様子見の危機管理2011/03/19 13:45

 福島原発事故で、当初、冷却に海水を入れろという管首相の打診に東電は断ったと伝えられている。海水を入れると廃炉になるからで、東電としては、最初の段階で経済的損失を抑えることを危機管理より優先していた、ということがわかる。だが、次第に冷却が不可能な事態に海水を入れることを決断する。そのことで、対応が後手後手になっている、と批判されている。東電の危機管理に何も言えなかった政府にも当然責任があろう。

 東電の対応は、災害に直面したときにすぐに逃げないで、貴重品をなるべく持って逃げようとして逃げ遅れる、というのと良く似ている。避難訓練の原則は地震が来たら即逃げることで、それで大勢の人が助かっている。つまり、東電はこのような訓練をやっていなかったということになる。住民の原発不安を打ち消すために自ら作り出した安全神話に逆に縛られてしまったということだ。訓練をすれば必ずしも安全でないことを伝えてしまうからだ。だから、地震が来たときに最悪を考えて行動する原則対応が出来なかった。廃炉になることの経済的損失にとらわれてしまい、危機を増大させてしまったのだ。

 アメリカは日本の対応にいらだっているという報道がある。情報が一元化されていないし、対応も生ぬるいということのようだ。アメリカのメディアは、水素爆発が起きたときに、東電が原発から職員を避難させたという記事について、通訳のミスではないかと、書いていた。アメリカでは、そういう時こそ国民のために現場は自分を犠牲にしてでも留まる、という精神論が当然な国である、ということだ。

 日本にそういう精神がないとは思わない。現に、現場の人たちはそういう精神でがんばっているだろう。たぶん、この違いは、危機感の違いのように思われる。この原発事故について、海外の方がかなりの危機感を持っていて、東電はどうもそれほどではない。たぶん、アメリカは最悪を予想してそれを防ぐ行動モデル通りに動こうとしている。日本は、そういう危機管理モデルを持っていない。最悪になるかどうかは様子を見ないとわからない、とりあえず、今できることをやってみて様子を見ようと、いうのが基本的な危機管理モデルのようである。

 この違いの理由は、危機管理に対して、当事者の責任を問う社会とそれほどの責任が問われない社会の違いが一つにはある。アメリカが過敏なのは、最悪を想定して行動すれば、責任は問われない。もし、最悪を想定せずに行動して最悪になったら、大統領もみんな責任を問われる。日本は、そもそも誰が責任者かよくわからない。だから、誰かが最悪を想定して直言しても、だれかがまだ大丈夫と言えば、すぐに引っ込めてしまう。今度もそうだったようだ。

 アメリカの80キロ圏内避難勧告はそういう危機管理の考えから来ている。問題は日本だが、東電の情報を信ずればそれほどの事態ではない。が、本当のところはどうなのか、危険度が良くわからない、というのが大方の見方であろう。テレビでも専門家が出て来て、原発の構造や現在起きていることを何度も何度も繰り返し説明しているが、決して踏み込んだ発言をしない。だから、メディアも何度も同じ事を聞く。

 これは、最悪を想定して動くという危機管理モデルが我々にないことをあらわしている。つまり、様子見なのである。その意味で、東電も曖昧な情報を流しているわけではない。基本は様子見である。明日になってみないと最悪になるかどうかはわからない、というのが基本スタンスである。アメリカはこれにいらだっているのだ。

 危機管理としてはアメリカのようにやるべきなのだろう。ただ、最悪想定の根拠というものもある。様子見でも大丈夫な根拠があるなら、様子見でもよいだろうが、そこのところの情報がない。今みんないらだっているのは、その情報が伝わってこないということにあると思う。

素人じゃないかも2011/03/22 01:27

 今日東京に戻る。三連休の最終日だというのに、高速はがらがらである。やはりガソリンが買えないというのが、響いているようだ。長野は東京よりはガソリンが買えるので、東京に帰る分のガソリンを確保できた。

 帰ってから外食しようということになつた。外食は、節電効果と経済効果の両方があるので、勧めている経済評論家がいる。それでというわけではないが、近くのファミレスに行った、満員であった。

