、毎年代替わりするものもある。成長の速度も千差万別だが共通しているのは、世界(環境)に対し違和として存在していないということだ。というより、その存在自体が環境である、ということかも知れない。
動物や人間は、環境に対して違和であるからこそ命を維持するための努力が必要になる。植物はその努力の程度がはるかに低いということである。というより環境そものなのであるから、違和はないはずであり、違和があるとしたら、それは植物つまり環境の自家中毒であってかなり危機的ということになる。
オールディズの有名なSF小説に『地球の一番長い午後』というのがある。未来の地球を植物が支配するという話だ。人間が文明を滅ぼし植物に支配されるという設定であるが、細かいストーリーは忘れたが植物の支配というところだけよく覚えている。
植物とは、環境であり、環境は支配するものでもないし支配されるものでもない。その環境が支配・被支配のゲームに巻き込まれることこそ矛盾であり、それこそ環境の死が暗示される。
本来植物には死がない。死がないからこそ環境そのものなのだ。その環境の死が暗示されるとき、環境は意志を持ち始める。環境でありながら環境でなくなる。人が自分の死の根拠を環境の死にまで拡大して求めたとき、環境は環境に対して違和を持つ存在となった。アニミズムはこのようにして成立したということではないか。
新緑や鎮まりおれば樹々声挙ぐ
載帽式 ― 2007/05/19 23:49
今朝ベランダにリスが来ていた。いつもひまわりの種を置いてあるので食べに来たらしい。その時はなかったので、慌てて種を置いてあげた。しばらくするとまた食べに来た。小雨交じりで霧が出ている天気だったが、新緑が一日一日と鮮やかになってきている。
午前中にあずさで東京へ。今日は午後、看護学科の載帽式である。聖歌が流れる中、白衣を着た看護学科の学生が一人ずつ講堂の壇上にあがり、看護婦の象徴である帽子を載せてもらい、キャンドルを持ち、ナイチンゲール像のキャンドルの火をつけて後ろに並ぶ。全員並び終わると、ナイチンゲールの誓詞と呼ばれる誓いの言葉を全員で唱和し儀式は終わる。厳かな儀式である。
こういう儀礼があると、それなりの覚悟というものを持つだろう。人の命を預かる職業に就くのだから、こういう決意表明みたいな儀礼があってもいいのかなと思う。伝統文化の継承という感じもある。それに比べて、われわれの学科の学生にはこういう厳粛な気持ちに慣れる場はないだろうなあと思う。だいたい授業に向かう態度がうちの学生と看護学科の学生とはまったく違う。向こうは、国家試験が控えている。ほとんど休まないし真剣に勉強しているとよく聞く。教えていないので本当かどうかはわからないが、今年初めての卒業生で、国家試験の合格率が99%だったということだ。九十数名受けて落ちたのは一人だけだったそうだ。みんなそうとう勉強したに違いない。やはり、目的があるとないとでは違うものだ。
載帽式の後は交流パーティで、学生達と一緒に立食パーティとなった。緊張が解けて学生達はみんな明るくはしゃいでいた。こういう光景を見るとやはり楽しくなる。載帽式にの前に私の部屋に卒業生が二人訪れた。今年卒業した学生で、今日卒業生たちと飲み会やるのだが、ついでに学校へ寄ったという。顔は微かに覚えていたが、名前を聞いて思い出した。人の顔をすぐ忘れる。今度みんなで集まるときは誘ってよ、と頼んでおいた。これもうれしかった。
そういえば、五月の連休に、潰れたブリーダーから助け出した柴犬を、山の別荘地の定住者に連れていったが、その後、その犬は五月にもらわれて来たのでさつきと名付けられた。4年もの間ゲージから外に出たことがないと聞いていたが、確かに、最初は外に出しても怖がって歩かなかったという。二週間して、今では散歩もするようになり、元気になったらしい。これも安堵する話である。
五月に助けた犬五月と名付く
午前中にあずさで東京へ。今日は午後、看護学科の載帽式である。聖歌が流れる中、白衣を着た看護学科の学生が一人ずつ講堂の壇上にあがり、看護婦の象徴である帽子を載せてもらい、キャンドルを持ち、ナイチンゲール像のキャンドルの火をつけて後ろに並ぶ。全員並び終わると、ナイチンゲールの誓詞と呼ばれる誓いの言葉を全員で唱和し儀式は終わる。厳かな儀式である。
こういう儀礼があると、それなりの覚悟というものを持つだろう。人の命を預かる職業に就くのだから、こういう決意表明みたいな儀礼があってもいいのかなと思う。伝統文化の継承という感じもある。それに比べて、われわれの学科の学生にはこういう厳粛な気持ちに慣れる場はないだろうなあと思う。だいたい授業に向かう態度がうちの学生と看護学科の学生とはまったく違う。向こうは、国家試験が控えている。ほとんど休まないし真剣に勉強しているとよく聞く。教えていないので本当かどうかはわからないが、今年初めての卒業生で、国家試験の合格率が99%だったということだ。九十数名受けて落ちたのは一人だけだったそうだ。みんなそうとう勉強したに違いない。やはり、目的があるとないとでは違うものだ。
