伝えられないもどかしさ2007/04/01 00:47

 今日は朝から出校。4月からのガイダンスの打ち合わせがある。4月から新体制になるということでみな忙しい。しばらく日本を留守にしていた私も仕事が山積。教員の一人が入院するという知らせで心配したり、代講をどうするかとか、来年度から、わが学校では、履修登録をウェブ上で行うシステムになったのだが、その説明を新入生にどうするかとかとにかくいろいろ大変なのである。

 午後は学校近くの岩波で雑誌特集のための研究会。といっても私の発表なのだ。仕事を中座してでかける。歩いて数分のところだ。古代文学会のFさん、Mさん、Tさんたちの前で、中国に行く前に仕上げた内容をしゃべったのだが、見事に伝わらなかった。どうも、こちらの戦略の失敗というか、心物対応構造にとらわれすぎて、一番面白がったことを素直に伝えられなかったことが原因。反省した。きちんとした理論をしゃべるのではなくもっと大胆な思いつきをしゃべった方が受けたようだ。

 それから、私が思うほどそれぞれが面白がってくれなかったのは、私と彼等との間にずれがあるからだということを理解した。そのずれは、別に悪いことじゃないと思うべきなのか、それとも、私のほうで修正すべきなのかよくわからない。たぶん、修正すべきではない。むしろ、私の面白がっていることを相手に分からせる力の問題だ。いつもながらその力のなさを思い知る。

 岩波の雑誌『文学』が出る。私も参加した座談会が掲載されている。ここでは私は素直に面白がっていることをしゃべっている気がする。しゃべりすぎかなという気はするが。

 研究会が終わって仕事に戻り七時まで雑務。帰ったのが夜の九時だ。さすがに疲れた。

      三月の花の盛りに言葉散る

花の下にて酒飲まん2007/04/01 23:53

 今日は友人達との花見。一人は末期癌の療養中。そういうこともあって10人ほどが集まった。狭山丘陵での花見の宴であったが、暖かく満開の花の下で、良い花見であった。

 ただ私は疲れが出たせいか体調不良。酒も飲めずにただ皆の話を聞いているだけであったが。病人の彼が持ってきたワインはおいしかった。なんでももう手に入らないというものだそうだ。来年の花見も彼が参加できればうれしいのだが。

     彼が生きて花の下にて酒飲まん 

 今日、NHK特集で、中国の格差社会を扱った「富人と農工」という番組をやっていた。平等をイデオロギーとする共産主義を目指す党に支配された国が、世界でも例を見ないほどの格差社会を作り出しつつある。皮肉な話である。

 中国が資本主義政策をとっていることは悪いことではない。私は10年中国に行っているが、人々の生活は確実に良くなっているし、表情も明るくなってきた。自信に満ちた顔をしているし、国の経済政策はそんなに間違ってはいないと思う。

 13億の人間を平等に富ませるのは不可能である。限られた富の中で平等を実現するなら、全員を貧しいレベルに落とすしかない。北朝鮮みたいにである。それでも平等ならいいではないか、という考えもあるが、実は、全員平等にならないのが現実だ。ソ連では共産党の幹部は赤い貴族と呼ばれて富を持っていたし、北朝鮮も中国も共産党の幹部は人民を平等に貧しくして自分たちは富を得ている。だから、社会主義は崩壊していった。

 先に豊かになれるものから豊かになれ、という鄧小平の言葉は、それなりに正しいだろう。全員一緒に豊かになれというのは不可能だから。問題は、遅れたものか豊になる機会があるかどうかだ。残念ながら、そう簡単にはないというのも資本主義社会の現実だ。

 13億の人間に中国は最低の生活保障ができるかどうか。それができたら、中国は世界のモデル国家になれる。13億の中国ができたら、人口の少ない他の国家に出来ないわけがない。人口1億の日本では生活保障が崩壊しかかっている。日本も中国に学ぶということになる。

 が、中国には無理だ。経済活動による利潤を13億の人口の最低生活保障にまわすことが出来るほどに発展した資本主義経済なんてこれも不可能なことだ。ならどうすればいいか。答えはないが、生活保障というのは、金の問題だけではなく、地域共同体や、人間関係や、個々の倫理の問題でもある。

