戦略的護憲論 ― 2007/05/04 01:42
今日は憲法記念日でテレビではどこでも改憲論議だ。憲法改正をめぐる議論は、言論界のみならず、学会も含めて、かなり盛んになっている。こういう状況下だと、憲法について何かを発言することはかなり勇気が必要になる。というのは、いろんな場面で憲法について何かを言うこと自体が政治になっているからだ。
政治的な議論というのは、政治的な立場を表明することを当然としたり、あるいは、その表明によって生活に影響を与えないような環境を持たない場合、かなり困難である。日本の社会では、政治と生活はハレとケの区別のように区別される文化があり、ケの日常世界の側では、憲法論議は難しい。これは、議論の文化の未成熟というより、政治を非日常とするわれわれの文化の問題でもあろう。
が、国民投票法案などといいうものが出来てしまうと、否応なく、ケの側に憲法問題というハレが覆い被さってくる。柳田国男の言う「ハレとケの混乱」が起きているといっていいか。
ある番組で大阪のおばちゃんたちが護憲の漫才をやり、それと戦う形で改憲派の若者が改憲ラップというのをやっていた。すでにハレの政治的立場(合理性を追求する議論の場を越えてただ相手をこちら側の主張に従属させようとする立場)が日常の世界に入り込んでいることを確認した。
これは、社会の混乱というよりは、国家や社会の理念と無関係であった人びとが、それらに関わろうとすることであって、社会にとっては健全なありかただと見た方がいいだろう。ただし、これは歴史の転換点であって、かなりのリスクが伴っている。その意味ではかなりの覚悟が必要だ。
国民投票法案が通れば、改正をめぐる駆け引きが、世論形成の駆け引きとなって、ものすごい宣伝合戦が行われるだろう。18歳から投票できることになれば、若年層に対してほとんど刷り込みに近い誘導が行われるに違いない。これらは混乱だが、覚悟とはこれらの混乱を必然的なものとして引き受けることだ。
ケの日常の側がハレと区別出来なくなるとはどういうことか。いわゆる衆愚政治なのか。確かに、日常の生活の利害や、煽動に抵抗できない情緒的な反応、ということもあるだろうが、日常の側の意志決定は、統一的な政治理念よりは多様化しまとめるのがやっかいである。実はそれが重要であって、その多様さや意志決定のやっかいさを尊重する形でルール化すれば、ある理想的政治理念が陥る狭窄的視野と行動を抑制することが出来る。その意味では、日常の側に托した意志決定は必ずしも、特権的な政治理念の意志決定に劣るものではない。
もっと重要なのは、自分たちの生存の重要な決定に関与することの興奮と責任を負うということだ。いつもそんな責任を負わされたらたまらないが、憲法改正の投票のときぐらいは、負うのも仕方がないだろう。憲法は、国家という権力にたがをはめその方向性を決める枠組みであるから、日常の側に引き寄せてああでもないこうでもないと言い合うのもいいことだと思う。
今の国民投票法案がそういった意味での責任の負い方に適するものかどうかはわからない。が、いずれは国民投票をして、憲法に対する意志を一つの証拠として形にしておいた方がいいのは確かだ。
私の立場だが、戦略的護憲論といったところだ。冷静に考えて、9条を改正して海外に軍隊を合法的に派遣出来るようにすることは、日本にマイナスしかもたらさないだろう。日本の現在の国際的な評価は、軍隊を必要以上に持てないという歯止め(9条)があることであり、歯止めがあるにもかかわらず、何とか苦労して国際貢献に軍隊を出して国際協調にがんばっている、けなげではないか、というものだ。
これはおおかた一致する日本評価であろう。だから、一発の銃も撃たない自衛隊派遣を政府は強調しているわけで、それがある意味では世界にとって一つの信頼になりえているからだ。世界でも有数の軍隊を持ちながら、海外にもちょこちょこ出兵していながら、歯止めの憲法を持つことで平和国家として評価されている、こんなおいしい、ありがたい立場を何でみすみす放棄するのか、その神経が私にはわからない。
仮に、歯止めを放棄したら、世界は日本の軍備増強を懸念し、平和国家の評価を低くするだろう。日本の保守派は、中国や北朝鮮の脅威を理由に、軍備を増強するのは目に見えている。当然、中国と日本の軍拡競争が始まる。が、すでに核を保有し中国の経済発展に依存しなければならない日本に勝ち目はないのは当然だ。
軍事力による安全保障こそが平和や安心を作る、という9条改正論も、今のアメリカを見ればむなしい。巨額の軍事費をつぎ込んで自国の安全保障にやっきとなっている、今のアメリカに、平和や安心はあると言えるだろうか。むしろ、絶えずテロや戦争への脅威に脅えて、自国の安全保障にとって心配な国に戦争を仕掛けたり、絶えず武器の開発と軍備増強に血眼になっている。あれだけの軍備を供えても、得ることの出来たのは、自国を脅かす脅威への絶えざる不安である。
日本がすぐにアメリカになるとは言わない、だが、歯止めをなくして軍備を強めれば、確実に近づくのは確かだ。アメリカの軍備と不安は、自分を守るのは銃しかないと作り上げた銃社会が、絶えず銃による殺人におびえる不安と同じである。アメリカは、銃が不安を作るという論理を取らない。不安があるから銃が必要だという論理を取る。実は、この論理は、銃を生産する会社の利害を守る論理でもある。
一度軍備を増強すれば、軍備を減らすのは容易ではない。なぜなら、その軍備によって利益を受けるものは、その軍備が関与しているはずの脅威を、軍備がなければこの脅威によって滅びかねない、と言い立てるからだ。この論理を覆すのはなかなか難しい。
が、それなら、軍備によって脅威はなくなるかというと決してなくならない。それは論理的に言えるし歴史もそれを証明している。今、日本はこういう悪循環に陥らないための歯止め(9条)を持っている。この歯止めが将来有効かどうかはわからないにしても、現在かなり有効に働いているのは確かだ。その意味で、それを今捨てることはない。アジアとの関係を悪化させ、不必要な警戒論を世界に巻き起こし、進んで軍拡競争に巻き込まれていくのは必至なのに、何故なくしたがるのか、それがわからない。
たぶん、ある政治勢力の理念が狭窄的な視野に陥っているとしか思えない。軍隊を持つなと言っているわけではない。もう十分持っているしこれで十分だろうということだ。とりあえず歯止めを大事にしといた方が、それを無くしたよりも、他国の脅威を軽減出来るのも確かだ。歯止めがあるから日米安全保障が機能しているという現実を見失ってはならない。歯止めをなくせば、当然他国の脅威に対する核武装論議が起こり、そうすれば日本を守ろうという国際的な安全保障は弱まる。とすれば、日本はさらに軍備を増強して、核を持って、今のアメリカのように絶えざる脅威に神経症的になっていくだろう。どう考えたってそんな国に住むのは嫌である。
政治的な議論というのは、政治的な立場を表明することを当然としたり、あるいは、その表明によって生活に影響を与えないような環境を持たない場合、かなり困難である。日本の社会では、政治と生活はハレとケの区別のように区別される文化があり、ケの日常世界の側では、憲法論議は難しい。これは、議論の文化の未成熟というより、政治を非日常とするわれわれの文化の問題でもあろう。
が、国民投票法案などといいうものが出来てしまうと、否応なく、ケの側に憲法問題というハレが覆い被さってくる。柳田国男の言う「ハレとケの混乱」が起きているといっていいか。
ある番組で大阪のおばちゃんたちが護憲の漫才をやり、それと戦う形で改憲派の若者が改憲ラップというのをやっていた。すでにハレの政治的立場(合理性を追求する議論の場を越えてただ相手をこちら側の主張に従属させようとする立場)が日常の世界に入り込んでいることを確認した。
これは、社会の混乱というよりは、国家や社会の理念と無関係であった人びとが、それらに関わろうとすることであって、社会にとっては健全なありかただと見た方がいいだろう。ただし、これは歴史の転換点であって、かなりのリスクが伴っている。その意味ではかなりの覚悟が必要だ。
国民投票法案が通れば、改正をめぐる駆け引きが、世論形成の駆け引きとなって、ものすごい宣伝合戦が行われるだろう。18歳から投票できることになれば、若年層に対してほとんど刷り込みに近い誘導が行われるに違いない。これらは混乱だが、覚悟とはこれらの混乱を必然的なものとして引き受けることだ。
ケの日常の側がハレと区別出来なくなるとはどういうことか。いわゆる衆愚政治なのか。確かに、日常の生活の利害や、煽動に抵抗できない情緒的な反応、ということもあるだろうが、日常の側の意志決定は、統一的な政治理念よりは多様化しまとめるのがやっかいである。実はそれが重要であって、その多様さや意志決定のやっかいさを尊重する形でルール化すれば、ある理想的政治理念が陥る狭窄的視野と行動を抑制することが出来る。その意味では、日常の側に托した意志決定は必ずしも、特権的な政治理念の意志決定に劣るものではない。
もっと重要なのは、自分たちの生存の重要な決定に関与することの興奮と責任を負うということだ。いつもそんな責任を負わされたらたまらないが、憲法改正の投票のときぐらいは、負うのも仕方がないだろう。憲法は、国家という権力にたがをはめその方向性を決める枠組みであるから、日常の側に引き寄せてああでもないこうでもないと言い合うのもいいことだと思う。
今の国民投票法案がそういった意味での責任の負い方に適するものかどうかはわからない。が、いずれは国民投票をして、憲法に対する意志を一つの証拠として形にしておいた方がいいのは確かだ。