載帽式の後は交流パーティで、学生達と一緒に立食パーティとなった。緊張が解けて学生達はみんな明るくはしゃいでいた。こういう光景を見るとやはり楽しくなる。載帽式にの前に私の部屋に卒業生が二人訪れた。今年卒業した学生で、今日卒業生たちと飲み会やるのだが、ついでに学校へ寄ったという。顔は微かに覚えていたが、名前を聞いて思い出した。人の顔をすぐ忘れる。今度みんなで集まるときは誘ってよ、と頼んでおいた。これもうれしかった。
そういえば、五月の連休に、潰れたブリーダーから助け出した柴犬を、山の別荘地の定住者に連れていったが、その後、その犬は五月にもらわれて来たのでさつきと名付けられた。4年もの間ゲージから外に出たことがないと聞いていたが、確かに、最初は外に出しても怖がって歩かなかったという。二週間して、今では散歩もするようになり、元気になったらしい。これも安堵する話である。
五月に助けた犬五月と名付く
個性的な学生 ― 2007/05/22 23:37
日曜は父母懇談会で出校。月曜は授業だが、夜、非常勤で来てもらっているE君に話があり一緒に食事をすることになった。彼はビール党でとにかく生ビールを何杯もお代わりをする。私は一杯しか飲めなかったが、それだけで充分にふらふらとしてきた。疲れがたまっているのだろう。これは帰るのがつらい、明日は会議で朝が早い、ということでいつものホテルに部屋はあるかと電話したところ空いていたので泊まることにした。
時々こういうことがある。さすがに休みがないと疲れる。
今日は一日会議である。大学の収支報告書なるものの説明を聞きながら、眠気を押さえていた。神田集中化のお蔭で財政も持ち直したようだ。格付けもA+をもらっているので、ここで眠くなってもまあ許されるだろう。
会議の合間に、かなり引っ込み思案な学生との面談。誰にでもあることで、ただ、環境に慣れるのに人より時間がかかるということなのだが、とりあえず会って話をする。幕末の歴史が好きだという話で、吉田松陰と新撰組が好きだという。誰が好きかと聞くと藤堂平助だという。油小路の戦いで死んだという。情けないが、油小路の戦いも藤堂平助も知らなかった。それにしても吉田松陰と新撰組は敵同士、藤堂平助か、とにかくマイナーなものへの関心であることは確か。とにかく、変わってはいるが良く言えばとても個性的な学生であった。
今、全学生の学習カルテというのを作成していて、きめ細かな学習指導を実施しているのだが、その一環として学生との面談をしている。学生と言っても一人一人皆違う。誰もがすぐに学校になじめるわけではない。中には悩みを抱えている学生だっている。そういう問題を早く察知して対応していくのは、われわれの努めで、大変だけれど、これも最近の大学の重要な仕事になってきている。
会議が終わったら、共立アカデミー(課外講習)の担当者との打ち合わせ。後期に私が万葉集の講座を持つのでその打ち合わせである。共立アカデミーというのは私がつけた名で、学内の学生向けの講座から市民講座として外に広げていかないとだめだと口を出して、その結果として自分が引き受けるはめになったというわけだ。口は禍いのもとである。
家に帰ったら、奥さんが3歳くらいの女の子の手を掴んで家の前にいる。2件隣の女の子であゆみちゃんという。目を覚ましたらおかあさんがいないので裸足のまま家を飛び出て近くの路上で泣いていたらしい。おかあさんは子どもを寝かしつけて買い物に出かけたらしいのだが、あゆみちゃんは起きてしまい、家中を探してもお母さんがいないので不安になり、外に探しに出て行ったということらしい。それで私の家に入れてお母さんが帰ってくるまで預かることにした。すぐに元気になり、とてもかわいらしかった。そのうちお母さんが帰ってきて、自分の家に戻っていった。
いろんなことがある。
初夏の夕暮れ隣の幼児泣きやまぬ
幼児涕泣す五月蠅なす五月
時々こういうことがある。さすがに休みがないと疲れる。
今日は一日会議である。大学の収支報告書なるものの説明を聞きながら、眠気を押さえていた。神田集中化のお蔭で財政も持ち直したようだ。格付けもA+をもらっているので、ここで眠くなってもまあ許されるだろう。
会議の合間に、かなり引っ込み思案な学生との面談。誰にでもあることで、ただ、環境に慣れるのに人より時間がかかるということなのだが、とりあえず会って話をする。幕末の歴史が好きだという話で、吉田松陰と新撰組が好きだという。誰が好きかと聞くと藤堂平助だという。油小路の戦いで死んだという。情けないが、油小路の戦いも藤堂平助も知らなかった。それにしても吉田松陰と新撰組は敵同士、藤堂平助か、とにかくマイナーなものへの関心であることは確か。とにかく、変わってはいるが良く言えばとても個性的な学生であった。