 人は身近な人間から助けようとする。知らない人を助けるのは思想や倫理が必要だ。 国家とは知らない人を助けるための一つのシステムでもある。その国家が頼りないとするなら、身近な人から助ける仕組みを充実させるということしかない。むろんそれでも漏れてしまう人を助けるのはボランティアのようなものになろうが、そういう仕組みが社会の隅々に満ちる、それが理想だ、というところにしか答えはないだろう。

 今中国の貧困層を支えているのは、国ではなく、身近なものから助けようとする、家族や親族、村などの小さな共同体の仕組みである。常に動乱の時代だった中国は、このような仕組みだけは強固に保ってきた。この仕組みが崩壊しなければ、中国は格差社会を何とか乗り切れるだろうと思っている。

 むしろ、心配なのが日本だ。日本の方がこの仕組みを失ってしまった。膨大な赤字を抱えた日本は金の力での生活保障も築けず、身近なものから助けるという仕組みもないとすれば、ほんとにこれから大変である。中国の格差社会を冷ややかに見ている場合ではない。

今日は入学式2007/04/04 00:55

 
 ここのところ、睡眠時間がとれない。さすがに、仕事モードに入っている。昨日は5時間しか寝ていない。この歳ではきつい。中国ではパソコンもないし原稿書くこともないから8時間は寝ていた。それできつい移動にも身体がついていった。今は、通勤という移動がつらい。

 今週は、詩歌の座談会での発表原稿をまとめ、それから、歌垣論を書き始め、それから、アジア民族文化学会の発送作業をやり、そして、メインの仕事として、新入生ガイダンスがあり、それから管理職としての雑務がある。どうなることやら。

 今日は入学式だった。雨で残念だったが。入学式後のガイダンスで新入生に楽しい卒業パーテイをしような、と挨拶で語った。何人かは必ず辞めるし、授業を欠席がちの学生も出てくる。それだと最後楽しくない。貴重な二年間楽しく過ごせなかったらもったいない。相当のお金がかかっているのだ。どんなことがあってもしぶとく卒業しようと、激励した。激励になったかどうかはわからないが。

     曇天の景を背後に桜かな 

      背筋が誰もまっすぐ入学式

 中国の市場はいろんなものを売っていて面白い。今回新しく出会ったのは歯医者である。噂には聞いていたが、市場の路上に簡単な台を置いて義歯を並べ、一方でその場で歯を治療する。どうみても歯医者じゃない。これはさすがに驚いた。中国は広い。

万葉集を読むということ2007/04/05 00:06

 最近、古事記の一般向けの出版が相次いでいる。三浦佑之氏から『古事記のひみつ』(吉川弘文館)が送られてきた。『古事記講義』の文庫版や、『金印捏造事件』などが出たばかりだから、ここのところ、立て続けに本を出している。

 工藤隆氏の『古事記の起源』(中公新書)は売れているそうだ。毎日新聞で、三浦雅士が書評を書いていた。衝撃を受けたと書いてある。新書版は分かりやすくがモットーだから、主張をシンプルにしなければならない。それが、メッセージになり、上手くはまれば売れる。工藤氏のは、やはりアジアの少数民族文化をモデルに古事記の深層を探るというコンセプトが受けたようだ。

 三浦氏の本の帯には「古事記の序文は偽物だった」とある。以前から三浦さんが唱えていたもので、今回どう展開しているか読むのが楽しみである。

 一方、万葉集関係の本は、古事記に比べてあまり出ていないのは寂しい限りである。やはり歌はそれほど一般受けしないということか。古事記は、だいたい歴史好きのやや高い年齢層(男)が購買層である。ところが、万葉集となると、高年齢の女性ということにもならない。つまり、一般的な購買層のイメージが掴めない。ようするに、リサーチが出来ない。たぶん、可能性としては、短歌をたしなむ層だが、万葉にまで興味を示す層はそう多くはないだろう。