私の立場だが、戦略的護憲論といったところだ。冷静に考えて、9条を改正して海外に軍隊を合法的に派遣出来るようにすることは、日本にマイナスしかもたらさないだろう。日本の現在の国際的な評価は、軍隊を必要以上に持てないという歯止め(9条)があることであり、歯止めがあるにもかかわらず、何とか苦労して国際貢献に軍隊を出して国際協調にがんばっている、けなげではないか、というものだ。
これはおおかた一致する日本評価であろう。だから、一発の銃も撃たない自衛隊派遣を政府は強調しているわけで、それがある意味では世界にとって一つの信頼になりえているからだ。世界でも有数の軍隊を持ちながら、海外にもちょこちょこ出兵していながら、歯止めの憲法を持つことで平和国家として評価されている、こんなおいしい、ありがたい立場を何でみすみす放棄するのか、その神経が私にはわからない。
仮に、歯止めを放棄したら、世界は日本の軍備増強を懸念し、平和国家の評価を低くするだろう。日本の保守派は、中国や北朝鮮の脅威を理由に、軍備を増強するのは目に見えている。当然、中国と日本の軍拡競争が始まる。が、すでに核を保有し中国の経済発展に依存しなければならない日本に勝ち目はないのは当然だ。
軍事力による安全保障こそが平和や安心を作る、という9条改正論も、今のアメリカを見ればむなしい。巨額の軍事費をつぎ込んで自国の安全保障にやっきとなっている、今のアメリカに、平和や安心はあると言えるだろうか。むしろ、絶えずテロや戦争への脅威に脅えて、自国の安全保障にとって心配な国に戦争を仕掛けたり、絶えず武器の開発と軍備増強に血眼になっている。あれだけの軍備を供えても、得ることの出来たのは、自国を脅かす脅威への絶えざる不安である。
日本がすぐにアメリカになるとは言わない、だが、歯止めをなくして軍備を強めれば、確実に近づくのは確かだ。アメリカの軍備と不安は、自分を守るのは銃しかないと作り上げた銃社会が、絶えず銃による殺人におびえる不安と同じである。アメリカは、銃が不安を作るという論理を取らない。不安があるから銃が必要だという論理を取る。実は、この論理は、銃を生産する会社の利害を守る論理でもある。
一度軍備を増強すれば、軍備を減らすのは容易ではない。なぜなら、その軍備によって利益を受けるものは、その軍備が関与しているはずの脅威を、軍備がなければこの脅威によって滅びかねない、と言い立てるからだ。この論理を覆すのはなかなか難しい。
が、それなら、軍備によって脅威はなくなるかというと決してなくならない。それは論理的に言えるし歴史もそれを証明している。今、日本はこういう悪循環に陥らないための歯止め(9条)を持っている。この歯止めが将来有効かどうかはわからないにしても、現在かなり有効に働いているのは確かだ。その意味で、それを今捨てることはない。アジアとの関係を悪化させ、不必要な警戒論を世界に巻き起こし、進んで軍拡競争に巻き込まれていくのは必至なのに、何故なくしたがるのか、それがわからない。
たぶん、ある政治勢力の理念が狭窄的な視野に陥っているとしか思えない。軍隊を持つなと言っているわけではない。もう十分持っているしこれで十分だろうということだ。とりあえず歯止めを大事にしといた方が、それを無くしたよりも、他国の脅威を軽減出来るのも確かだ。歯止めがあるから日米安全保障が機能しているという現実を見失ってはならない。歯止めをなくせば、当然他国の脅威に対する核武装論議が起こり、そうすれば日本を守ろうという国際的な安全保障は弱まる。とすれば、日本はさらに軍備を増強して、核を持って、今のアメリカのように絶えざる脅威に神経症的になっていくだろう。どう考えたってそんな国に住むのは嫌である。
脱構築派批判 ― 2007/05/04 23:50
連休は山小屋で過ごしているが、例年の通り教え子のS夫婦が子ども連れで来たりとか、知り合いの家を訪れたりとか、それなりに忙しい。今蓼科湖の桜が満開でとてもきれいである。天気もよくなり、八ヶ岳もよく見える。
去年取材した歌垣の日本語訳をしようと取りかかったのだが、中国語と格闘する心の準備が出来ないうちに、読もうと持ってきた竹田青嗣『言語的思考へ―脱構築と現象学』(怪書房)を読み始め思わず読破してしまった。二日間、ほとんどこればかり読んでいた。
現象学は竹田青嗣がいろいろと整理して書いてくれているから、自分で読まないですむ。ありがたいことである。フッサールは何回か読もうと決意したことがあるが、途中で挫折した。私の最初の本『北村透谷の回復』を出したとき、竹田青嗣に帯の文章を頼むことになつていた。ただ、忙しい人なのでかなり遅れるという返事をもらって断念した。今でも残念である。
現象学的理論による言語理論の本だが、主にヴィトゲンシュタインやデリダの批判になつていて結構面白かった。脱構築は、現代思想を席捲したタームだが、何故、言語理論としてよくないか明らかにしてくれている。ありがたかった。
デリダの言語理論の核心は、言語の体系や構造とは、実体としての真理や意味あるいは先験的な観念の体系など持っているわけではなく、それ自体つきつめれば、最初の差延(差異)から派生する戯れの秩序であって、それ自体意味を決定できない不完全さそのものである、というものである。要するに、意味の秩序を超越的に設定する従来の哲学や言語理論の前提そのものを抜け出(脱構築)そうとする意図に貫かれた思想である。難しいが、最近の古代文学の研究も実はこのような理論に結構影響されている。実は私だってデリダの理論は結構使わしてもらった。
竹田はこの思想の必然性を認めながらも、言語理論としては誤解に基づく理論だとして批判する。誤解とは、言語の意味に対する把握が間違っているというのである。脱構築派の意味論は、意味の体系そのものが、それ自体戯れのような不確定性そのものであるから、言語は本質的に意味を構築できない不安定さそのものである、というところに行き着く。が、それなら、何故、言語を論じる当人の理論が、あるいは言語の意味を普段に使っている我々は、その不安や不確定性に惑わされずに、自分の意志やあるいは生そのものを普通のまっとうなものとして成立させ、それを相手に伝えることが可能なのか、この問いには答えられないだろうと竹田は言う。
言語の意味とは、発語主体と記号としての言語と受け手主体との関係における信憑によって成立するのであって、意味の体系とか(差異の体系としても同じこと)にあるのではない。つまり、空は青い、というとき、その発語主体の実存的な意味での世界(自分や他者あるいは外界)へと身を乗り出す(企投)その前向きの意識が、共有される(普遍化される)ことにおいて初めて、言語は意味として現れることを可能にするというのである。
空は青いというとき、受け手は、その言葉の発語主体と、世界へ関わろうとする前向きの意識を共有する。その条件のもとで、言語コンテクスト(どのような状況で発語されたか)を理解し、妥当な解釈の元でその言葉の意味を受け取るのである。つまり、そこには確信成立とでも言う信憑構造が成立しているのであり、空は青いという言葉を、何を言っているのかわからない不確定な言葉として受け取って混乱するというようなことはないのである。
ところが脱構築派は、空は青いという言葉は、それ自体多義的な言葉であって、何も伝えることは出来ないと考える。なぜなら、この言葉の背後には潜在的な様々な解釈可能性があり、この言葉の主体と言葉は断絶している以上(作者の死)、これは言葉の戯れであって、決定不可能性を孕んだ言葉だというのだ。
竹田は、このような考え方は、言葉は本質的に確信成立によってその意味を意味たらしめているという意味の問題を全く理解していないことから生じると批判する。つまり、どんな言葉もその言葉を言葉たらしめようとするある前向きの姿勢(確信成立)があるのであって、それを切り捨てたとき、言語は、ただの一般的な意味の秩序づけられた集合に過ぎない。そこでは、言葉の意味自体は確信を与えられないから、多様な意義に潜在的には代わられる必然を持ち、従って、言葉の意味は絶えず可変的で決定不可能のような戯れの様相となる。デリダはこのような言葉の意味の本質を捨象したところで言語理論を論じているのであるから、その論理は間違っているというのである。
デリダら脱構築派は、結局、意味の体系を神のごとくに超越的に設定するヨーロッパの伝統哲学を、結局は神はいない、と反転させただけではないかという。あるいは、脱構築の果てに虚無かもしくは自由があるというのなら、それ自体すでに神のごときものであって、その意味では、脱構築派は、ヨーロッパの伝統的哲学を反転させただけの理論でしかない。このことをついたのが東浩紀の否定神学という脱構築派批判である。竹田はこの否定神学という批判を評価する。つまり、脱構築は、そこには戯れしかないという意味の超越的な神を見出しただけだったということなのだ。伝統的な神学であるヨーロッパ哲学を否定する論理自体が神学になっている、という批判である。
そうか、脱構築派は今だめなんだ、というのがこの本を読んだ感想。あんまり脱構築していなくてよかった。だが、文学の特に詩表現や、あるいは、時に戯れなどと呼びたくなる言語表象をどう扱うかは、古代文学研究にとっても大事な問題だ。
竹田の言い方では、ある文章が言語の戯れに見えるのは、そこから確信の構造(私の言い方で言えば発語主体の前向きの姿勢)が捨象されているからだ、ということになる。その捨象のレベルをどのように判断するかが問われるということだ。その文章を読む研究者のレベルなのか、それとも、その文章の書き手においてそれがすでに生じているのか、ということだ。少なくとも、アプリオリに戯れがあると評価して読むと、それはロマン主義的な神学かもしくは脱構築派の否定神学になるおそれがある。