今、全学生の学習カルテというのを作成していて、きめ細かな学習指導を実施しているのだが、その一環として学生との面談をしている。学生と言っても一人一人皆違う。誰もがすぐに学校になじめるわけではない。中には悩みを抱えている学生だっている。そういう問題を早く察知して対応していくのは、われわれの努めで、大変だけれど、これも最近の大学の重要な仕事になってきている。
会議が終わったら、共立アカデミー(課外講習)の担当者との打ち合わせ。後期に私が万葉集の講座を持つのでその打ち合わせである。共立アカデミーというのは私がつけた名で、学内の学生向けの講座から市民講座として外に広げていかないとだめだと口を出して、その結果として自分が引き受けるはめになったというわけだ。口は禍いのもとである。
家に帰ったら、奥さんが3歳くらいの女の子の手を掴んで家の前にいる。2件隣の女の子であゆみちゃんという。目を覚ましたらおかあさんがいないので裸足のまま家を飛び出て近くの路上で泣いていたらしい。おかあさんは子どもを寝かしつけて買い物に出かけたらしいのだが、あゆみちゃんは起きてしまい、家中を探してもお母さんがいないので不安になり、外に探しに出て行ったということらしい。それで私の家に入れてお母さんが帰ってくるまで預かることにした。すぐに元気になり、とてもかわいらしかった。そのうちお母さんが帰ってきて、自分の家に戻っていった。
いろんなことがある。
初夏の夕暮れ隣の幼児泣きやまぬ
幼児涕泣す五月蠅なす五月
労を惜しんではならない ― 2007/05/25 02:07
人がたくさん集まっているせいか、いろんなことがある。私の職場は、少なくとも私が責任を負わなくてはならない人数は、学生が420名、教員14名である。これだけの人間が、それぞれの個性と、それぞれの生活と、そして相互の様々な人間関係、それこそ好き嫌い、理想と現実、といった要素を織り込んで、狭い空間の中で生きているのであるから、何かが起こらない方が不思議である。
毎日のように、いろんな出来事の報告が私のところに集まり、その都度対策をこうじる。この場合大事なことは先延ばしにしないこと。むろん、問題の解決を急がないという事も必要だが、その場合、冷静に打つ手を打って先延ばしにしないと結局後で大変な目に遭う。
こういうとき労を惜しんだらあとで必ず倍返しにやっかいな事態を負うことになる。経験的に、トラブルは起こったときが一番深刻な表情を見せるが、しばらくするとたいしたことがないということがほとんどである。当事者がみんな冷静になるからである。だから、その一番深刻な当初に逃げてしまうと、その深刻な事態をずっと引きずってしまうことになる。むしろ、当初の事態を冷静に受け止めて逃げずに対処すれば、案外にそれほどでも無かったということが多いのである。
といっても、なかなか、労を惜しまずというのは難しい。ストレス耐性がよほどでないとつとまらない。私のストレス耐性がどの程度なのかわからないが、弱くないことは確かだ。弱かったら、とっくに不登校になっている。
図書委員の学生に学生達に読ませる推薦図書を選ばせたら、ミステリー系統が多かった。純文学とは言わないが、やはり教育の場だし、ミステリー系はちょっと。それでもいくつかの候補図書を知らないとまずいので、忙しい中読んでいる。いしいしんじ「ぶらんこ乗り」と伊坂幸太郎「重力ピエロ」を昨日、今日で読んだ。こういうのをみんな読んでいるんだと思いながら。恥ずかしながら二人とも名前も知らなかった。いしいしんじはいいが、伊坂幸太郎は、ミステリー系で微妙なところだ。
若葉ひしめきて枝嬌声に揺れる
毎日のように、いろんな出来事の報告が私のところに集まり、その都度対策をこうじる。この場合大事なことは先延ばしにしないこと。むろん、問題の解決を急がないという事も必要だが、その場合、冷静に打つ手を打って先延ばしにしないと結局後で大変な目に遭う。
こういうとき労を惜しんだらあとで必ず倍返しにやっかいな事態を負うことになる。経験的に、トラブルは起こったときが一番深刻な表情を見せるが、しばらくするとたいしたことがないということがほとんどである。当事者がみんな冷静になるからである。だから、その一番深刻な当初に逃げてしまうと、その深刻な事態をずっと引きずってしまうことになる。むしろ、当初の事態を冷静に受け止めて逃げずに対処すれば、案外にそれほどでも無かったということが多いのである。
といっても、なかなか、労を惜しまずというのは難しい。ストレス耐性がよほどでないとつとまらない。私のストレス耐性がどの程度なのかわからないが、弱くないことは確かだ。弱かったら、とっくに不登校になっている。
図書委員の学生に学生達に読ませる推薦図書を選ばせたら、ミステリー系統が多かった。純文学とは言わないが、やはり教育の場だし、ミステリー系はちょっと。それでもいくつかの候補図書を知らないとまずいので、忙しい中読んでいる。いしいしんじ「ぶらんこ乗り」と伊坂幸太郎「重力ピエロ」を昨日、今日で読んだ。こういうのをみんな読んでいるんだと思いながら。恥ずかしながら二人とも名前も知らなかった。いしいしんじはいいが、伊坂幸太郎は、ミステリー系で微妙なところだ。