 万葉集は日本の大事な古典だから大事にしろなどと言うつもりはないが、このように万葉集に陽が当たらないのは研究者の責任だ。要するに、最近の研究がスリリングでない。スリリングとはどういうことか。現代の私たちを解き明かさないと言うことだ。

 かつて国民歌集と呼ばれていたころの万葉集の読みは、近代のわれわれの感性をそのまま読解にあてはめるか、国学者がそうしたように、近代のイデオロギーに基づいた読み方をしてきた。が、折口信夫などの影響もあって、われわれの感性とは違う古代の宗教的とも言える感性の側で何とか読もうという流れになり、「神」とか「呪性」とか、そういった向こう側を一言であらわす象徴的タームでの研究が盛んになる。

 が、最近は、二つの読み方が出てきた。一つは、読むことをあきらめて、徹底して、制度、政治、国家といった歴史や、観念の所産として、文学的価値を相対化しようとする読み。これは、文学という幻想への徹底した批判でもある。一方は、神とか呪性といったタームを、われわれの感性の側に引きつけて、われわれの論理を縛っている合理的な秩序を超えた、それ自体神秘な論理を掴もうとする傾向。例えば、スピリチュアリズムや、荒唐無稽な中世神話などに向かうのはこのタイプだ。

 私の立場はどちらかと言えば後者に近いが、後者ではない。第三の立場と言っておこう。以上の二つの立場には、万葉の古代と現代とには断絶があり、それは超えられるものではないという前提があって、読めないから、制度や国家という近代が生み出した観念の普遍性の側に古代を解体しようとする。後者は、一見、われわれとの共通性を古代も持っているという立場に見えるが、そうであればスピリチュアリズムまではいかないだろう。断絶を超える、われわれの合理的な論理とは違う説明装置をロマン的に追求しているという意味で、今のわれわれは異質ではないというある意味での特権が与えられてしまっている。

 古代が異質なら現代のわれわれも異質なのだというのが私の立場である。今のわれわれが普通なら古代も普通である。むろん、断絶はあるだろう。が、万葉の人々は宇宙人ではない。問題は、様々な異質さや多様さを抱え込んだわれわれ自身を語る論理が見いだせないでいる、ということなのだ。

 万葉人の一部がわれわれだし、われわれの一部が万葉人でもある。そういう理解があってもいい。むろんその間に、神と人との落差のような断絶があってもいい。それでも、お互いがお互いを含み込んでいるような関係にある、ということ。その立場に今立つことが大事なのだ。

 そういう姿勢が今必要である。あまりに異質さを強調しすぎて、研究は最後の最後で極めて抽象的な観念に逃げてきた。実証的であれとか科学的であれということを言いたいわけではない。むしろ、万葉も古事記も、今のそして新しいわれわれを発見する書物なのだということなのである。

 それが論じられないで、何で若い人に万葉集や古事記の魅力を語ることができるだろう。われわれの中に共通する何かがあるのだ、というその何かを語ろうとする語り口を懸命になって探すことの中からしか、何も生まれないのではないか、というのは、古代の古典を教える私の切実な思いである。その懸命な格闘を避けて、制度論や、スピリチュアリズムに入り込んでしまうと、それこそ安易な伝統論が幅をきかすことになる。

 そのように考えれば、論じることはいくらでもある。例えば今私は「悲し」とか「思う」とか「恋ふ」といった心情語が何であんなにたくさん使われているのか、ということに驚きをもって向かおうとしている。このことに人はあんまり驚いていない。陳腐だとか当たり前だとか、簡単に片付けている。

 でも、こういうところからまず驚き、そして、それを論じる語り口を懸命に探すこと、そういう積み重ねが、たぶん万葉集研究を面白くするだろうと思っている。先は長いとは思うが。
 
万葉を読まぬ人にも春の宵

なんとかなるさ2007/04/06 00:40

 仕事場から見える皇居の桜はまだきれいだ。といって見に行くほどの余裕もない。今、ガイダンスの真っ最中でとにかく忙しい。カリキュラムが新しくなったせいで、しかも、履修登録をウェブ上でやるという新しい仕組みがかなり強引に導入されたため、誰もがその仕組みに上手く対応しきれていないのだ。