私は、竹田の理論は納得している。というのも、折口もあるいは時枝の言語論も竹田の現象学、実存的と言ってもいいようだが、その理論にしっくりいくからだ。ただ、最後にそれなら、確信の構造があるとして、それでも戯れが起こる。完全に捨象は出来ないからだ。それは何故か。それが詩的な表出としての意図的な技巧であることを別にすれば、確信の構造と言語の表出の間には「ゆらぎ」があるからだということではないか。
つまり、確信の構造もそれほど安定したものではないということだ。
風に従うの逆らうの鯉幟
五月の空俺は自力で泳いでいる
去年取材した歌垣の日本語訳をしようと取りかかったのだが、中国語と格闘する心の準備が出来ないうちに、読もうと持ってきた竹田青嗣『言語的思考へ―脱構築と現象学』(怪書房)を読み始め思わず読破してしまった。二日間、ほとんどこればかり読んでいた。
現象学は竹田青嗣がいろいろと整理して書いてくれているから、自分で読まないですむ。ありがたいことである。フッサールは何回か読もうと決意したことがあるが、途中で挫折した。私の最初の本『北村透谷の回復』を出したとき、竹田青嗣に帯の文章を頼むことになつていた。ただ、忙しい人なのでかなり遅れるという返事をもらって断念した。今でも残念である。
現象学的理論による言語理論の本だが、主にヴィトゲンシュタインやデリダの批判になつていて結構面白かった。脱構築は、現代思想を席捲したタームだが、何故、言語理論としてよくないか明らかにしてくれている。ありがたかった。
デリダの言語理論の核心は、言語の体系や構造とは、実体としての真理や意味あるいは先験的な観念の体系など持っているわけではなく、それ自体つきつめれば、最初の差延(差異)から派生する戯れの秩序であって、それ自体意味を決定できない不完全さそのものである、というものである。要するに、意味の秩序を超越的に設定する従来の哲学や言語理論の前提そのものを抜け出(脱構築)そうとする意図に貫かれた思想である。難しいが、最近の古代文学の研究も実はこのような理論に結構影響されている。実は私だってデリダの理論は結構使わしてもらった。
竹田はこの思想の必然性を認めながらも、言語理論としては誤解に基づく理論だとして批判する。誤解とは、言語の意味に対する把握が間違っているというのである。脱構築派の意味論は、意味の体系そのものが、それ自体戯れのような不確定性そのものであるから、言語は本質的に意味を構築できない不安定さそのものである、というところに行き着く。が、それなら、何故、言語を論じる当人の理論が、あるいは言語の意味を普段に使っている我々は、その不安や不確定性に惑わされずに、自分の意志やあるいは生そのものを普通のまっとうなものとして成立させ、それを相手に伝えることが可能なのか、この問いには答えられないだろうと竹田は言う。
言語の意味とは、発語主体と記号としての言語と受け手主体との関係における信憑によって成立するのであって、意味の体系とか(差異の体系としても同じこと)にあるのではない。つまり、空は青い、というとき、その発語主体の実存的な意味での世界(自分や他者あるいは外界)へと身を乗り出す(企投)その前向きの意識が、共有される(普遍化される)ことにおいて初めて、言語は意味として現れることを可能にするというのである。
空は青いというとき、受け手は、その言葉の発語主体と、世界へ関わろうとする前向きの意識を共有する。その条件のもとで、言語コンテクスト(どのような状況で発語されたか)を理解し、妥当な解釈の元でその言葉の意味を受け取るのである。つまり、そこには確信成立とでも言う信憑構造が成立しているのであり、空は青いという言葉を、何を言っているのかわからない不確定な言葉として受け取って混乱するというようなことはないのである。
ところが脱構築派は、空は青いという言葉は、それ自体多義的な言葉であって、何も伝えることは出来ないと考える。なぜなら、この言葉の背後には潜在的な様々な解釈可能性があり、この言葉の主体と言葉は断絶している以上(作者の死)、これは言葉の戯れであって、決定不可能性を孕んだ言葉だというのだ。
竹田は、このような考え方は、言葉は本質的に確信成立によってその意味を意味たらしめているという意味の問題を全く理解していないことから生じると批判する。つまり、どんな言葉もその言葉を言葉たらしめようとするある前向きの姿勢(確信成立)があるのであって、それを切り捨てたとき、言語は、ただの一般的な意味の秩序づけられた集合に過ぎない。そこでは、言葉の意味自体は確信を与えられないから、多様な意義に潜在的には代わられる必然を持ち、従って、言葉の意味は絶えず可変的で決定不可能のような戯れの様相となる。デリダはこのような言葉の意味の本質を捨象したところで言語理論を論じているのであるから、その論理は間違っているというのである。
デリダら脱構築派は、結局、意味の体系を神のごとくに超越的に設定するヨーロッパの伝統哲学を、結局は神はいない、と反転させただけではないかという。あるいは、脱構築の果てに虚無かもしくは自由があるというのなら、それ自体すでに神のごときものであって、その意味では、脱構築派は、ヨーロッパの伝統的哲学を反転させただけの理論でしかない。このことをついたのが東浩紀の否定神学という脱構築派批判である。竹田はこの否定神学という批判を評価する。つまり、脱構築は、そこには戯れしかないという意味の超越的な神を見出しただけだったということなのだ。伝統的な神学であるヨーロッパ哲学を否定する論理自体が神学になっている、という批判である。
そうか、脱構築派は今だめなんだ、というのがこの本を読んだ感想。あんまり脱構築していなくてよかった。だが、文学の特に詩表現や、あるいは、時に戯れなどと呼びたくなる言語表象をどう扱うかは、古代文学研究にとっても大事な問題だ。
竹田の言い方では、ある文章が言語の戯れに見えるのは、そこから確信の構造(私の言い方で言えば発語主体の前向きの姿勢)が捨象されているからだ、ということになる。その捨象のレベルをどのように判断するかが問われるということだ。その文章を読む研究者のレベルなのか、それとも、その文章の書き手においてそれがすでに生じているのか、ということだ。少なくとも、アプリオリに戯れがあると評価して読むと、それはロマン主義的な神学かもしくは脱構築派の否定神学になるおそれがある。
私は、竹田の理論は納得している。というのも、折口もあるいは時枝の言語論も竹田の現象学、実存的と言ってもいいようだが、その理論にしっくりいくからだ。ただ、最後にそれなら、確信の構造があるとして、それでも戯れが起こる。完全に捨象は出来ないからだ。それは何故か。それが詩的な表出としての意図的な技巧であることを別にすれば、確信の構造と言語の表出の間には「ゆらぎ」があるからだということではないか。
つまり、確信の構造もそれほど安定したものではないということだ。
風に従うの逆らうの鯉幟
五月の空俺は自力で泳いでいる
無垢は罪か ― 2007/05/06 19:38
昨日は学会のシンポジウムで茅野から東京に往復。会場は私の勤め先で、しかも休日だから責任者の私が行かないとシンポジウムが開けない。会場校となるとやはりいろいろと大変である。
天気が良くて暖かかった。特急あずさはそれほど混んでなかった。シンポジウムは中世和歌のY氏と古代のIさんとの「しらべ」をめぐるもの。しらべについては岩波の座談会でも話題になり、今回も興味を持って聞いた。
Y氏の話も、座談会の時より氏のこだわりがよくわかって面白かった。和歌を論じることの転倒せざるを得ない論理に、むしろ和歌の可能性を探ろうとする方法論は面白く、演劇を通して身体というものに向き合っている人の語り口だなあと感心した次第だ。
ただ、気になった言い方があった。それは、斎藤茂吉の実朝の歌への評を「うさんくさい」と言ったことで、会場からの質問の時にとりあえずそのことについて反論はしたが、テーマと外れるので、あまりつっこまなかった。
氏の言うには、個人(斎藤茂吉)の内面のある欠落を歌(実朝の歌)への感動によって埋める時に、その説明として古代的な幻想を作り上げあたかも古代がそのようなものだと言い立てることを「うさんくさい」という。むろん、これだけで「うさんくさい」のだったら、古典を読んで感動してそこにそれぞれの古典的な世界像を思い描くわれわれはみんな「うさんくさい」。それこそ和歌に自分の内面の何かを托して語るY氏もまた「うさんくさい」はずだ。
確かに、内面の補填として描かれるある像は信憑性がないかも知れない。しかし、学問の始まりとは常にそういうものであろう。批判されながらその像を修正したり断念していくものだ。それをその始まり最初を「うさんくさい」と言われたら、それはたまらないのではないか、というのが私の反発した理由であった。
むろんY氏の言い方はもっといろいろな言説のバイアスに圧されているので、そう単純でもない。和歌の捉え方の違いが氏と茂吉との間にはあり、茂吉の和歌の捉え方そのものが、反動的なものとして利用されるという思いがある。和歌が政治的に利用され古代的幻想が国家主義に的な意味合いを帯びたという反省である。つまり茂吉の古代幻想そのものが政治的な言説になってしまうことの「うさんくささ」といった意味であろう。