 私のマンションの隣の部屋が空いていた。音楽家が先月引っ越ししたのだが、マンションのコミュニティボード(白板)、に、今度越してきます某です、と書き込まれていた。今度の花見には参加します、と書いてある。花見は4月2日で、その人は引っ越し日は未定とある。つまり、引っ越しはまだだがマンションの花見には参加する、と書いてあるのだ。この人素人じゃない、と奥さんが言った。どういう意味の素人なんだ、と思ったが、要するに、このマンションの内情をよく知っている人なのではないか、ということだ。いきなりはじめての人が、引っ越す前から花見に参加するとホワイトボードに書き込みしないだろう。実はそのホワイトボードには、花見はいつにしますかという掲示があって、住人が希望の日にちに○を付けるようになっている。それを見たとしても、そこまで書き込みするのはやっぱり素人さんじゃ無いかも知れない。

 <福島第1原発>英雄でも何でもない…交代で懸命の復旧作業 (毎日新聞 - 03月21日 13:53) http://mixi.at/a5brlv0毎日新聞、という記事がある。当初は、日本のメディアは現場で懸命に働く作業員を英雄などといって取り上げなかったのだが、この二、三日、あちこちで英雄という見出しが飛び交い、テレビでもさかんに英雄的行為として報道されるようになった。テレビに、消防署の放水部隊の隊長が生出演して現場の様子を語っていて、司会者は、英雄的行為に感謝しますと頭を下げている。都知事などは、放水に参加した東京都のレスキュー隊の前で涙を流していた。

 ところが、現場の作業員は、自分たちはきちんとした危機管理のもとで交代しながら作業しており、英雄でも何でもないと語っている。むろん、命の危険を伴う作業だから、それなりの覚悟もいるだろうし、普段の仕事と同じというわけにはいかないだろう。でも、別に国のために自分の命を投げ出すといった、そんな英雄的行為で仕事をしているわけではないだろう。危険であろうとなかろうとそれが自分の仕事だからというプロフェッショナルな姿勢で働いている、ということではないか。冒頭の記事はそのような現場の人たちの姿勢を伝えている。

 メディアが英雄、英雄、と突然のように騒ぎはじめたのは、わからないではない。素直に見ればやはり彼らの仕事には頭が下がる。が、別な見方をすれば、美談として物語化したい、というマスコミの戦略もあろうし、政治家は、政治的パフォーマンスとしての計算があるだろう。が、今のところ、危険がないような配慮のもとで仕事をしている、ということであるので、あまり英雄視するのは、むしろ、現場にとっては過剰な反応と言えるのではないか。

 現場で働いている人には、下請けの下請けといった弱い立場の会社の作業員もいる。彼らは、将来の仕事を失わないために働いている。命がけで働いている人にはそういう人もいるのである。生活のためにこういう現場で働かなければならない人もいるということだ。英雄ということばで美化することで、彼らの安全に対する配慮がおろそかになれば、むしろその方が問題である。その意味で、毎日新聞の記事は、英雄ばかり飛び交うマスコミのなかで、なかなか冷静に現場の状況を伝えていて評価出来る。

行って帰る2011/03/22 23:37

 論文を書き始めたがあまり進まず。それで大塚英志の『ストーリーメーカー』(アスキー新書)を読む。ほぼ読了。さらに続編の『物語の命題』(アスキー新書)を半分ほど読む。これらは、大塚英志が大学の授業で、物語というのは構造そのものだから、幾つかの定型的なプロット通りに展開していけば、とりあえず誰にでも物語は作れる、ということで、実際に学生に型を示して物語を作らせるという、そういう内容の本である。

 物語の定型的プロットは、ウラジミール・プロップの「昔話の形態学」をアレンジしたもの。31のプロットがあり、そのプロットに指示されたコメント通りに、学生が物語の筋を作っていけば、一つの作品が生まれる。付録として、31のプロットが空欄の囲みでとともに提示されていて、そこに書き込めばいいようになっている。

 『物語の命題』は、構造やプロットの型を示しても実際は物語は作れない。そこで、テーマをどう作るかという内容で、これも神話以来の物語の構造から幾つかの普遍的なテーマを用意して、そのテーマに沿って自分の物語を展開すれば良いというアドバイスの本になっている。つまり、物語創作というのは、物語理論やモデルに沿って作ってみようという実験を実践しようという本である。いかにも大塚英志的で面白いが、実は、面白いのは、そういう試みよりも、それなりに日本のアニメや文学批評になっているところである。