 それでも三日前の入学式では緊張していた新入生も、もう何人かの友達グループを作って相談に来る。友達を作るのはほんとに速い。羨ましい限りだ。入試の面接で会った学生が明るい顔をしているのを見ると何となくうれしくなる。ただ、気分がいいのは今の時だけだ。授業が始まればそうはいかない。私語を止めなさいとかたぶん怒鳴ってしまう日々がくるだろう。

 アメリカの大学の日本校に通っていた学生が入学して単位認定を申請した。こういうケースは初めてで、いろいろと調べた。というのは、外国の大学の日本校は、現在日本では各種学校の扱いで正式な高等教育機関としては認められていない。ということは、単位認定はだめなのではという意見もあったが、よく調べると、05年、日本校であっても外国の大学と同等のカリキュラムであれば、日本校と日本の大学との単位互換を認める、という法令の出ていたことがわかった。つまり、外国の大学に留学したのと同じ扱いにするということである。どうやら、外国の大学から抗議があったらしい。

 ということで、単位を認めることにした。いろいろなことが起きる。社会が変動していることの証である。

 今日は、仲間との飲み会があったが、二部のガイダンスがあり夜遅くなり、疲れ果ててそのまま家に帰る。花の宴だったかもしれないが、今そんな余裕はない。10日までに20枚の原稿を書かなきゃいけない。今はもう6日だ。でも、何とかなるさ。そういう言い方を世に知らしめた植木等は亡くなった。でもこの言葉は生きている。私もこの言葉にだいぶ救われた気がする。

           花の宴人の生き死に置いといて

           植木翁春に逝くなんとかなるさと

外国語は苦手2007/04/07 23:59

 今日はアジア民族文化学会の発送作業。午前中から機関誌や春の大会案内などを印刷し袋詰めする。手伝いも含めて5人で行い何とか夕方5時には終わった。今週は、ガイダンスで忙しかったが、実は、この準備でも忙しかった。

 ただ、ポスターは外注したので少しは楽になった。今までは私の家のパソコンのインクジェットで、A3のポスター200枚ほど印刷していたのだ。古いプリンターだから一枚印刷するのに数分かかる。200枚刷るのに相当時間がかかる。この手間が省けただけ楽になったが、その分費用がかかる。ただ、さすがに外注だと仕上がりがいい。

 学会の会員は減少気味である。昨今どの学会でも同じ悩みを抱えている。われわれの学会は、発足してまだ6年だが、そろそろ会員の中にも、興味を失ったり、あるいは研究を辞める人も出てきて、退会する人が増えている。本当は若い人が入ってくることで会員数は維持できるのだが、若い人があまり入らないのが減少の原因である。

 代表としては、何とかしなきゃいかん問題だ。学会の活動に興味を持つはずの若い研究者に学会の情報が伝わっていない、ということも考えられる。とすれば広報活動が大事なのたが、そかな余裕もお金もない。学会での研究発表や雑誌のレベルを高めていく、という地道な活動がまずは一番ということか。

 今度の大会(5月12日)は、沖縄の祓除儀礼、台湾の首狩り、苗族の歌垣、と日本を含むアジア地域のそれぞれの研究が3本揃った。面白い大会になると思っている。こうご期待。ちなみに、会場は共立女子大学、午後1時30分からです。

 昨年西安の大学に半年ほど留学していたI君が帰国していて、発送の手伝いに来てくれて久しぶりに会った。昨年夏、雲南であったが、その時流ちょうに中国語を話していることに驚いたが、やはり、現地で学ぶと語学は上達することがよくわかる。私などは、中国に10年行っているが、いつも通訳をつけてしまうので、結局覚えずじまいだ。この歳になると外国語を一つ覚えるのはかなりきつい。だいたい覚える暇がない。

 外国語を一つ話せることはきっと楽しいことなんだろうと思う。むろん、その才能が生かせていたらということだが。私などは時々日本語で相手に伝えることに苦労する。一番苦労するのが奥さんと話すときだ。理由は簡単で、長いこと一緒に暮らして居るんだから、ちゃんと言わなくてもわかるだろうと、かなりいい加減に短くぼそぼそとしゃべる。