そういう意味での「うさんくさい」はわからないではない。だが、この問題は実は現在のわれわれの研究の言説をめぐるやっかいな問題でもある。茂吉の和歌の捉え方とY氏の捉え方の違いはそれ自体問題ではない。問題なのは、ある研究の言説を批判するとき、その言説の政治性に言及するという批判の仕方である。
茂吉が実朝の歌に古代を幻想したその論理は、論理として無防備あることは間違いがない。その論理の時代への影響やそれが百年後に反動的だと批判されることなど予想もしないで、それこそ率直に提示されたものだ。つまり、論理自体の政治性や時代性や秩序に対する脱構築といった可能性が最初から想定されていない、という意味で、無防備なのであり、そこにはメタ的なレベル(ある論理を相対化するより高い次元の視点)もない。
このような論理は、最近のアカデミズムの言説の格好な餌食である。というのは、最近のアカデミズムの言説は、ある事柄に感動してある像を無防備に述べる言説を、メタ的なレベルから、その言説が時代の反動性に対して何ら防御していない(脱構築していないというのがはやりの言い方)ことの無知を徹底して攻撃するというものだからだ。
だから、最近の研究の言説は、最初の感動を語らずに封印し、その言説の政治性やメタレベルへの批判に耐えうるようにメタ的レベルを競うという言説になる。何故こういうことになるかというと、メタ的レベルとは、他の言説を批判できるが自分への批判は出来ないレベルだからである。かくして、文学研究者が、文学という言語にかかわる動機(内面)を徹底して隠し、文学という制度をいかに解体するか、つまり文学にかかわる自分や他人をいかに批判し得る地点に立つか、ということのみに精力を傾ける、という構図ができあがってしまった。そこから何も生まれないことは、そろそろみんな気づき始めたようだが。
ところで、私が和歌という研究が好きなのは、この分野ではまだこういう徒労な言説がはびこっていないことも理由の一つである。Y氏もまたそういう言説とは無縁な人である。だが、「うさんくさい」発言には、ちらとそういうニュアンスを私は感じ取った。というよりそういう構図に乗って発言した。メタ的レベルで武装したガンマンが無防備の相手を銃で撃つような発言だったように思う。
斎藤茂吉は無防備である。だから斎藤茂吉に罪はないと言っているわけではない。たとえばY氏は感情を鎮めたりなだめたりするところに和歌の本質があると語る。私はこの和歌観をうさんくさいとは思わない。共感するところがある。ところが、安倍首相が「美しい日本」を語るときに、Y氏の和歌観をとりあげ、ここに美しい日本があると語ったらどうだろう。あり得ることである。おそらく、そこからY氏の和歌観は「うさんくさい」という批判があちこちから起こるだろう。その場合、Y氏に罪は無いのであろうか。
どんな言説も無垢ではあり得ない。だが、無垢は悪ではない。それを悪だと言ったら、研究など成立しなくなる。誰だって損得抜きで取り憑かれたように学問している。それはある意味で無垢である。それを悪といえない。が、現実は無垢ではあり得ない。それなら、メタ的レベルに武装してからでなければ、学問は世に問えないのか。これはかなり難しい問題である。
最近は、安倍首相に利用されたY氏の言説(これは架空の話です)の無垢さに罪がある、というように強調される傾向にある。そうではない。無垢な言説などないことを前提にしながらも、その言説がさまざな位相で違う意味を帯びる、ということの問題である。この構造的な問題を、構造の一部である研究の言説が、脱構築するように全部を相対化するのは無理である。それは研究者に超越的立場に立つ神になれというものである。
研究の言説とは難しい。率直に語れば無防備になる。かといって防御をしすぎれば空論になる。神のごとく超越的立場(脱構築の立場もそうである)には立てるまねごとはできても実際は誰も立てない。が、研究者もまた考える人であり、歯車の一部のように構造の一部なのではない。その意味では無垢などあり得ないことを自覚しなければならない。だとすれば、その言説の利用のされ方に責任などないとは言えない。
結局、それなりに自分の言説に責任を持てという当たり障りのないところに落ち着くしかないが、この問題の難しさに自覚的であれば、簡単には、あなたの言説は罪であると批判はできないのではないか。なぜなら、それは全部自分にふりかかってくる問題であるからだ。
シンポジウムの場で議論をしたらここまて言いたいことが言えたかどうかは分からないが、事後的にいろいろ考えると、私の言いたいことはこんなところだった。むろん、これはY氏への批判ではなく、時にそういう言説をする私も含めて、われわれの研究の言説に対する、ささやかないちゃもんである。
山里の遠き桜よいつも独り
天気が良くて暖かかった。特急あずさはそれほど混んでなかった。シンポジウムは中世和歌のY氏と古代のIさんとの「しらべ」をめぐるもの。しらべについては岩波の座談会でも話題になり、今回も興味を持って聞いた。
Y氏の話も、座談会の時より氏のこだわりがよくわかって面白かった。和歌を論じることの転倒せざるを得ない論理に、むしろ和歌の可能性を探ろうとする方法論は面白く、演劇を通して身体というものに向き合っている人の語り口だなあと感心した次第だ。
ただ、気になった言い方があった。それは、斎藤茂吉の実朝の歌への評を「うさんくさい」と言ったことで、会場からの質問の時にとりあえずそのことについて反論はしたが、テーマと外れるので、あまりつっこまなかった。
氏の言うには、個人(斎藤茂吉)の内面のある欠落を歌(実朝の歌)への感動によって埋める時に、その説明として古代的な幻想を作り上げあたかも古代がそのようなものだと言い立てることを「うさんくさい」という。むろん、これだけで「うさんくさい」のだったら、古典を読んで感動してそこにそれぞれの古典的な世界像を思い描くわれわれはみんな「うさんくさい」。それこそ和歌に自分の内面の何かを托して語るY氏もまた「うさんくさい」はずだ。
確かに、内面の補填として描かれるある像は信憑性がないかも知れない。しかし、学問の始まりとは常にそういうものであろう。批判されながらその像を修正したり断念していくものだ。それをその始まり最初を「うさんくさい」と言われたら、それはたまらないのではないか、というのが私の反発した理由であった。
むろんY氏の言い方はもっといろいろな言説のバイアスに圧されているので、そう単純でもない。和歌の捉え方の違いが氏と茂吉との間にはあり、茂吉の和歌の捉え方そのものが、反動的なものとして利用されるという思いがある。和歌が政治的に利用され古代的幻想が国家主義に的な意味合いを帯びたという反省である。つまり茂吉の古代幻想そのものが政治的な言説になってしまうことの「うさんくささ」といった意味であろう。
そういう意味での「うさんくさい」はわからないではない。だが、この問題は実は現在のわれわれの研究の言説をめぐるやっかいな問題でもある。茂吉の和歌の捉え方とY氏の捉え方の違いはそれ自体問題ではない。問題なのは、ある研究の言説を批判するとき、その言説の政治性に言及するという批判の仕方である。
茂吉が実朝の歌に古代を幻想したその論理は、論理として無防備あることは間違いがない。その論理の時代への影響やそれが百年後に反動的だと批判されることなど予想もしないで、それこそ率直に提示されたものだ。つまり、論理自体の政治性や時代性や秩序に対する脱構築といった可能性が最初から想定されていない、という意味で、無防備なのであり、そこにはメタ的なレベル(ある論理を相対化するより高い次元の視点)もない。
このような論理は、最近のアカデミズムの言説の格好な餌食である。というのは、最近のアカデミズムの言説は、ある事柄に感動してある像を無防備に述べる言説を、メタ的なレベルから、その言説が時代の反動性に対して何ら防御していない(脱構築していないというのがはやりの言い方)ことの無知を徹底して攻撃するというものだからだ。
だから、最近の研究の言説は、最初の感動を語らずに封印し、その言説の政治性やメタレベルへの批判に耐えうるようにメタ的レベルを競うという言説になる。何故こういうことになるかというと、メタ的レベルとは、他の言説を批判できるが自分への批判は出来ないレベルだからである。かくして、文学研究者が、文学という言語にかかわる動機(内面)を徹底して隠し、文学という制度をいかに解体するか、つまり文学にかかわる自分や他人をいかに批判し得る地点に立つか、ということのみに精力を傾ける、という構図ができあがってしまった。そこから何も生まれないことは、そろそろみんな気づき始めたようだが。
ところで、私が和歌という研究が好きなのは、この分野ではまだこういう徒労な言説がはびこっていないことも理由の一つである。Y氏もまたそういう言説とは無縁な人である。だが、「うさんくさい」発言には、ちらとそういうニュアンスを私は感じ取った。というよりそういう構図に乗って発言した。メタ的レベルで武装したガンマンが無防備の相手を銃で撃つような発言だったように思う。
斎藤茂吉は無防備である。だから斎藤茂吉に罪はないと言っているわけではない。たとえばY氏は感情を鎮めたりなだめたりするところに和歌の本質があると語る。私はこの和歌観をうさんくさいとは思わない。共感するところがある。ところが、安倍首相が「美しい日本」を語るときに、Y氏の和歌観をとりあげ、ここに美しい日本があると語ったらどうだろう。あり得ることである。おそらく、そこからY氏の和歌観は「うさんくさい」という批判があちこちから起こるだろう。その場合、Y氏に罪は無いのであろうか。