若葉ひしめきて枝嬌声に揺れる
座敷わらし ― 2007/05/25 19:42
昨夜は明日の奈良での会議や明後日の万葉の講演の準備などで寝るのが遅くなった。今朝の血圧は高めだった、やはり身体はストレスに強くはないようだ。
今日は、高校教員対象の説明会で出校。高校の進学指導担当の先生方を招いて、いろいろ説明をしたり校内を案内するというもの。出校の途中、学生の選んだ本のいくつかを購入。その内の一冊、三浦哲郎「ユタと不思議な仲間たち」を読む。
座敷わらしの話で、宮沢賢治の童話をたぶんモティーフにしたような話である。田舎に引っ越した東京の子どもが、9人の座敷わらしと遭遇し、たくましく成長するというお話。ユタは、キリストを裏切る弟子の名前のことらしく、座敷わらしはみなキリストの12人の使徒の名前をかたっている。
彼らは飢饉などで間引きにあって親に殺された子どもの霊ということになっている。座敷ワラシについて「遠野物語」の演習で学生に調べてさせたり、教えているものとして、この間引きされた子どもの霊説は、ちょっと安易過ぎるし、もう少し勉強してもらいたいとおもうところはあるが、まあ、フィクションだし、子どもにいろいろ考えさせたいという意図は分からないではない。いずれにしろ、こういう児童文学は推薦図書としては悪くはない。
学生が推薦した本の中にに河本準一の「一人二役」というのがあった。新人の面白い小説なのだろうと思って三省堂書店で捜したが、作家別コーナーにはこの作家の本はない。誰なのだろうととインターネットで捜したら、何のことはない、お笑いの課長次長じゃないか。そういえば自伝書いたと言っていたな。見つからないわけだ。作家じゃないもの。
さて推薦図書としてはちょっと無理かな。とりあえずそれなりの社会的評価を受けた作家か作品であることという条件を付けようと思っているので、なかなか難しい。一応教育の場で、みんなに読んでもらいたい本ということになるとね。推薦されたのだからきっといい本なのだろう。とりあえず読んでみようと思う。
夏めきて座敷わらしは汗ぬぐう
今日は、高校教員対象の説明会で出校。高校の進学指導担当の先生方を招いて、いろいろ説明をしたり校内を案内するというもの。出校の途中、学生の選んだ本のいくつかを購入。その内の一冊、三浦哲郎「ユタと不思議な仲間たち」を読む。
座敷わらしの話で、宮沢賢治の童話をたぶんモティーフにしたような話である。田舎に引っ越した東京の子どもが、9人の座敷わらしと遭遇し、たくましく成長するというお話。ユタは、キリストを裏切る弟子の名前のことらしく、座敷わらしはみなキリストの12人の使徒の名前をかたっている。
彼らは飢饉などで間引きにあって親に殺された子どもの霊ということになっている。座敷ワラシについて「遠野物語」の演習で学生に調べてさせたり、教えているものとして、この間引きされた子どもの霊説は、ちょっと安易過ぎるし、もう少し勉強してもらいたいとおもうところはあるが、まあ、フィクションだし、子どもにいろいろ考えさせたいという意図は分からないではない。いずれにしろ、こういう児童文学は推薦図書としては悪くはない。
学生が推薦した本の中にに河本準一の「一人二役」というのがあった。新人の面白い小説なのだろうと思って三省堂書店で捜したが、作家別コーナーにはこの作家の本はない。誰なのだろうととインターネットで捜したら、何のことはない、お笑いの課長次長じゃないか。そういえば自伝書いたと言っていたな。見つからないわけだ。作家じゃないもの。
さて推薦図書としてはちょっと無理かな。とりあえずそれなりの社会的評価を受けた作家か作品であることという条件を付けようと思っているので、なかなか難しい。一応教育の場で、みんなに読んでもらいたい本ということになるとね。推薦されたのだからきっといい本なのだろう。とりあえず読んでみようと思う。
夏めきて座敷わらしは汗ぬぐう
明日香へ行く ― 2007/05/28 00:00
土曜は奈良の万葉文化館へ。科研の研究会があった。久しぶりの明日香である。橿原神宮駅からバスに乗ったが、明日香資料館で私とK氏を除いて全員降りた。キトラ古墳の壁画の展示をしているらしく大変な人気ある。今奈良県は、奈良の古代遺産に力を入れていて、実は、私が参加する今回の科研の会議もその一環である。
万葉文化館は奈良県の施設であり、そこでの研究会ということは、文科省の科研費ではなく奈良県の科研費による研究会ということになる。万葉研究に奈良県の科研費が出るのは、やはり奈良の歴史や万葉集という文化遺産を大事にしようという姿勢であろう。ありがたいことである。期間は二年間で他のメンバーとしばらくは年に何回も奈良に通うことになりそうだ。