 だいたい伝わらない。そういうとき、頭を切り換えてきちんと言葉を考えて話す構えになればいいのだが、何か、そこまで頑張って話すのは違うんじゃないか、と何処かで思っていて、結局わかんないならいいよ、と黙ってしまう。それでお互い気まずくなる。だいたいそういうことの繰り返しである。

 日本人が外国語の習得が苦手なのは、多かれ少なかれそういうところがあるからだろうと思う。きちんと話すには心の構えが必要だ。それは、まさに他者に出会うときの心構えと似ている。そういうのは面倒だという気分が抜きがたくあるのではないか。

 逆に、外国語をすぐに習得する人を見ていると、そういうところがない人だということがわかる。話すことを面倒がらない人だ。最近は、みんなよくしゃべるようになって、たいしたものだと思う。私は仕事ではよくしゃべるがそれは仕事だからだ。仕事ではハイになる。が、自分の世界では鬱だ。いつもハイになれない。が、外国語の得意な人はいつもハイなのではないかと時々思う。私にはやはり外国語の習得は無理だ。これは歳の問題だけではないようだ。

       たまにある桜映える午後無口

       辛夷も木蓮もいつもここで咲く

フラガールを観る2007/04/09 00:23

 今日は一日原稿を書いていた。そのせいか、体調がよくない。無理は出来ないのかなあとしみじみと感じた。運動に夕方チビと散歩。新河岸側の菜の花がそろそろ満開である。桜もいいがこの菜の花もいい。

 夜「フラガール」のDVDを観る。なかなか良かった。泣けたし笑えた。ノーメークで出ていた富司純子(藤純子)は歳を取った。こういうストーリーの映画はどこかで観た気がするが、悪くはない。こういうダンスものは映画向きなのだろうなあと思う。

 そう言えばイギリス映画で、失業中の男性達がストリップに挑戦していく映画があって「フルモンティ」という映画だった。これも面白かったし、「リトルダンサー」も良かった。背景はやはり炭坑だ。ダンスに目覚めた少年が炭坑夫の父の反対を押し切ってダンサーを目指す映画だが、どうも、イギリス映画にこの手の傑作は多い。

 「リトルダンサー」の見どころは、最後の場面で、少年が名門ダンスアカデミーの試験で、試験官たちに、ダンスをしているときはどんな気持ちかと聞かれて、突然、自分が自分で無くなる瞬間を比喩的に語るシーンだ。試験官は驚いた表情で聞き入る。

 素人がダンスとかあるいは芸術に様々な困難を克服して成功していくドラマで肝心なのは、こういう、日常を飛び越える瞬間をどのように作れるかだろう。「フラガール」の成功は、最後の踊りの場面が、日常を越えたと思わせたことにあると思う。むろん、蒼井優はもっとうまく踊れたという意見もあるだろうが。

 それから、いかにも泣けるシーンがあって、こういうのはやはり日本だなあとつい感じてしまう。最近、歌の問題で考えているのが、感動と感情の区別である。こういう泣かせる映画での涙は感動なのか感情なのか。実はこれは難しい。

 和歌への批判に、ウエットだとか情緒過ぎるという批判がある。この手の涙ものの映画の批判にもなる。こういう場合、批判は感動ではなく感情に対する批判である。つまり、感動でなく感情だからだめだと批判しているわけである。歌や映画の抒情は感情だからだめだというのだ。なら感動とは何だろう。涙を流したらだめなのか。

 感情と感動の区別は実はそれほど明瞭ではない。特に和歌においてはそうだ。和歌を考える時の大事なポイントだと思う。

      春の夜に夫婦いて映画を観てる

基礎ゼミナール2007/04/10 00:55

 昨夜20枚の原稿を何とか書き上げる。今まで書いてきたことをまとめたような文章だから、そんなには時間がかからなかった。

 朝早くに医者に行き、いつもの血液検査と痛風の薬をもらう。ここんとこ、血圧がやや高めだが、あきらかに仕事のしすぎ。帰ってきてすぐに出校。

 今日は新学期初めての授業である。基礎ゼミナールという科目で、新入生全員が必修で受ける授業だ。ある教科を勉強するというものではなく、大学生になるための入門の授業である。最近、どこでもこういう授業を行うようになってきている。