 物語創作の試みは、私も授業に使えそうである。まあ、それで読んでいるのだが。大塚英志は物語の最もシンプルな構造は「行って帰る」物語だと言う。例えば、日常の世界の主人公が異界に行って帰ってくる、というのが基本パターンだということだ。主人公が、異人であればその逆になる。例えば、かぐや姫は、異界の女がこの世にやってきて帰る、という構造である。

 何故、行くのか。ここはプロップの昔話の機能の分類に従う。欠落を埋めるためである。主人公には必ず何かが欠けている。それを埋めるために旅(冒険)に出なくてはならない。その行き先は、向こう側の世界であり、そこには敵対者がいる。呪物や援助者によってその困難を克服して帰還する。が、その帰還にも試練がある。偽者が主人公になりすまし、成果を奪おうとする。が、その偽物を倒して主人公は帰還できる。というのがこのプロットのだいたいの展開である。

 私は、授業で、物語とは「この世と異界とが重なりあう異常な事態が正常な状態へと回復していくプロセス」なのだと語っている。これもまた「行って帰ってくる」ことである。わかりやすい例で言えば「千と千尋の神隠し」がそうだ。恋愛だったある意味ではそうだ。恋愛している時は男女は正常では無い。つまり「行く」ことである。が、人間はどこかで正常な状態、つまり、日常の秩序に生きること、に立ち戻らなければならない。結婚か、失恋か、それが帰ること。恋愛物語は「行って帰る」物語である。

 さて、プロットはわかるがどういうストーリーを作ればいいのか誰でも悩む。私の定義で言えば、日常と非日常がふと交じり合ってしまう状況を作ること、ということになる。大塚英志は、例えばその代表的プロットが「転校生」だという。萩尾望都の「トーマの心臓」も「時をかける少女」も「エヴアンゲリオン」も転校生がやってくるところから始まる。これだけではない。転校生は、日本の、マンガやアニメの象徴的な定番とも言える始まり方であるが、これは、内と外の世界が交じり合うことのきっかけであって、まさに「行って帰る」物語の始まりにふさわしいのである。

 構造的に理解したからと言っても良い物語が作れるわけではない。ただ、こういう定型は、私たちの無意識を制御しながらつかむ一つの方法でもあろう。シャーマンのように、憑依してことばを紡ぎ出すようにはいかないとしても、そのことばの世界を形には出来る。中上健次は晩年、このようなプロットを意識して劇画の原作を書いていて、そのストーリーを大塚英志が紹介している。考えて見れば、語り手というのは、このプロットを身体に刻み込んでしまった人であって、自在に、物語、つまり、構造化された無意識のそのものを披露できる者のことであろう。中上はそんな存在になりたかったのかも知れない。  

     無常三月物語るまえに潰えぬ

新学期の延期2011/03/24 23:15

23日は会議で出校。会議の内容は新学期のオリエンテーションや入学式をどうするかであった。他大学の例では、延期するところが多い。早稲田は5月6日から授業開始だという。一ヶ月遅れで始まる、というわけである。15回の授業をしなければならないとすると、夏休みが無くなるのではと思うが、早稲田が夏休みをなくす訳はないだろう。

 例年通りに新学期を開始するのは無理だろう。私どもの学科の学生で福島の実家に帰っている学生がいるが、オリエンテーションには来られない、履修登録どうしたらいいか、という連絡があった。また、ネィテブの英語の非常勤の先生が、突然、4月に東京には行けない、国の方針なのでと連絡してきて、結局非常勤のコマをキャンセルしてきた。外国人の先生で、四月から授業が出来ないという先生も何人かいるらしい。故国に戻っていて、日本は危ないというので帰ってこれないということだ。さあ、そのコマをどうするか、時間割担当の先生は頭が痛い。

 会議で検討した結果、二週間授業の開始を遅らすことにした。授業は4月25日から始まる。その代わり、五月の連休は授業日とする、つまり、ゴールデンウィークは今年は無いということだ。これで、何とか、八月にずれ込むことは避けられるということだ。夏は、かなりの電力不足で、冷房がいれられるかどうかわからない。そういう状況では、授業は無理だろうという判断もある。