資料館で全員みな降りたと思ったら、今度はたくさん乗ってきた。そして万葉文化館で私たちとともにかなり降りた。メンバーは6人だが、5人が集まって研究のテーマについて発表した。一人ロシア人の女性研究者が入っている。この人不思議な人で、和歌の音声やレトリックの研究がしたいということだったが、十数年前に、日文研で、日本書紀のロシア語訳、宣命や祝詞のロシア語訳を手がけたそうだ。何で日本書紀なの、宣命なの、とロシア語と、日本書紀、宣命という取り合わせに驚いた。いったいどんなロシア人が読むんだろう。
その夜は京都へ戻り四条烏丸通りにあるホテル泊。近くの町屋風の居酒屋でMさんとKさんと一緒に酒を飲んだ。来年の三月に科研の研究会で貴州省の苗族の歌垣調査に行くことなどを検討した。
次の日は午前中に新幹線で東京へ。K氏と来年三月の歌垣調査の具体的な検討などを話したが、昼東京着。私はそのまま鶯谷へ行き入谷の公民館へ。そこで私の所属している歌の結社で万葉の講演を行うためである。岩波の座談会で話をしたような心情表現のことなどを一時間半ほど話し、帰途につく。金曜、土曜と泊まりだったので、川越は久しぶりだ。ただ奥さんは山に行っていていないが。
二泊の外泊の間、四冊の本を読んだ。伊坂幸太郎「アヒルと鴨とコインロッカー」、「佐藤多佳子「黄色い目の涙」、星新一「ブランコの向こうで」、河本準一「一人二役」、いずれも、学生が推薦した本である。ここんとこ一日1.5冊のペースでずっとそういう本ばかり読んでいる。
伊坂幸太郎は「重力ピエロ」より「アヒルと鴨と…」の方がよさそうだ。一応吉川英治文学新人賞をもらっているし、それだけのことはある。饒舌な村上春樹といった感じの文体だ。その饒舌さと、筋立ての奇抜さが、ちょっと鼻につく感じがするけど、それなりに面白い。
佐藤多佳子の「黄色い目の涙」は青春小説としてはよく出来ている。青春のイライラ感とかドキドキ感がよく描けている。久しぶりに青春小説を読んだ。こういう機会がないと絶対読まないだろうなあ。星新一は、星新一の作品なら何でもいいというのでショートショートでない長編ということで選んだ。他人の夢の中に入り込む辛い体験を通して成長する少年の物語。童話だが、こういうのがあってもいいかなと思う。
河本準一「一人二役」はあのお笑いの次長科長の自伝作品だが、学生が推薦しただけあって、読ませる内容である。母子家庭で育った自分の成長譚だが、よく書けていると思う。実は、私も一時期母子家庭であったときがあって、かなり貧乏な子ども時代だったので、この本は懐かしい感じで読めた。昔はこういう家はいくらでもあったが、そういう戦後の貧しい家とたくましい母の物語が、今でもあるのだということに、時代というものは変わらないのだなあとつくづく思った。やはりお笑いをやるという素地がこういう環境にあることはよく理解できる。北野武は母子家庭ではないが、彼の少年時代の話と語り方が似ている。問題は、これを推薦図書にするかどうかだが、難しいところだ。文庫になっていればいいのだが。
日盛りに明日香の遺跡賑わいぬ
万葉文化館は奈良県の施設であり、そこでの研究会ということは、文科省の科研費ではなく奈良県の科研費による研究会ということになる。万葉研究に奈良県の科研費が出るのは、やはり奈良の歴史や万葉集という文化遺産を大事にしようという姿勢であろう。ありがたいことである。期間は二年間で他のメンバーとしばらくは年に何回も奈良に通うことになりそうだ。
資料館で全員みな降りたと思ったら、今度はたくさん乗ってきた。そして万葉文化館で私たちとともにかなり降りた。メンバーは6人だが、5人が集まって研究のテーマについて発表した。一人ロシア人の女性研究者が入っている。この人不思議な人で、和歌の音声やレトリックの研究がしたいということだったが、十数年前に、日文研で、日本書紀のロシア語訳、宣命や祝詞のロシア語訳を手がけたそうだ。何で日本書紀なの、宣命なの、とロシア語と、日本書紀、宣命という取り合わせに驚いた。いったいどんなロシア人が読むんだろう。
その夜は京都へ戻り四条烏丸通りにあるホテル泊。近くの町屋風の居酒屋でMさんとKさんと一緒に酒を飲んだ。来年の三月に科研の研究会で貴州省の苗族の歌垣調査に行くことなどを検討した。
次の日は午前中に新幹線で東京へ。K氏と来年三月の歌垣調査の具体的な検討などを話したが、昼東京着。私はそのまま鶯谷へ行き入谷の公民館へ。そこで私の所属している歌の結社で万葉の講演を行うためである。岩波の座談会で話をしたような心情表現のことなどを一時間半ほど話し、帰途につく。金曜、土曜と泊まりだったので、川越は久しぶりだ。ただ奥さんは山に行っていていないが。
二泊の外泊の間、四冊の本を読んだ。伊坂幸太郎「アヒルと鴨とコインロッカー」、「佐藤多佳子「黄色い目の涙」、星新一「ブランコの向こうで」、河本準一「一人二役」、いずれも、学生が推薦した本である。ここんとこ一日1.5冊のペースでずっとそういう本ばかり読んでいる。
伊坂幸太郎は「重力ピエロ」より「アヒルと鴨と…」の方がよさそうだ。一応吉川英治文学新人賞をもらっているし、それだけのことはある。饒舌な村上春樹といった感じの文体だ。その饒舌さと、筋立ての奇抜さが、ちょっと鼻につく感じがするけど、それなりに面白い。
