物語の制御2011/03/27 01:43

 まだ寒いがしだれ桜は少し咲き始めた。こんな災害があっても、桜は咲く。なんとなく救われる。自然は残酷だが、一方で人間を癒やす。

 25日は一日会議であった。新学期が延長になったことや、それでも準備は進めなければならないのでその打ち合わせなど会議が続いた。本来なら26日から在学生のオリエンテーションが始まる。

 久しぶりに先生方と顔を合わせ、地震後の様子を聞くことが出来た。岩手出身の同僚の実家は庭先まで水がきたそうである。親は無事であったそうで、聞いたこちらもほっとした。今年度で、つまり今月いっぱいでということだが、退職する助手さんや先生の挨拶があった。入試後、合格者で手続きした人数の報告があり、その結果、わが学科はどうにか定員を少しばかり上回りそうだということだった。定員割れを心配していたが、そうならなくてこちらもほっとした。ことし新しく開設する「アニメの物語学」が少しは人数確保に役立ったという声もある。そうだとしたらこの講座を担当する私の責任は大である。だが、短大のもう一つの学科が定員割れを起こしていて、こちらが心配である。また、改革の話が出てくるだろう。そうなると私の雑務がかなり増える。何よりもそれが心配である。

 この三日ほどで大塚英志の本を二冊読了。『物語の命題』(アスキー新書)『物語消滅論』(角川oneテーマ21)である。それから、今日、野村泫『グリム童話』(ちくま学芸文庫)を再読。授業の準備だが、サブカルチャー系の物語論は、ほとんど押さえたと思う。直接そのことを授業で教えるというわけではないが、やはり日本のアニメを解説していくのに、サブカルチャー物語論は知ってないとまずいだろうと、かなり勉強した。

 大塚英志『物語消滅論』は、物語的な因果律が、今世界を認識する書式になってしまっている。それは危ないことだから、近代的な方法論がもう一度復権しなくていけない、という内容である。大塚英志のもう一度近代を!という主張はおなじみだが、この物語論は、
物語論とのからみでそのことをわかりやすく語っている。

 つまり、ポストモダン以降、近代の象徴だったイデオロギーが衰退すると、物語(大塚は説話論的というが)論的な因果律が表に出てきて、世界認識を支配する。ブッシュの思考などは、善/悪の単純な二元論であって、あのような単純さは物語の因果律そのものだというのである。つまり、人間の知的な営為の結果としての観念的な回路を経ずに、無意識に醸成された型に沿って人々は政治や社会を操作しはじめたのであり、これはかなり危険であるから、観念的な営為としての近代的思考を危機管理として復権しろ、というのである。

 物語論的な因果律の危険さとは、例えば、野村滋『グリム童話』で紹介しているようなことだろうか。第二次世界大戦後、ナチズムを生んだドイツ人の残酷さは、『グリム童話』の残酷さによって培われたからだ、という説が西ドイツのジャーナリズムを賑わしたという。童話はある意味で残酷である。物語の型に沿って簡単に人が死ぬ。言わばそこに、心や、他者との関係によってストーリーの型が壊れてしまうような複雑さはない。この世とあの世、良いおじいさんと悪いおじいさん、神と人間といった型を繰り返すだけである。例えば、オウムの麻原もほとんど物語的な因果律に沿って思考し、そこに若者達がはまっていった、と大塚は言う。

 物語研究者である大塚は、一方で、物語論的因果律は極めなければならないが、同時に、近代の文芸批評も必要なのだという。物語は否定出来るものではない。が、それをイデオロギーの代替にしてしまうことを避けるために、近代的批評は必要だというのである。

 この主張はわかる面もある。ただ、ほとんにそうかなというところもある。20世紀の悲惨な戦争やイデオロギーによる粛正は、いったいなんだったのだろう。あれは、近代の必然ではなかったのか。ポストモダン以降、大塚の言うように説話論的な因果律によって世界は動き始めたのかどうか。近代的批評の必要性についてはその通りだとは思うが、説話論的思考がに公的世界の書式になっている、という前提の建て方は、やや、強引すぎる気がしないではない。むしろ、近代であろうがなかろうがなっているところではなっている、ということではないか。近代とは、物語的思考を組み込みながら成立している、ということである。近代の国民国家は、何も、物語的因果律で生きた共同体を排除して成立したわけではない。そういった意味での近代の評価の仕方の問題が、ポストモダン以降のとらえ方に跳ね返っている、という気がするのである。

 大塚英志は押井守を余り評価しない。物語としてつまらないからだということらしい。「イノセント」をつまらないと酷評している。が、押井守は、物語的因果律に何とか絡め取られまいと苦闘しているところがある。物語を逃れる物語を作る、ということである。「ビューティフルドリーマー」「攻殻機動隊」では成功したが、それ以降はうまくいっていない。つまり、物語として面白くない。大塚の戦略は、物語的な物語を追求して、その暴走を近代的な批評が制御すればいいという方法である。が、物語内部に物語を脱構築させるくふうはないのか、とするのが押井守、と言っていい。が、この方法はなかなか難しい。資本主義というな大きな物語の手の上からは飛び出せないという限界によって、物語として大衆(消費者)を動員出来なくては、その試みそのものが成立しないからである。

 この問題は、宮崎駿と高畑勲の関係についても言えそうである。宮崎駿は典型的な物語の因果律(型)を踏まえてアニメを作る。だから面白い。が、その型の持つ危険性に敏感であって、その制御として、近代的な一種のイデオロギーを持ち込んだ。それが、環境問題であり、近代から捉えたアニミズムである。一方、高畑はそういう物語論的なストーリーも近代的なイデオロギーも嫌いである。彼は、むしろ、説話論的因果律に適したアニメを使って、リアリズムのストーリーを描こうとする。ある意味では、型としての物語を避ける工夫だが、そのために物語のダイナミズムや面白さを失うことになる。

 このように考えていくと、大塚英志と宮崎駿は良く似ていると思う。大塚が宮崎アニメを悪く言わないのはさもありなんというところである。

                        地割れて天を仰ぎつ初桜