 ということで、思わぬ形で、春季の休暇(本当は休暇では無く職免措置と言う)が伸びることになった。といっても、私の場合は会議がけっこうあるので出校しなくてはならないのだが。授業の準備にいろいろ本など読んでいるのだが、なかなかはかどらない。授業開始が遅れたことはその意味でありがたい。

 被災地のニュースは見ているのが辛いが、出来ることは、今のところ義援金を寄付することくらいかなと思う。ただ、寄付というのも扱っているところがたくさんあって、中には怪しいのもある。そこで提案だが、税務署が乗り出して、一種の自己申告税のような形にして集めたらどうか。効率がいいし、税務署は金を集めるプロだから、かなり集まるのではないか。ただ、それだと、善意という寄付者の気持ちが損なわれるおそれがある。結局目的増税と同じではないかという声もあるだろう。それでもいいのではないか。国民がみんなで少しずつ負担していかないと、どのみち、この災害からの復興はあり得ない。国債を発行して多額の借金を作って、国民全員が将来困り果てるよりは、今、きちんとみんなが、出せる人はたくさん出せるような形で、多額寄付者は納税者は表彰してもいい、そういうことが必要ではないだろうか。

 あと思ったのだが、山小屋のある茅野の観光地には倒産したホテルや旅館がたくさんある。夜見ると、全部明かりが消えているのでよくわかる。全国のそういった使われていないホテルや旅館を、政府なり自治体が借りて、数ヶ月でいいから、避難所にいる人をそこに住まわせたらどうか。かなりの人数が収容できると思うのだが。

 いろいろ思いつくことはある。みなさんいろんな知恵を出して何とかしようと努力していると思う。とりあえず私は考えたことをこんな形で語ることしか出来ない。学校でも、義援金の寄付を受け付ける窓口を一本化できないか検討しているところだ。卒業パーティや送別会が中止になってしまったが、そのために払い込んだ会費がある。そのお金は義援金にしようと考えている。そのように考えている卒業生も多いようだ。

物語の制御2011/03/27 01:43

 まだ寒いがしだれ桜は少し咲き始めた。こんな災害があっても、桜は咲く。なんとなく救われる。自然は残酷だが、一方で人間を癒やす。

 25日は一日会議であった。新学期が延長になったことや、それでも準備は進めなければならないのでその打ち合わせなど会議が続いた。本来なら26日から在学生のオリエンテーションが始まる。

 久しぶりに先生方と顔を合わせ、地震後の様子を聞くことが出来た。岩手出身の同僚の実家は庭先まで水がきたそうである。親は無事であったそうで、聞いたこちらもほっとした。今年度で、つまり今月いっぱいでということだが、退職する助手さんや先生の挨拶があった。入試後、合格者で手続きした人数の報告があり、その結果、わが学科はどうにか定員を少しばかり上回りそうだということだった。定員割れを心配していたが、そうならなくてこちらもほっとした。ことし新しく開設する「アニメの物語学」が少しは人数確保に役立ったという声もある。そうだとしたらこの講座を担当する私の責任は大である。だが、短大のもう一つの学科が定員割れを起こしていて、こちらが心配である。また、改革の話が出てくるだろう。そうなると私の雑務がかなり増える。何よりもそれが心配である。

 この三日ほどで大塚英志の本を二冊読了。『物語の命題』(アスキー新書)『物語消滅論』(角川oneテーマ21)である。それから、今日、野村泫『グリム童話』(ちくま学芸文庫)を再読。授業の準備だが、サブカルチャー系の物語論は、ほとんど押さえたと思う。直接そのことを授業で教えるというわけではないが、やはり日本のアニメを解説していくのに、サブカルチャー物語論は知ってないとまずいだろうと、かなり勉強した。

 大塚英志『物語消滅論』は、物語的な因果律が、今世界を認識する書式になってしまっている。それは危ないことだから、近代的な方法論がもう一度復権しなくていけない、という内容である。大塚英志のもう一度近代を!という主張はおなじみだが、この物語論は、
物語論とのからみでそのことをわかりやすく語っている。