佐藤多佳子の「黄色い目の涙」は青春小説としてはよく出来ている。青春のイライラ感とかドキドキ感がよく描けている。久しぶりに青春小説を読んだ。こういう機会がないと絶対読まないだろうなあ。星新一は、星新一の作品なら何でもいいというのでショートショートでない長編ということで選んだ。他人の夢の中に入り込む辛い体験を通して成長する少年の物語。童話だが、こういうのがあってもいいかなと思う。
河本準一「一人二役」はあのお笑いの次長科長の自伝作品だが、学生が推薦しただけあって、読ませる内容である。母子家庭で育った自分の成長譚だが、よく書けていると思う。実は、私も一時期母子家庭であったときがあって、かなり貧乏な子ども時代だったので、この本は懐かしい感じで読めた。昔はこういう家はいくらでもあったが、そういう戦後の貧しい家とたくましい母の物語が、今でもあるのだということに、時代というものは変わらないのだなあとつくづく思った。やはりお笑いをやるという素地がこういう環境にあることはよく理解できる。北野武は母子家庭ではないが、彼の少年時代の話と語り方が似ている。問題は、これを推薦図書にするかどうかだが、難しいところだ。文庫になっていればいいのだが。
日盛りに明日香の遺跡賑わいぬ
強い人・弱い人 ― 2007/05/28 23:34
昼から松岡農相自殺問題で持ちきりである。責任を感じてなのか、追い詰められて疲れ果ててなのか、よくわからないが、この人任命された当初からかならず金の問題でつまづく、大丈夫か?と周囲から言われていた人だ。それをある程度承知で大臣に任命したのだから、安倍首相が最後まで責任を持つべきだろう。
それにしても、弱いなあ、という感じである。その感想は、大平光代『だから、あなたも生きぬいて』(講談社文庫)今日読んだばりだからなおさらそのように感じた。大平光代については有名な人だから、知ってはいたが、自伝を読むのは初めてだ。それにしても、この人の青春は半端ではない。こんな人は普通いないだろう。
いじめにあって自殺未遂をするがその方法が割腹である。その方法が意志的であり、普通のリストカットなどではないのである。そこからグレ出すが、それも半端ではない。16歳で組長の妻になる。ぐれても普通ここまで行くか?6年間やくざの世界にいて、22歳で真面目に生きようと決意。
叔父との出会いがきっかけだが、その厚生の仕方が、真面目に働くのではなく、徹底して資格試験を受けることだから、これも普通ではない。中卒でぐれてしまった人が、宅建の資格試験話まず取り、それから、司法書士の資格を取る。ここで終わらなくて、次の司法試験合格を目指すのである。
そのために、大学の通信教育から始まって、予備校に通い、すさまじい勉強して司法試験に一発で合格する。これも普通ではないというよりもこんなのあるか?という感じである。この人は人と同じということを根っから嫌っている人なのだ、ということがわかる。だから、自殺の方法も変わっていたし、徹底してぐれたのだし、だから、司法試験までいってしまったのだ。言えることは、強いなあ、ということだけだ。この人に比べたら、松岡農相の何と弱いことよ。
ただ、この本を推薦図書にするかどうか、思案中だ。確かに、いじめにあったり、不良になった人にはバイブルになるかもしれないが、普通にしか生きられない人たちにとっては、どうなのだろう。あまりにもかけ離れすぎた体験で、驚くばかりで自分に引きつけられないのではないか。その意味では、まだ河本準一『一人二役』の方が親近感を持つのではないか。なんせ、河本君が頑張ったのは吉本興業の養成所にはいることだったから、こっちなら自分に引きつけて共感できると思う。
もう一冊、豊島ミホ『神田川ディズ』を読む。こっちは新刊の小説。大学生たちの右往左往しながらの学生生活を描いた青春小説。けっこうおもしろかった。笑えた。文体もいい。たくさんの登場人物がでてきて、いろんなエピソードを並べていきながら、大学生のうつうつとした冴えない青春を描くもので、こういう情けない青春ものがあってもいい。
この小説なら、ほとんど等身大の主人公だし、普通でないやつは出てこないので、うちの学生たちも自分に引きつけて読むことが出来るのではないか。この本の装丁は売れっ子の鈴木成一で、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、この「神田川ディズ」の装丁が出来るまでをやっていた。この本を選んだのは学生でなくて私だが、この番組を見たので読んでみようという気になった。ただそれだけであるが、推薦図書としては悪くはないなと思った。
夏めきてコンビニ弁当涼しかり
それにしても、弱いなあ、という感じである。その感想は、大平光代『だから、あなたも生きぬいて』(講談社文庫)今日読んだばりだからなおさらそのように感じた。大平光代については有名な人だから、知ってはいたが、自伝を読むのは初めてだ。それにしても、この人の青春は半端ではない。こんな人は普通いないだろう。