 昔は、大学に入れば大学生だった。勉強してもしなくても、大学に来ても来なくてもである。が、今はそうではない。学校に来てきちんと勉強してもらわないと大学生ではないのである。

 大学は通過するところだ、とか、勉強は自分でするんで学校でするものではないとか、かつては色々言われたが、そんな言葉を言う者は今は誰もいない。寂しい話かも知れないが、今は大学は出席して勉強するところになっている。脱線するものを許容しない。というより、そういう学生は最初から大学にはこない。

 それは、ある意味で、大学生が悩まなくなっているからだろうとも思う。悩むものは、高校あたりですでに不登校になるか、辞めている。高い授業料を払って大学へ入って悩むなんてのは、かなり遅れた悩みである。それくらい、生き方に悩む年齢層は若年化している。

 その意味では、短大に入ってくる新入生はみんないい学生である。私は、悩んで外れていく学生は嫌いではないが、私の教える学生であって欲しくはない。まあ、誰だってそうだろうが。真面目そうで期待に眼を輝かせているような学生を見ると、ほんとにうれしくなるが、いつまでこのうれしさが続くかだ。それは学生にしたって同じこと。お互い、最初の心の高ぶりを卒業まで持続させること。いつもこの時期そう願う。

 ただみんないい子すぎて、大学生にするにはちょっとばかり手続きが必要である。この手続き無しに授業をすれば、ついていけなかったり、何となくつまんなくなったりと、いろいろ面倒が生じる。それを未然に防ぎ、しかも、大学で学ぶための基本的な心構えや知識を覚えてもらう。それが、基礎ゼミナールである。

 最近の大学は手取り足取り親切なのであるが、これは、学生を子ども扱いしているわけではなく、学生が挫折せずに学生生活を送るための最も効率的な方法であるからなのだ。入学する学生は大学にとってとても貴重なのであって、一人でも減らさないための合理的な策なのである。だから、全国の大学で今行われつつある。基礎ゼミナールは大学の経営のためでもあるのだ。

 今日は自己紹介。36人にいる学生を6つのグルーブに分け、それぞれのグループの中で自己紹介をしあう。一人代表を決め、その一人が今度は全員の前で、自分と他の五人の紹介をするということをやった。今日が初めて会うものたちばかりで、しかもコースもバラバラである。が、それでも、結構仲良く自己を紹介し合い、代表になった学生も、元気にみんなを紹介していた。うまくいくか心配したが、まずはうまくいった。   

春の夜授業を終えし教師見ゆ

中国でなれ鮨と出会う2007/04/11 01:22


今日は会議はなかったが雑務のために出校。20枚の歌垣の原稿を出版社に送り、それから、学会から届いた審査の原稿を読む。う~ん、結論は言わないでおこう。

 これまで何回か審査のために若手の論文を読んでいるが、いつも思うのだが、昔の自分もこんな風に舌足らずで、論理が飛躍していた。昔の自分を見ているようで嫌になることもある。でも、そういう時期があって、他人の厳しい視線にさらされて、何とかこの業界で生き残れた(それほど大げさではないが)のだ。若手には批判にめげずに頑張って欲しいなと思う。

 実は今の私も論理の飛躍で人にいろいろ言われている。むろん、意図的に飛躍しているのだが。飛躍しないと言えないことってある。ただ、そうでしか言えないと説得出来るかどうかが問題だ。

 身内の仲間だけで研究会やっていると、だいたいだめである。つまり、飛躍してもみんな分かってくれてしまう。これが危ない。説得出来ると思いこむのだが、他でしゃべるとほとんど通じないっていうことがよくある。そういう伝わらないあせりや苛立ちをまだ感じるのは、未熟と言うことか、若いのか、よくわからんが、老成していないことは確かだ。それはそれでよしとしなくては。