 つまり、ポストモダン以降、近代の象徴だったイデオロギーが衰退すると、物語(大塚は説話論的というが)論的な因果律が表に出てきて、世界認識を支配する。ブッシュの思考などは、善/悪の単純な二元論であって、あのような単純さは物語の因果律そのものだというのである。つまり、人間の知的な営為の結果としての観念的な回路を経ずに、無意識に醸成された型に沿って人々は政治や社会を操作しはじめたのであり、これはかなり危険であるから、観念的な営為としての近代的思考を危機管理として復権しろ、というのである。

 物語論的な因果律の危険さとは、例えば、野村滋『グリム童話』で紹介しているようなことだろうか。第二次世界大戦後、ナチズムを生んだドイツ人の残酷さは、『グリム童話』の残酷さによって培われたからだ、という説が西ドイツのジャーナリズムを賑わしたという。童話はある意味で残酷である。物語の型に沿って簡単に人が死ぬ。言わばそこに、心や、他者との関係によってストーリーの型が壊れてしまうような複雑さはない。この世とあの世、良いおじいさんと悪いおじいさん、神と人間といった型を繰り返すだけである。例えば、オウムの麻原もほとんど物語的な因果律に沿って思考し、そこに若者達がはまっていった、と大塚は言う。

 物語研究者である大塚は、一方で、物語論的因果律は極めなければならないが、同時に、近代の文芸批評も必要なのだという。物語は否定出来るものではない。が、それをイデオロギーの代替にしてしまうことを避けるために、近代的批評は必要だというのである。

 この主張はわかる面もある。ただ、ほとんにそうかなというところもある。20世紀の悲惨な戦争やイデオロギーによる粛正は、いったいなんだったのだろう。あれは、近代の必然ではなかったのか。ポストモダン以降、大塚の言うように説話論的な因果律によって世界は動き始めたのかどうか。近代的批評の必要性についてはその通りだとは思うが、説話論的思考がに公的世界の書式になっている、という前提の建て方は、やや、強引すぎる気がしないではない。むしろ、近代であろうがなかろうがなっているところではなっている、ということではないか。近代とは、物語的思考を組み込みながら成立している、ということである。近代の国民国家は、何も、物語的因果律で生きた共同体を排除して成立したわけではない。そういった意味での近代の評価の仕方の問題が、ポストモダン以降のとらえ方に跳ね返っている、という気がするのである。

 大塚英志は押井守を余り評価しない。物語としてつまらないからだということらしい。「イノセント」をつまらないと酷評している。が、押井守は、物語的因果律に何とか絡め取られまいと苦闘しているところがある。物語を逃れる物語を作る、ということである。「ビューティフルドリーマー」「攻殻機動隊」では成功したが、それ以降はうまくいっていない。つまり、物語として面白くない。大塚の戦略は、物語的な物語を追求して、その暴走を近代的な批評が制御すればいいという方法である。が、物語内部に物語を脱構築させるくふうはないのか、とするのが押井守、と言っていい。が、この方法はなかなか難しい。資本主義というな大きな物語の手の上からは飛び出せないという限界によって、物語として大衆(消費者)を動員出来なくては、その試みそのものが成立しないからである。

 この問題は、宮崎駿と高畑勲の関係についても言えそうである。宮崎駿は典型的な物語の因果律(型)を踏まえてアニメを作る。だから面白い。が、その型の持つ危険性に敏感であって、その制御として、近代的な一種のイデオロギーを持ち込んだ。それが、環境問題であり、近代から捉えたアニミズムである。一方、高畑はそういう物語論的なストーリーも近代的なイデオロギーも嫌いである。彼は、むしろ、説話論的因果律に適したアニメを使って、リアリズムのストーリーを描こうとする。ある意味では、型としての物語を避ける工夫だが、そのために物語のダイナミズムや面白さを失うことになる。

 このように考えていくと、大塚英志と宮崎駿は良く似ていると思う。大塚が宮崎アニメを悪く言わないのはさもありなんというところである。

                        地割れて天を仰ぎつ初桜

『七五調のアジア』の取材をうける2011/03/29 01:05

 実は震災前に読売新聞の取材を受けていた。『七五調のアジア』に興味を持った記者が紹介のコラムを書きたいというのである。ありがたい話でさっそく取材に応じた。書評コーナーではなく、短歌俳句のコーナーで、定型詩に関わるトピックをコラムに紹介するということである。