どんな言説も無垢ではあり得ない。だが、無垢は悪ではない。それを悪だと言ったら、研究など成立しなくなる。誰だって損得抜きで取り憑かれたように学問している。それはある意味で無垢である。それを悪といえない。が、現実は無垢ではあり得ない。それなら、メタ的レベルに武装してからでなければ、学問は世に問えないのか。これはかなり難しい問題である。
最近は、安倍首相に利用されたY氏の言説(これは架空の話です)の無垢さに罪がある、というように強調される傾向にある。そうではない。無垢な言説などないことを前提にしながらも、その言説がさまざな位相で違う意味を帯びる、ということの問題である。この構造的な問題を、構造の一部である研究の言説が、脱構築するように全部を相対化するのは無理である。それは研究者に超越的立場に立つ神になれというものである。
研究の言説とは難しい。率直に語れば無防備になる。かといって防御をしすぎれば空論になる。神のごとく超越的立場(脱構築の立場もそうである)には立てるまねごとはできても実際は誰も立てない。が、研究者もまた考える人であり、歯車の一部のように構造の一部なのではない。その意味では無垢などあり得ないことを自覚しなければならない。だとすれば、その言説の利用のされ方に責任などないとは言えない。
結局、それなりに自分の言説に責任を持てという当たり障りのないところに落ち着くしかないが、この問題の難しさに自覚的であれば、簡単には、あなたの言説は罪であると批判はできないのではないか。なぜなら、それは全部自分にふりかかってくる問題であるからだ。
シンポジウムの場で議論をしたらここまて言いたいことが言えたかどうかは分からないが、事後的にいろいろ考えると、私の言いたいことはこんなところだった。むろん、これはY氏への批判ではなく、時にそういう言説をする私も含めて、われわれの研究の言説に対する、ささやかないちゃもんである。
山里の遠き桜よいつも独り
五月の教室で ― 2007/05/08 01:07
今日の基礎ゼミナールは、学校生活を快適に過ごす方法として、とりあえず何故快適に過ごせないのかを書いてもらい、それを発表した。そしたら、不満がでるわでるわ。何処の大学でも同じだろうが、学生は不満を語る場が与えられたら、容赦はない。
一番多かったのは食堂への不満。エレベーターへの不満。要するに、校舎が狭い、学生が多い、ということが原因である。どんなことにも原因がある。それをまず知ること。何故、校舎が狭いのか。それは、今われわれの住む日本が競争社会だからだ。大学も例外ではない。競争社会で勝ち抜くためには、志願者を増やす何かをしなきゃならない。それが、八王子校舎を撤退して、神田校舎に集中化した理由。だが、その弊害として、校舎が狭くなってしまった。それで、君たちが不満を感じる、と説明する。
授業でこういう説明をするのもどうかと思うが、自分たちの不満が今の日本のあり方と結びついていることを知ることも大切だろう。
授業で何故私語が多いのか。何故飲食していけないのか。何故遅刻や欠席は行けないのか、実は、基礎ゼミナールにはテキストがあって、そういうことが書かれている。考えてみればそんなことを書くテキストがあって、それを教えるというのものおかしいが、それが現実。学生の感想にも大学でこんなことを教えなきゃ行けないのか、という感想があった。
それが現実で、現に授業中に、私語が多く、飲食し、化粧し、途中で出て行く、遅刻すると、やりたい放題。どうしていけないのか授業でやるのも納得である。
授業という場は、君たちが自分を磨き自分の理想や希望をかなえようと思っているそういう場だろう。つまり、君たちにとってはどうでもいいような場ではなく、将来のかかった真剣で神聖な場でなくては本当はならないはずだろう。それなのに、おしゃべりしたり、飲食したりするのは、この場をどうでもいいと思っているか軽んじているサインであって、それは、とりもなおさず自分を軽んじていることではないか。自分を大事にしているならそんなことはできないはずだ。というのは、テキストに書いてあったこと。それを語ったら、とりあえずシーンとなった。
社会は厳しい。会社で会議中にお喋りしたら、そのうちリストラされる。遅刻したらまず上司から軽んじられ、馬鹿にされる。基本的ルールを守るというのは、実は、社会では、自分が生き抜いていくための最低の条件である。アメリカ社会では、ここから入るなというルールを大丈夫だよといって破り撃ち殺される事件が起こる。撃ち殺されるのは日本人の留学生が多いという。日本人は、ルールを守らなくても気にしないかららしい。ルールを守らないと命が危ないなんて社会はいくらでもある。嫌でもそういう社会に出で行かざるを得ないときに、遅刻してもお喋りしてもなあなあですます日本の教育の現場は、犯罪的かも知れない。肝に銘じなければならないと思う。
ちなみに、私は、自分がしゃべっているときに邪魔されると腹が立つので、お喋りは厳しく注意する。途中で席を立つのも原則として禁止。それは、自分が快適に授業をしたいからでそれが自分に課したルールであるからだ。
授業態度まで教えなきゃ行けない時代になった。複雑な心境である。
五月の教室で君たちは変わる
一番多かったのは食堂への不満。エレベーターへの不満。要するに、校舎が狭い、学生が多い、ということが原因である。どんなことにも原因がある。それをまず知ること。何故、校舎が狭いのか。それは、今われわれの住む日本が競争社会だからだ。大学も例外ではない。競争社会で勝ち抜くためには、志願者を増やす何かをしなきゃならない。それが、八王子校舎を撤退して、神田校舎に集中化した理由。だが、その弊害として、校舎が狭くなってしまった。それで、君たちが不満を感じる、と説明する。
授業でこういう説明をするのもどうかと思うが、自分たちの不満が今の日本のあり方と結びついていることを知ることも大切だろう。
授業で何故私語が多いのか。何故飲食していけないのか。何故遅刻や欠席は行けないのか、実は、基礎ゼミナールにはテキストがあって、そういうことが書かれている。考えてみればそんなことを書くテキストがあって、それを教えるというのものおかしいが、それが現実。学生の感想にも大学でこんなことを教えなきゃ行けないのか、という感想があった。
それが現実で、現に授業中に、私語が多く、飲食し、化粧し、途中で出て行く、遅刻すると、やりたい放題。どうしていけないのか授業でやるのも納得である。
授業という場は、君たちが自分を磨き自分の理想や希望をかなえようと思っているそういう場だろう。つまり、君たちにとってはどうでもいいような場ではなく、将来のかかった真剣で神聖な場でなくては本当はならないはずだろう。それなのに、おしゃべりしたり、飲食したりするのは、この場をどうでもいいと思っているか軽んじているサインであって、それは、とりもなおさず自分を軽んじていることではないか。自分を大事にしているならそんなことはできないはずだ。というのは、テキストに書いてあったこと。それを語ったら、とりあえずシーンとなった。
社会は厳しい。会社で会議中にお喋りしたら、そのうちリストラされる。遅刻したらまず上司から軽んじられ、馬鹿にされる。基本的ルールを守るというのは、実は、社会では、自分が生き抜いていくための最低の条件である。アメリカ社会では、ここから入るなというルールを大丈夫だよといって破り撃ち殺される事件が起こる。撃ち殺されるのは日本人の留学生が多いという。日本人は、ルールを守らなくても気にしないかららしい。ルールを守らないと命が危ないなんて社会はいくらでもある。嫌でもそういう社会に出で行かざるを得ないときに、遅刻してもお喋りしてもなあなあですます日本の教育の現場は、犯罪的かも知れない。肝に銘じなければならないと思う。
ちなみに、私は、自分がしゃべっているときに邪魔されると腹が立つので、お喋りは厳しく注意する。途中で席を立つのも原則として禁止。それは、自分が快適に授業をしたいからでそれが自分に課したルールであるからだ。
授業態度まで教えなきゃ行けない時代になった。複雑な心境である。
五月の教室で君たちは変わる
五月病発生す ― 2007/05/09 00:00
昨日今日と暑いくらいだ。初夏という感じだ。連休を終えて家に戻ったら、小さな庭にあるツツジは花が落ちて葉が茂り、夏椿の葉も勢いを増し、ロウ梅の樹はお化けのように枝を伸ばしていた。生命の勢いに気圧されるというのはこういう光景なのかも知れない。
信州ではまだ枯れ木が多かった。標高が低くなるにつれて、芽吹く樹が多くなる。そういえば、こういう光景は中国の雲南省にはなかった。一年住んだわけではないしあちこち行ったわけではないが、照葉樹林とか常春と言われている国だけあって、やはり四季は無いことは確かだ。
季節の移り変わりとは、美の問題ではなく、本来は生命力の交替といったことではなかったか。美の問題になったのは明らかに漢詩の影響だろう。特に春の生命力は、夏の繁る勢いではなく、萌えいづるというものだから、こっちのほうが精神的には安定するように思うが、逆らしい。この時期は人間を精神的に不安定にするらしい。
夏には暑さで草が「萎える」という言い方が万葉にある。勢いの反対の語もあるのである。が春の「萌える」に反対の語はないだろう。春に昂揚する奴はいても萎える奴はいない。五月病は春の病ではないが、春の昂揚した精神的な不安定さの反動で、昂揚した自分の落ち着き先を見いだせず、やる気を失っていく病だ。