いじめにあって自殺未遂をするがその方法が割腹である。その方法が意志的であり、普通のリストカットなどではないのである。そこからグレ出すが、それも半端ではない。16歳で組長の妻になる。ぐれても普通ここまで行くか?6年間やくざの世界にいて、22歳で真面目に生きようと決意。
叔父との出会いがきっかけだが、その厚生の仕方が、真面目に働くのではなく、徹底して資格試験を受けることだから、これも普通ではない。中卒でぐれてしまった人が、宅建の資格試験話まず取り、それから、司法書士の資格を取る。ここで終わらなくて、次の司法試験合格を目指すのである。
そのために、大学の通信教育から始まって、予備校に通い、すさまじい勉強して司法試験に一発で合格する。これも普通ではないというよりもこんなのあるか?という感じである。この人は人と同じということを根っから嫌っている人なのだ、ということがわかる。だから、自殺の方法も変わっていたし、徹底してぐれたのだし、だから、司法試験までいってしまったのだ。言えることは、強いなあ、ということだけだ。この人に比べたら、松岡農相の何と弱いことよ。
ただ、この本を推薦図書にするかどうか、思案中だ。確かに、いじめにあったり、不良になった人にはバイブルになるかもしれないが、普通にしか生きられない人たちにとっては、どうなのだろう。あまりにもかけ離れすぎた体験で、驚くばかりで自分に引きつけられないのではないか。その意味では、まだ河本準一『一人二役』の方が親近感を持つのではないか。なんせ、河本君が頑張ったのは吉本興業の養成所にはいることだったから、こっちなら自分に引きつけて共感できると思う。
もう一冊、豊島ミホ『神田川ディズ』を読む。こっちは新刊の小説。大学生たちの右往左往しながらの学生生活を描いた青春小説。けっこうおもしろかった。笑えた。文体もいい。たくさんの登場人物がでてきて、いろんなエピソードを並べていきながら、大学生のうつうつとした冴えない青春を描くもので、こういう情けない青春ものがあってもいい。
この小説なら、ほとんど等身大の主人公だし、普通でないやつは出てこないので、うちの学生たちも自分に引きつけて読むことが出来るのではないか。この本の装丁は売れっ子の鈴木成一で、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、この「神田川ディズ」の装丁が出来るまでをやっていた。この本を選んだのは学生でなくて私だが、この番組を見たので読んでみようという気になった。ただそれだけであるが、推薦図書としては悪くはないなと思った。
夏めきてコンビニ弁当涼しかり
オカンは強し ― 2007/05/30 00:25
今日は朝から会議。午後は雑務で一日が過ぎる。推薦指定校の見直しをしたり、麻疹にかかったらしいという報告が来たりと、けっこうめまぐるしい一日だった。麻疹は予断を許さない。二人出ただけで全学休講にした大学のことが今日の夕方のニュースで報じられた。
中村生雄・三浦佑之・赤坂憲雄編『狩猟と供犠の文化史』(森話社刊)が届く。私もこの本に論文を書いている。佤族の首狩り儀礼のことである。中村さんが中心にやっている供犠論に参加させていただいて、論を書かせてもらったということである。なかなかユニークな研究会で、とにかく、動物の供犠の儀礼などがあればそれを実際に見に行くという果敢な研究精神に溢れた研究会である。
昨年の三月にわたしはこの会のメンバーと一緒に雲南の彝族の動物供犠を見に行った。豚を殺して神に捧げる儀礼だが、その様子を最初から最後までビデオに収めた。日本人はこういう光景に慣れていないから初めての人は大変だろう。私も最初は違和感があったが、慣れてしまった。とにかく、中国の村に入ると、客を迎えるために必ず羊や牛が屠られる。祭りの取材に行けば必ずそういう場面に出くわす。田舎のホテルに泊まっていると、朝早く豚の叫び声で目を覚ます。動物の死とそれを喰う光景は、日常なのである。
というわけで、この本は、なかなかユニークで面白い本です。
今日は、リリーフランキー『東京タワー オカンと、ボクと、時々オトン』を読んだ。川越から学校までの通勤時間の往復でかなり本が読める。寝なければだが。ここんとこ寝ないで読んでいる。400ページもある長編だが、通勤時間で大半を読んだ。
第三回本屋大賞受賞というふれこみのベストセラーの本である。映画化もされるという。内容は、河本準一『一人二役』を、自伝風小説にした感じ。要するに、オカンである母と、息子との、愛の物語である。共通項は、父親がだらしなく、母親が女手一つで息子を必死に育てるが、息子は、あぶなっかしい青春を送り、やがて、社会で一人前になって母親の存在の大きさに気付いていくというもの。題材は基本的に古典的である。