 私たちも、この本を企画するにあたって、特に短歌の歌人たちに広く読んで欲しいとという想いがあって『七五調のアジア』と題名をつけたので、一応その想いは届いたということになる。取材を受けて、写真まで撮っていただいて、掲載を待っていたら、今度の大震災である。新聞社もそれどころではなくなってしまったと思う。

 ところが、先日、うまく行けば30日の夕刊に載るかもしれないという連絡が入った。やはり、震災があったので、内容も少し練り直したようである。そこで電話でいろいろやりとりをしたのだが、私は、本の中のある文章を紹介した。それは、手塚恵子の論の冒頭にある文章である。

 それはチュアン族の話で、洪水にあって自分の家が流されていくのを見ていた男が、その家に向かって歌いかけた、というのである。ただそれだけの短い話だが、歌の持っている力といったものを認識させる話である。おそらく、読売新聞のコラムにはこのエピソードが入っているに違いない。

 秋のシンポジウムで、環境と文化といったテーマを考えていたが、この震災で見直しが迫られそうである。こういったテーマをたてるとき、自然に対して人間はどのように自らを律して自然と開発とのバランスを保つか、とまずは前提をたてる。この前提がなければ、こういったテーマは文学や歴史資料の渉猟に終わってしまうような、ただの興味本位になってしまう。だが、ここまで自然の破壊力を体験してしまうと、自然とのバランスを保つなどいうテーマはリアリズムを失ってしまう。とかいって、これは自然の側からの人間への罰だ、などというとらえ方は石原都知事と同じで不謹慎である。

 この大震災によって、自然と人間といういテーマが、われわれの手に負えないほどのリアリズムを帯びてしまった。よほどの覚悟がないととてもシンポジウムのテーマにすることは難しいと思う。かといって、だから止めよう、というのも、逆にこの問題に目を背けることになろう。真摯に向き合うことがむしろ求められている。

 今度の災害は私たちの学問にもいろんな意味で大きなインパクトを与えているのである。

『七五調のアジア』紹介される2011/03/30 23:37

 今日は暖かく、桜も咲き始めたようだ。近所にビール坂というところがある。今は大きなマンションがたっているが、元はビール工場があったところで、その名残が坂の地名に残っている。その坂にはしだれ桜が何本か植えてあり、今満開である。この坂上からは富士山がよく見える。ちょうど夕日が富士の近くに沈むので、写真の撮影ポイントになっている。チビの散歩にもよくここを通る。

 今日の読売の夕刊に『七五調のアジア』の紹介が出ていた。短歌のコーナーは、福島泰樹である。俳句は島田牙城。共通の題で、それぞれ短歌と俳句を寄稿している。題は「叫ぶ」。実は、この題は震災前に決めたということである。が、今になってみれば、この題は痛いほど時宜を得たものになった。ちなみに福島泰樹の第一首は「わたなかを漂流しゆくたましいのかなしみふかく哭きわたるべし」である。

 『七五調のアジア』の紹介文の見出しは「七五調の源流は長江流域」とある。これは、やや踏み込んだ解釈。読売の側が考えた見出しである。文章の中で私が述べているのは「歌文化のかなりの部分は長江流域」といっているので、「七五調」とまではいっていない。が、新聞の見出しにはこういう踏み込みはよくあること。

 「七五調」の一源流に歌の掛け合いがある、ということは言える。歌の掛け合い文化のかなりの部分は長江流域の稲作文化と重なる、というところまでは確認出来る。これを縮めれば、見出しの文になるわけである。むろん、厳密に言えば、最初から「七五調」だったのかどうかはわからない。ただ、何らかの定型的な韻律があったであろうことは想定出来る。

 冒頭の文章に、洪水で流されて行く家に向かって歌を歌う男の話が紹介されている。短い文章ながらなかなかよくまとめてくれた。個々の論はなかなか難しいのだが、日本の短歌文化とアジアとのかかわりについて関心を持つ人には必読の本である。広く読まれることを願う。
むこうでは花の下にて鎮まるや