考えてみれば夏に昂揚する奴はいない。そういうのは暑苦しい。秋は昂揚というのとは違う。身体が快適に動くだけだ。冬に昂揚する奴は異常だとしか言えない。ということは、春は精神の昂揚の季節で、その結果反動が来て、五月病になると言うわけだ。
一人の学生が休学届けを出しに来た。面談をした教員が理由を尋ねたところ、すべてにやる気が起きないとの答えだった。そんな理由で休学した学生は今までいなかったが、これは五月病だろう。ついに、五月病が私の学科に発生した。
女らは薄物を手に立夏なり
葉脈を透かして見せる新樹かな
信州ではまだ枯れ木が多かった。標高が低くなるにつれて、芽吹く樹が多くなる。そういえば、こういう光景は中国の雲南省にはなかった。一年住んだわけではないしあちこち行ったわけではないが、照葉樹林とか常春と言われている国だけあって、やはり四季は無いことは確かだ。
季節の移り変わりとは、美の問題ではなく、本来は生命力の交替といったことではなかったか。美の問題になったのは明らかに漢詩の影響だろう。特に春の生命力は、夏の繁る勢いではなく、萌えいづるというものだから、こっちのほうが精神的には安定するように思うが、逆らしい。この時期は人間を精神的に不安定にするらしい。
夏には暑さで草が「萎える」という言い方が万葉にある。勢いの反対の語もあるのである。が春の「萌える」に反対の語はないだろう。春に昂揚する奴はいても萎える奴はいない。五月病は春の病ではないが、春の昂揚した精神的な不安定さの反動で、昂揚した自分の落ち着き先を見いだせず、やる気を失っていく病だ。
考えてみれば夏に昂揚する奴はいない。そういうのは暑苦しい。秋は昂揚というのとは違う。身体が快適に動くだけだ。冬に昂揚する奴は異常だとしか言えない。ということは、春は精神の昂揚の季節で、その結果反動が来て、五月病になると言うわけだ。
一人の学生が休学届けを出しに来た。面談をした教員が理由を尋ねたところ、すべてにやる気が起きないとの答えだった。そんな理由で休学した学生は今までいなかったが、これは五月病だろう。ついに、五月病が私の学科に発生した。
女らは薄物を手に立夏なり
葉脈を透かして見せる新樹かな
江原啓之にはなれない ― 2007/05/10 00:18
うちの学科の学生が今日体調が悪くて保健室で休んでいたがひどくなったので、保護者に来てもらうということがあった。時々こういうことが起こる。いろいろなことがある。
今週のニューズウィーク日本版は、日本のスピリチュアルブームを取り上げている。江原啓之のインタビューも載っていた。外国人の記者は、キリスト教的信仰の土壌で生きてきた自分たちには、このようなブームがよく分からないと書いている。
ただ、こういう日本のスピリチュアリズムがイギリスのスピリチュアリズムを模範としていることに面白がっている。江原啓之もやはイギリスのスピリチュアリズムを学んでいるらしい。日本のは自然宗教的な要素が強いのだろうが、英国をまねるのは、英国ではスピリチュアリズムが科学に近い扱いを受けているからだと言う。むろん認めない人の方が多数らしいが。
今日テレビで、上海の投資が過熱気味であるという番組をやっていたが、上海の投資家が投資のタイミングについて、グラフを見ていると直感でわかるの、と答えていた。科学と直感は背反するものではない。人間の心においてはである。
江原啓之のコンサートらしき催しにに参加するのはほとんどが女性であるらしい。ほとんうは男性だって行きたいのだろうが、なかなか行きにくいということだろうか。自分が今幸福でない理由を科学的にだれも説明できない。とすればその解決も同じことだ。
が、人をだましたり、不真面目に生きれば、幸福にはなれないことは誰もがわかる。そういうごく一般的な分かりやすい解決法を、理屈や説教でなく、直感(霊感)で語ってくれたら、そのほうがリアリティのある解決になるだろう。もともと、自分が幸福で無い理由そのものが不思議なのだ。こちら側でないところから来た不幸は、こちら側でないところからもたらされる言葉によってこそ祓われるのだ。そういう心理を、人間はどんなに合理性や科学を発達させようと失わない。
重要なのは語る中身ではなく、その語り方なのだ、ということである。江原啓之の語るのは誰にも適用できる人生論である。が、その語り方は簡単には誰にもできない。守護霊や前世が見えていることを巧みに交えながら語る語り口は、現代の資本主義社会におけるシャーマニズムの一つの典型だろう。
イタコの語る人生論が、東北の生活と風土の暗さを負ったものだったとすれば、現代の資本主義社会における多くの悩みは、競争社会にうまく適応できない悩みか、適応しすぎたために起こるストレスの悩みである。そこいら辺を掴んでしまえば、私にだってたぶん人生相談は出来る。後は語り口の芸があるかどうかである。
自分の話す話は自分が話しているのではなく、神もしくはある普遍的な立場からそう話すように促されているからだ、という雰囲気を作れば、江原啓之になれる。カリスマの語り口とはそういうものだ。授業の語りの下手な私は時々、そういう語り口を学びたいと思う。学生たちを信者に出来たら、授業のアンケートだってトップになれるだろうと思うが、そうはいかない。そういう語り口は、根拠があろうとなかろうと断固とした自信で語らなければならない。私にはそれがない。世の中断定的に語れないことばかりだ、と言う語り口が私の信条だ。やはり、私は江原啓之にはなれない。
魂がめまいする立夏かな
今週のニューズウィーク日本版は、日本のスピリチュアルブームを取り上げている。江原啓之のインタビューも載っていた。外国人の記者は、キリスト教的信仰の土壌で生きてきた自分たちには、このようなブームがよく分からないと書いている。
ただ、こういう日本のスピリチュアリズムがイギリスのスピリチュアリズムを模範としていることに面白がっている。江原啓之もやはイギリスのスピリチュアリズムを学んでいるらしい。日本のは自然宗教的な要素が強いのだろうが、英国をまねるのは、英国ではスピリチュアリズムが科学に近い扱いを受けているからだと言う。むろん認めない人の方が多数らしいが。
今日テレビで、上海の投資が過熱気味であるという番組をやっていたが、上海の投資家が投資のタイミングについて、グラフを見ていると直感でわかるの、と答えていた。科学と直感は背反するものではない。人間の心においてはである。
江原啓之のコンサートらしき催しにに参加するのはほとんどが女性であるらしい。ほとんうは男性だって行きたいのだろうが、なかなか行きにくいということだろうか。自分が今幸福でない理由を科学的にだれも説明できない。とすればその解決も同じことだ。
が、人をだましたり、不真面目に生きれば、幸福にはなれないことは誰もがわかる。そういうごく一般的な分かりやすい解決法を、理屈や説教でなく、直感(霊感)で語ってくれたら、そのほうがリアリティのある解決になるだろう。もともと、自分が幸福で無い理由そのものが不思議なのだ。こちら側でないところから来た不幸は、こちら側でないところからもたらされる言葉によってこそ祓われるのだ。そういう心理を、人間はどんなに合理性や科学を発達させようと失わない。
重要なのは語る中身ではなく、その語り方なのだ、ということである。江原啓之の語るのは誰にも適用できる人生論である。が、その語り方は簡単には誰にもできない。守護霊や前世が見えていることを巧みに交えながら語る語り口は、現代の資本主義社会におけるシャーマニズムの一つの典型だろう。
イタコの語る人生論が、東北の生活と風土の暗さを負ったものだったとすれば、現代の資本主義社会における多くの悩みは、競争社会にうまく適応できない悩みか、適応しすぎたために起こるストレスの悩みである。そこいら辺を掴んでしまえば、私にだってたぶん人生相談は出来る。後は語り口の芸があるかどうかである。
自分の話す話は自分が話しているのではなく、神もしくはある普遍的な立場からそう話すように促されているからだ、という雰囲気を作れば、江原啓之になれる。カリスマの語り口とはそういうものだ。授業の語りの下手な私は時々、そういう語り口を学びたいと思う。学生たちを信者に出来たら、授業のアンケートだってトップになれるだろうと思うが、そうはいかない。そういう語り口は、根拠があろうとなかろうと断固とした自信で語らなければならない。私にはそれがない。世の中断定的に語れないことばかりだ、と言う語り口が私の信条だ。やはり、私は江原啓之にはなれない。
魂がめまいする立夏かな
後ろ向きの生き方 ― 2007/05/12 00:38
最近よく忘れることが多い。大事なものをよくなくす。理由は、何処かに置いたりしてそこに置いたことを忘れる、というパターンだ。気がついてあちこち引っかき回すがだいたい出てこない。
一つは性格の問題。几帳面でない性格がこういう事態を懲りずに繰り返させる。それと年齢の問題。集中力や、記憶力の減退は否めない。昨日のことが思い出せないなんてのはまだいいほうだ。今日のことだって思い出せないときがある。それはそれで便利な時もあるが、それが大事なものを無くしたりすることにつながるとやはり落ち込む。
最近宿命というものについて時々考える。文化論として、少数民族の人たちのことを考えるとき、われわれの社会の価値観で把握するには限界がどうしてもある。例えばこれはアジアでよく聴く話だが、モノを壊したとき、そのモノは壊れる運命にあったのだと言う、壊した人間の責任を言わない。こういう発想なら、たぶん、落ち込むと言うことは無いだろうなあと思う。
実存主義はこのような宿命論をどのよう考えるのだろうと思うことがある。実存主義とは、「投企」という言い方であらわすように、存在という意識そのものは常に世界に向かって(前向きに)投げ出すその存在のあり方によって成立する、というもの。