 昼は神田のすずらん通りにある、自然食のバイキングを食べた。1260円で結構高い。健康食志向でなかなかの賑わいである。私が先月に行った中国とはえらい違いである。向こうも自然食だが、ほとんど油を使う。ただ市場では、チマキやなれずしを売っていた。これは自然食品の本家のようなもの。竹の筒に、魚と米を交互に入れて発酵させてある。市場で見たのは初めてである。日本のすしのルーツである。これが噂の…と見たときは感動であった。

        春大根昼の煮物に入りけり

やはり中国から目が離せない2007/04/12 00:43

 先日、BSで中国パキスタン2万キロの旅という番組をやっていた。上海の沿海部から出発し、東南アジアを経由してインド・パキスタンへほぼ陸路でたどるという旅番組だが、コンセプトは、中国で作られた商品がアジアに運ばれるその物流ルートに沿って動くというものだ。

 このルートはいくつかあるのだが、雲南省を通るルートが代表的だ。特に、瑞麗からミャンマーを抜ける道である。それから、私たちが先月行った路も、ラオスの国境だったが、実は、高速道路で雲南省からタイのバンコクまでつなぐ計画が進行中である。これらは山岳ルートだが、海沿いだと、広西省からベトナムに抜ける道がある。この国境は中越戦争の戦場になったところである。

 とにかく、今雲南省は高速道路の整備がかなり進んでいる。理由は、東南アジアとの交易である。東南アジア、そしてインドやパキスタンの商店では中国の製品であふれかえっている。みな異口同音に言うのが、中国製品は安い、ということだ。人件費が中国より安い貧国の人からも安いといわれるのだから、その安さは相当なものだ。

 アジアの市場は、高級品は日本製、大衆品は中国製という棲み分けがほとんど出来上がってしまったと言っていいようだ。確かに、巨大な卸売りセンターがある上海近くの宜宇で、腕時計が5元(15円)で売られていて、作家のリポーターが絶句していた。

 安く商品を作れるのは、そこで働く人間の価値が安いからである。決していいことではない。それにしても、中国人の所得倍増は何時達成できるのか。達成したら世界経済は、いや地球環境そのものがどうなってしまうのか。

 今日の「その時歴史が動いた」は、日本の所得倍増政策を立案し進めていったエコノミスト下村治を取り上げていたが、その考え方は、国民の総生産量の拡大によって国民の所得格差を埋めていくというものだ。それは見事に成功し、GNPが倍になったとき、日本人は9割が自分は中流だと考えるようになった。今、中国はその政策をまねてまさに所得倍増政策をおしすすめているわけだ。

 それが成功するかどうかは分からないが、言えることはその政策は誰にも止められないということだ。おそらく中国は確実に豊になっていくだろう。何割が中流だと自覚するようになるかわからない。仮に、5割だとしたら、6億5千万である。それだけで驚く。

 スケールメリットという言い方があるが、かつてアメリカのスケールメリットが世界の経済を救ったが、そのうち中国のスケールメリットが世界の経済を救うだろう。実際すでに日本の経済は救われている。どんなに日本が頑張っても中国に適わないのは、スケールメリットが日本にはないからである。

 ところで、中国の人民が半分中流になったら、人件費があがり価格競争における中国の競争力は衰え、技術革新にシフトして行かざるを得ない。そこで教育が問題になるが、実は、今日のニュースで、子どもの科学オリンピックで中国は8年間優勝しているということだ。日本は最高7位だそうだ。今中国の同一年代の大学生の数は、日本の同一年代の全人口の数を越えている。つまり、今年新入生になった中国の大学生の数は、日本の同じ世代の若者の数より多いと言うことだ。それだけの数がいれば優秀な奴だって出てくるだろう。技術革新だって、そのうち日本を上回るだろう。

 時代が大きく動いているのを目の当たりにするのは楽しいことである。その意味では中国が今一番見ていて面白い。何たって先が読めないのだ。このまま、中華帝国がまた生まれるのか。それとも、バブルが弾けて混乱した社会になるだけなのか。仕事柄かかわってしまったということもあるが、これからも中国を気にしていきたいと思う。

      黄砂あげ13億が走りけり