二冊とも確かにユニークなオカンが描かれているが、そのユニークさというのは、関西系オバンの周囲の目を気にしない生活力のユニークさと似ている。こういう生活力あるオカンものが今読まれるのは、私たちがそれを無くしてしまったと思うからであり、そして、今の社会で一番頼りになると思われているからだ。
誰もがこんな母親を持っていた団塊の世代が懐かしむ、というのならわかるが、本屋大賞になるというのは若い人も読むのだろう。そこにはノスタルジーとは言い切れない、こういうオカンが身内にいないことへの失望感があるのではないか。
『東京タワー』の主人公は、やや意図的に自分の自堕落な面だけが強調して描かれている。親不孝でなければこういう小説は成立しないからだろう。一応成功した生き方をしているのに、自分の努力や才能についてはいっさい触れない。すべては母親のおかげである、という書き方でなくてはならないのだ。そこがステレオタイプに見える。
やはり男の描く母親ものは甘いのかなという気がする。大平光代『だからあなたも生きぬいて』なんて、娘は母に徹底して暴力を振るっていた。娘のほうが親からの自立は辛い。息子の方は、自立とは世間との戦いで傷つけば母親のところへ戻ればいい。女性は親と世間と両方と戦わなければならない。そこが辛いところだ。
さて推薦図書としてどうか。とても長い小説だ。長いというのは悪くはない。活字をたくさん読ませるのは、大事なことだからだ。賞もとっているし、映画にもなるし、学生が読んでみたいと思う本ではあるだろう。
そう言えば同じ五月をみな生きる
中村生雄・三浦佑之・赤坂憲雄編『狩猟と供犠の文化史』(森話社刊)が届く。私もこの本に論文を書いている。佤族の首狩り儀礼のことである。中村さんが中心にやっている供犠論に参加させていただいて、論を書かせてもらったということである。なかなかユニークな研究会で、とにかく、動物の供犠の儀礼などがあればそれを実際に見に行くという果敢な研究精神に溢れた研究会である。
昨年の三月にわたしはこの会のメンバーと一緒に雲南の彝族の動物供犠を見に行った。豚を殺して神に捧げる儀礼だが、その様子を最初から最後までビデオに収めた。日本人はこういう光景に慣れていないから初めての人は大変だろう。私も最初は違和感があったが、慣れてしまった。とにかく、中国の村に入ると、客を迎えるために必ず羊や牛が屠られる。祭りの取材に行けば必ずそういう場面に出くわす。田舎のホテルに泊まっていると、朝早く豚の叫び声で目を覚ます。動物の死とそれを喰う光景は、日常なのである。
というわけで、この本は、なかなかユニークで面白い本です。
今日は、リリーフランキー『東京タワー オカンと、ボクと、時々オトン』を読んだ。川越から学校までの通勤時間の往復でかなり本が読める。寝なければだが。ここんとこ寝ないで読んでいる。400ページもある長編だが、通勤時間で大半を読んだ。
第三回本屋大賞受賞というふれこみのベストセラーの本である。映画化もされるという。内容は、河本準一『一人二役』を、自伝風小説にした感じ。要するに、オカンである母と、息子との、愛の物語である。共通項は、父親がだらしなく、母親が女手一つで息子を必死に育てるが、息子は、あぶなっかしい青春を送り、やがて、社会で一人前になって母親の存在の大きさに気付いていくというもの。題材は基本的に古典的である。
二冊とも確かにユニークなオカンが描かれているが、そのユニークさというのは、関西系オバンの周囲の目を気にしない生活力のユニークさと似ている。こういう生活力あるオカンものが今読まれるのは、私たちがそれを無くしてしまったと思うからであり、そして、今の社会で一番頼りになると思われているからだ。
誰もがこんな母親を持っていた団塊の世代が懐かしむ、というのならわかるが、本屋大賞になるというのは若い人も読むのだろう。そこにはノスタルジーとは言い切れない、こういうオカンが身内にいないことへの失望感があるのではないか。
『東京タワー』の主人公は、やや意図的に自分の自堕落な面だけが強調して描かれている。親不孝でなければこういう小説は成立しないからだろう。一応成功した生き方をしているのに、自分の努力や才能についてはいっさい触れない。すべては母親のおかげである、という書き方でなくてはならないのだ。そこがステレオタイプに見える。
やはり男の描く母親ものは甘いのかなという気がする。大平光代『だからあなたも生きぬいて』なんて、娘は母に徹底して暴力を振るっていた。娘のほうが親からの自立は辛い。息子の方は、自立とは世間との戦いで傷つけば母親のところへ戻ればいい。女性は親と世間と両方と戦わなければならない。そこが辛いところだ。
さて推薦図書としてどうか。とても長い小説だ。長いというのは悪くはない。活字をたくさん読ませるのは、大事なことだからだ。賞もとっているし、映画にもなるし、学生が読んでみたいと思う本ではあるだろう。
そう言えば同じ五月をみな生きる
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