つまり、前向きに自分という存在を得たいの知れない世界に向かって投げだすことが出来ないときは、そこには存在そのものが成立しなくなってしまう。サルトルが「嘔吐」で、前向きに生きられなくなった者が世界に対して突然違和感にとらわれるのを描いたのは有名だ。
しかし、人間は結構前向きでない方が多い。宿命といったものにとらわれて、前向きに生きること自体の空しさを悟る、ということだってある。そういうとき、人間は存在そのものを失うのだろうか。現象学もそうだが、意識自体の成立は、存在が他へ関わろうとする動き自体なしには成立しないという考え方をとる。それはそれでいいと思うが、なにかしっくりこない感じを持つのは、人間はいつもそんなに前向きには生きられないよ、と思うからだ。
脱構築派はラカンもそうだが、意識以前の無意識の段階での、混沌や無秩序をより積極的に(前向きに)評価するというものだが、それは、意識的な秩序の一つの批判や乗り越えであって、それも疲れるという気がする。
前向きの挫折として宿命とかいう生き方があるのだと思わない。あるいは、宿命と言ったとらえ方が、より前向きな思想などとも思わない。ハイデッカーの言う「存在」は、意識を根拠づけるものとしての「気遣い」のようなものを想定するのだから、ある意味で宿命に近い気もするが、それでもやはり前向きだ。
これは宗教と哲学の違いなのだという気もする。宗教は死という絶対性を積極的に受けいれて、生そのものを後ろ向きに把握する。それが宿命なのだとすれば、哲学(西欧)は、死に果敢に挑戦する姿勢で死から遁走しようとする。死とは、意識が向き合う名付けられない世界そのものであって、そこに前向きに向き合うことが意識という名の存在を成立させるとすれば、死にいつも対抗しなければ意識は成立しない。前向きとはここでは死への対抗であるからだ。が、それは、死からの遁走そのものでもある。哲学は背理を背負うのだ。
生を後ろ向きにとらえるということがもっと見直されてもいいのではないかと思う。少なくともそれは、死に対抗しながら遁走するという背理ではない、死を受けいれる素直な生き方である。こういうことを考えるのは歳を取ったからだと思うが、ただ、文化論として、案外こういう考えはあるのではないかと思うのである。
新緑溢れ蟻は死骸を運ぶ
一つは性格の問題。几帳面でない性格がこういう事態を懲りずに繰り返させる。それと年齢の問題。集中力や、記憶力の減退は否めない。昨日のことが思い出せないなんてのはまだいいほうだ。今日のことだって思い出せないときがある。それはそれで便利な時もあるが、それが大事なものを無くしたりすることにつながるとやはり落ち込む。
最近宿命というものについて時々考える。文化論として、少数民族の人たちのことを考えるとき、われわれの社会の価値観で把握するには限界がどうしてもある。例えばこれはアジアでよく聴く話だが、モノを壊したとき、そのモノは壊れる運命にあったのだと言う、壊した人間の責任を言わない。こういう発想なら、たぶん、落ち込むと言うことは無いだろうなあと思う。
実存主義はこのような宿命論をどのよう考えるのだろうと思うことがある。実存主義とは、「投企」という言い方であらわすように、存在という意識そのものは常に世界に向かって(前向きに)投げ出すその存在のあり方によって成立する、というもの。
つまり、前向きに自分という存在を得たいの知れない世界に向かって投げだすことが出来ないときは、そこには存在そのものが成立しなくなってしまう。サルトルが「嘔吐」で、前向きに生きられなくなった者が世界に対して突然違和感にとらわれるのを描いたのは有名だ。
しかし、人間は結構前向きでない方が多い。宿命といったものにとらわれて、前向きに生きること自体の空しさを悟る、ということだってある。そういうとき、人間は存在そのものを失うのだろうか。現象学もそうだが、意識自体の成立は、存在が他へ関わろうとする動き自体なしには成立しないという考え方をとる。それはそれでいいと思うが、なにかしっくりこない感じを持つのは、人間はいつもそんなに前向きには生きられないよ、と思うからだ。
脱構築派はラカンもそうだが、意識以前の無意識の段階での、混沌や無秩序をより積極的に(前向きに)評価するというものだが、それは、意識的な秩序の一つの批判や乗り越えであって、それも疲れるという気がする。
前向きの挫折として宿命とかいう生き方があるのだと思わない。あるいは、宿命と言ったとらえ方が、より前向きな思想などとも思わない。ハイデッカーの言う「存在」は、意識を根拠づけるものとしての「気遣い」のようなものを想定するのだから、ある意味で宿命に近い気もするが、それでもやはり前向きだ。
これは宗教と哲学の違いなのだという気もする。宗教は死という絶対性を積極的に受けいれて、生そのものを後ろ向きに把握する。それが宿命なのだとすれば、哲学(西欧)は、死に果敢に挑戦する姿勢で死から遁走しようとする。死とは、意識が向き合う名付けられない世界そのものであって、そこに前向きに向き合うことが意識という名の存在を成立させるとすれば、死にいつも対抗しなければ意識は成立しない。前向きとはここでは死への対抗であるからだ。が、それは、死からの遁走そのものでもある。哲学は背理を背負うのだ。
生を後ろ向きにとらえるということがもっと見直されてもいいのではないかと思う。少なくともそれは、死に対抗しながら遁走するという背理ではない、死を受けいれる素直な生き方である。こういうことを考えるのは歳を取ったからだと思うが、ただ、文化論として、案外こういう考えはあるのではないかと思うのである。
新緑溢れ蟻は死骸を運ぶ
学会に課外授業に… ― 2007/05/13 23:38
昨日(土)は、アジア民族文化学会の春の大会である。一日忙しかった。朝から準備。看板から、会場の準備、ポスター、受付の準備、運営委員会の手配、弁当、懇親会の手配、大会の司会とだいたい一人でやる。それほど大きい学会でないので、一人でできないことはない。
ただ、時々手が回らなくなるのが困ったものだ。ホームページの更新を委託しているのだが、つい原稿を忘れてしまうので更新が遅れてしまう。それで大会の情報が遅れてしまうこともある。今回もそうだった。
この学会の会員数減で悩んでいる。別にたくさん減っているわけではないが、新会員が増えないので、自然減の人数を補えないのである。つまり、若手が足りないということ。それは広報の問題でもある。それなりに時代の要請に応える学会であるのだから、少し宣伝しなくてはと思っている。
今回の発表は充実していた。三人の発表だったが、二人の若手の発表があり、特に、沖縄のシマクサラシの発表は好評だった。境界に動物の肉をつり下げて災厄を防御する儀礼は、アジア各地に見られるが、沖縄のほとんどの村落にこの儀礼が及んでいてそのバリエーションが豊であることを、今回、宮平盛晃氏の発表で明らかになったのではないか。
懇親会は、近くの中華料理屋。23人というこれまでの中でなかなか盛況な懇親会であった。ところで、私は次の日学生を連れて佐倉の歴博に行くことになっている。例年大会の次の日である。学校を集合にしたために、明日朝来なければならず、それでホテルに泊まることにした。
次の日(今日)は雨が心配だったが、薄曇りというところ。ちょうど神田祭りが始まっていて、御神輿のかけ声が聞こえてくる。集合は日暮里駅だが、行き方の分からない学生がいるので私が神保町から引率していくというわけだ。
この課外授業も長いことやっている。テーマが「遠野物語」なので歴博の民俗学コーナーに連れていって、とりあえず民俗学のビジュアル展示を見せようというのが目的である。
終わると帰りは上野によって食事会なのだが、今回は1年生ということもあって、まだうちとけていないのか、あるいは金がかかるということか、それとも、あの教師との食事会じゃなあ…ということなのか、希望者が少なく取りやめにした。これは初めてである。もつとも、今までは2年生のゼミで、今回初めて一年生である。まだ、入学したばかりだ。距離も何となく縮まらない。仕方ないか。
「しくざの民俗学」というテーマの特別講演があった。講師は知りあいの常光徹氏である。これを聴かせれば良かったなあと思ったが、時間が重なり断念。学生達はそれなりに面白がって展示を見学。ついでに歴史のコーナーも見て回り、疲れて駅に戻った。私も疲れた。なにしろ、月曜から休みがない。考えてみれば五月の土日は全部仕事である。来週の土日は学校の行事、再来週の土は科研の会議で奈良へ行き、日曜は戻って短歌の会での講演。その次の週の土は学会のシンポジウム。やれやれである。
若葉など目もくれぬ乙女らは
ただ、時々手が回らなくなるのが困ったものだ。ホームページの更新を委託しているのだが、つい原稿を忘れてしまうので更新が遅れてしまう。それで大会の情報が遅れてしまうこともある。今回もそうだった。
この学会の会員数減で悩んでいる。別にたくさん減っているわけではないが、新会員が増えないので、自然減の人数を補えないのである。つまり、若手が足りないということ。それは広報の問題でもある。それなりに時代の要請に応える学会であるのだから、少し宣伝しなくてはと思っている。
今回の発表は充実していた。三人の発表だったが、二人の若手の発表があり、特に、沖縄のシマクサラシの発表は好評だった。境界に動物の肉をつり下げて災厄を防御する儀礼は、アジア各地に見られるが、沖縄のほとんどの村落にこの儀礼が及んでいてそのバリエーションが豊であることを、今回、宮平盛晃氏の発表で明らかになったのではないか。
懇親会は、近くの中華料理屋。23人というこれまでの中でなかなか盛況な懇親会であった。ところで、私は次の日学生を連れて佐倉の歴博に行くことになっている。例年大会の次の日である。学校を集合にしたために、明日朝来なければならず、それでホテルに泊まることにした。
次の日(今日)は雨が心配だったが、薄曇りというところ。ちょうど神田祭りが始まっていて、御神輿のかけ声が聞こえてくる。集合は日暮里駅だが、行き方の分からない学生がいるので私が神保町から引率していくというわけだ。
この課外授業も長いことやっている。テーマが「遠野物語」なので歴博の民俗学コーナーに連れていって、とりあえず民俗学のビジュアル展示を見せようというのが目的である。
終わると帰りは上野によって食事会なのだが、今回は1年生ということもあって、まだうちとけていないのか、あるいは金がかかるということか、それとも、あの教師との食事会じゃなあ…ということなのか、希望者が少なく取りやめにした。これは初めてである。もつとも、今までは2年生のゼミで、今回初めて一年生である。まだ、入学したばかりだ。距離も何となく縮まらない。仕方ないか。
「しくざの民俗学」というテーマの特別講演があった。講師は知りあいの常光徹氏である。これを聴かせれば良かったなあと思ったが、時間が重なり断念。学生達はそれなりに面白がって展示を見学。ついでに歴史のコーナーも見て回り、疲れて駅に戻った。私も疲れた。なにしろ、月曜から休みがない。考えてみれば五月の土日は全部仕事である。来週の土日は学校の行事、再来週の土は科研の会議で奈良へ行き、日曜は戻って短歌の会での講演。その次の週の土は学会のシンポジウム。やれやれである。
若葉など目もくれぬ乙女らは
川上弘美『真鶴』を読む ― 2007/05/14 23:57
昨日、佐倉の歴史博物館の往復の電車の中で川上弘美の『真鶴』を読んだ。さすがに文体だけで読ませる人だ。ただ、ちょっと、疲れる小説だ。川上弘美のいいところは、こういう疲れを残さないところだったのだが…。
10年前夫に失踪されてしまった女性の孤独な内面の物語だが、もう一人の自分なのかそれともただの霊なのか、あの世の女との対話を通して物語は進む。疲れるのは、行き場がないということが最初からわかっているジレンマを、ただシチュエーションの奇抜さだけで長引かせている、という印象だからだ。
このシチュエーションは、言わば巫病の心理状態と言っていいだろう。現実の不幸な出来事がきっかけで精神の変調を来した女性のその狂気の様子をたんたんと綴った小説と見ればいい。神ではないが霊と話し始めることで、現実と、乖離した世界との往復がこの小説のシチュエーションである。
読んでいて疲れるのは、この巫病に主人公の女性が耐えてしまうところだ。川上弘美の主人公のいつものように、こちら側なのかあの世なのか煮え切らずに存在する例の調子で耐えるから、この巫病がいつの間にか内面の物語にすぎなくなってしまう。シチュエーションの割にはどこかで読んだ感のある小説になってしまった、というところか。
今日の基礎ゼミナールはいつも苦労する。今日は放送大学の講義のビデオを見てもらいノートをつけさせた。そのノートを回収し、良いノートの例を次に発表し、ノートをつけるテクニックを教えられたらいいと思う。
が、実はテクニックなどはない。要するに理解力だ。全体を見る力であり、ポイントを押さえる力である。授業も本もそうだが、90パーセントは具体例である。残りの10パーセントがその具体例を通して伝えたいポイントということになる。その10パーセントをとらえ、その10パーセントを説明するための90パーセントをどれだけ効率的に短くできるかが、ノートのこつ。実は私はこういうのが苦手である。
私は、ノートをあまりとらずに、その10パーセントは何か、ということだけを聞き漏らすまいと話を聞く。そういうタイプなので、私に出来ないことを学生に教えることは辛いことであるが、テキストに書いてあることなので仕方がない。
ビデオの内容は、千葉県匝瑳郡光町の芸能「鬼来迎」の紹介。講師は三隅治雄。図書館で探したが、私の興味にも合致したので借りてきた。私はこの「鬼来迎」の芸能は知らなかったのでとても面白かった。
五月晴大きな空に犬吠ゆる
10年前夫に失踪されてしまった女性の孤独な内面の物語だが、もう一人の自分なのかそれともただの霊なのか、あの世の女との対話を通して物語は進む。疲れるのは、行き場がないということが最初からわかっているジレンマを、ただシチュエーションの奇抜さだけで長引かせている、という印象だからだ。
このシチュエーションは、言わば巫病の心理状態と言っていいだろう。現実の不幸な出来事がきっかけで精神の変調を来した女性のその狂気の様子をたんたんと綴った小説と見ればいい。神ではないが霊と話し始めることで、現実と、乖離した世界との往復がこの小説のシチュエーションである。
読んでいて疲れるのは、この巫病に主人公の女性が耐えてしまうところだ。川上弘美の主人公のいつものように、こちら側なのかあの世なのか煮え切らずに存在する例の調子で耐えるから、この巫病がいつの間にか内面の物語にすぎなくなってしまう。シチュエーションの割にはどこかで読んだ感のある小説になってしまった、というところか。
今日の基礎ゼミナールはいつも苦労する。今日は放送大学の講義のビデオを見てもらいノートをつけさせた。そのノートを回収し、良いノートの例を次に発表し、ノートをつけるテクニックを教えられたらいいと思う。
が、実はテクニックなどはない。要するに理解力だ。全体を見る力であり、ポイントを押さえる力である。授業も本もそうだが、90パーセントは具体例である。残りの10パーセントがその具体例を通して伝えたいポイントということになる。その10パーセントをとらえ、その10パーセントを説明するための90パーセントをどれだけ効率的に短くできるかが、ノートのこつ。実は私はこういうのが苦手である。
私は、ノートをあまりとらずに、その10パーセントは何か、ということだけを聞き漏らすまいと話を聞く。そういうタイプなので、私に出来ないことを学生に教えることは辛いことであるが、テキストに書いてあることなので仕方がない。
ビデオの内容は、千葉県匝瑳郡光町の芸能「鬼来迎」の紹介。講師は三隅治雄。図書館で探したが、私の興味にも合致したので借りてきた。私はこの「鬼来迎」の芸能は知らなかったのでとても面白かった。
五月晴大きな空に犬吠ゆる
明日は何が起きるか ― 2007/05/16 01:20
麻疹が流行っている。私の大学でも何人か罹った学生が出たが、今のところ校外での感染らしく様子を見守っている。上智大学では10人の罹患者がでたので全学休講になったそうだ。個人的には疲れているので休講にしてほしい気がするが、まあそういうわけにもいかないだろう。早く鎮まるのを待つしかないようだ。
今日は会議日で、朝から夕方まで続いた。帰るとチビが玄関まで飛び出してきた。珍しい。いつもクールで私が帰ってもちらと顔をあげるだけで、それで終わりだ。何とも無愛想なのだが、今日は様子が違った。そろそろ変化し始めたのかなとは思うが、たんなる気まぐれだったのかも知れない。
世の中変な事件ばかりだ。昨日は、毎日新聞社のビルとうちの大学の間の水路から人間の足が出てきて大騒ぎになった。今日は高校生が母親を殺して頭部をバックに詰めて警察に自首する。明日は何が起きるのだろう。
今日の朝日新聞の「人脈」欄に奈良の万葉文化館が載っていて、中西進や上野誠のことが出ていた。上野君の万葉恋歌の超訳も載っていて、いい宣伝になったのではないか。超訳は授業でも使わせていただいた。なかなか面白く学生の反応もよかった。
実は、26日に奈良の万葉文化館で会議がある。万葉の研究のための会議だが、研究テーマを考えて持っていかなければならない。頭が痛い。ここのところ、雑務と授業だけで過ごしていたのに、そうは行かなくなってきた。そういえば27日は東京で短歌の講演をしなくちゃいけない。万葉集の心物対応構造についてしゃべろうと思っているが、これも準備をしなきゃ。
ハナミズキ咲く明解に論理的に
今日は会議日で、朝から夕方まで続いた。帰るとチビが玄関まで飛び出してきた。珍しい。いつもクールで私が帰ってもちらと顔をあげるだけで、それで終わりだ。何とも無愛想なのだが、今日は様子が違った。そろそろ変化し始めたのかなとは思うが、たんなる気まぐれだったのかも知れない。
世の中変な事件ばかりだ。昨日は、毎日新聞社のビルとうちの大学の間の水路から人間の足が出てきて大騒ぎになった。今日は高校生が母親を殺して頭部をバックに詰めて警察に自首する。明日は何が起きるのだろう。
今日の朝日新聞の「人脈」欄に奈良の万葉文化館が載っていて、中西進や上野誠のことが出ていた。上野君の万葉恋歌の超訳も載っていて、いい宣伝になったのではないか。超訳は授業でも使わせていただいた。なかなか面白く学生の反応もよかった。
実は、26日に奈良の万葉文化館で会議がある。万葉の研究のための会議だが、研究テーマを考えて持っていかなければならない。頭が痛い。ここのところ、雑務と授業だけで過ごしていたのに、そうは行かなくなってきた。そういえば27日は東京で短歌の講演をしなくちゃいけない。万葉集の心物対応構造についてしゃべろうと思っているが、これも準備をしなきゃ。
ハナミズキ咲く明解に論理的に
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