終わりなき日常が…2011/04/02 16:09

 マンションの庭の桜も日々花の数を増やしている。明日はマンションのささやかな花見だが、なんとか五分咲きくらいにはなって欲しい。ただ、気温が下がるということで、肌寒い花見になりそうだ。

 短歌時評の原稿を何とか間に合わせて送る。この時期だけに、時評を書くのはつらい。とりあえず、大震災と歌のことばというテーマで書いた。材料としては、読売夕刊(3月30日)の福島泰樹と島田牙城の短歌と俳句について少し触れた。福島泰樹の歌は、挽歌そのものでわかりやすい。が島田牙城の句は難しい。「目を開けてゐるのに見えてゐる桜」という句がある。目を開けているなら見えているはずだが、そうではない。見えていないのでもない。意味通りとれば、意味が通らない。が、なんとなくわかる気はする。

 あまり詮索するような解釈は避け、私は天智挽歌の「青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも」を重ねてみた。重ねるとわかるのではないか、という位の解釈にとどめた。あまり、解釈しすぎるとつまらなくなる気がするので。

 二週間新学期が延びたが、少しも暇では無い。五月に開く学会の大会の準備があって、ポスターを注文し、雑誌や大会案内の発送もしなくてはならない。非常勤で某大学の大学院の授業をやることになったが、大学院は、通常通りの授業開始だという。つまり、こっちはもうすぐ授業が始まるというわけだ。

 知り合いと雑談で、彼がふとこれで日本は時代の節目になるのだろうかと語ったが、たぶんそうなるだろう。以後、大震災以前と以後という時代区分が、様々な分野で語られはじめるだろう。朝日の論壇時評(3月31日)で東浩紀が「終わりなき日常」は突然断ち切られた、と書いている。「終わりなき日常」とは、ポストモダン以降の、おたく文化を生み出した時代状況の括り方である。

 終わらない日常を前提として、人々は、妄想や虚構の物語に浸った。それが、日本のサブカルチャー文化を支えた。が、その終わらない筈の日常が突然非日常に暗転してしまった。今の現実の方が悪夢なのである。東浩紀の言う「ゲーム的リアリズム」のリアリズムは、現実のリアリズムの前で完全に色あせたのである。これから、日本のサブカルチャーはどうなるのだろう。授業で、アニメ論を展開しようと勉強していた私としても、ちょっと、授業をやりづらくなった。

 文学という、虚構を糧とする文化は、堅固な日常があってこそ栄えるのだ、ということがよくわかる。文学研究を飯のタネとする私にとって、今は厳しい時である。が、そんなことは言っていられない。被災者が早く復興して日常を取り戻せるよう、私なりに努力していくしかない。

                こんな時にでも笑う子がいる春

恒例の花見2011/04/06 00:36

 マンションの庭の桜は満開になってきた。野川沿いの桜はまだ二分咲きといったところ。日曜日は寒かった。でも、恒例ということでマンションの住人が集まり花見。厚着して防寒対策をしながらのささやかな花見である。

 今度引っ越してくる人予定の住人が花見に参加した。まだ若い人である。みんなよかったと言っている。これでこのマンションの住人の平均年齢が下がるからである。私どもが入ったときは上げはしなかったが下げることもなかった。団塊の世代が多いのである。

 聞けば建築事務所で働いているという。温泉地の旅館を専門に設計していて、温泉旅館には詳しいのだという。どうも普通のサラリーマンではないということらしい。このマンションには、朝九時前に毎日出勤するサラリーマンは誰もいないが、新人もサラリーマンではなかったというわけだ。

 福島第一原発の放射能汚染水が海に流れ出しているのをテレビで見るたびに、日本には世界最先端の土木技術があるのに、あんな小さな穴の水漏れを塞ぐことが何故出来ないのだ、といらだってしまう。恐らく世界中の人がそう思っているだろう。少なくとも、あの穴に詰め物をすればいいのではないかとか、鉄板でふたをしろとか素人は思うのだが、放射能が高くて出来ないのだろうか。

 フランスの思想家ジャック・アタリが、日本の政府は原発事故の情報を開示していない。世界は日本の主権を侵害してもいいから積極的にこの事故に介入すべきだと言っているらしい。つまり、ある国が当事者能力を欠いていることが原因で世界が脅威を感じる場合は、国連が国家に積極的に介入していいという論理、例えばリビアに多国籍軍が介入したように介入すべきだという論理である。ニュースステーションでこのことを紹介していたが、これくらい世界は日本にいらだっている、ということらしい。

 政府も東電も総力をあげて、と何度も繰り返し言っているが、あの穴一つふせげないのをみると、総力というのもたいしたことがない、とつい思ってしまうのは私だけだろうか。現場を知らないでものを言っているので何とでも言えるのだけれど、東電の人が汚染水を海に流す決断を語ったときに申し訳無いと涙を流していたが、たぶん自分たちの無力感に打ちひしがれているのだろうということだけはわかった。

 たぶん、日本の政府も東電も、情報を隠すなどという余裕もなく、なすすべがなくていいアイデアも浮かばず、無力感に打ちひしがれている、というのが実情ではないか。こうなったら、日本のあらゆる分野の技術者に助けを求め、いや世界中の技術者に何かいい知恵はないか、とインターネットで呼びかけるくらいのことをした方がいいのではないか。こういうときのインターネットの力は馬鹿には出来ない。忽ちいろんな情報が集まると思うのだが。

 最善を尽くしているのだろうということはわかる。が、最善の結果になっていないことも事実だ。長引けば長引くほど現場で命がけで働いている人たちも大変になる。なんとかして欲しい、と日本中、いや世界中の人が思っている。なんとかならんものか。  

人間がどうであろうと花は咲く

キリストとブッダ2011/04/10 22:48

 土曜は学会のシンポジウム。けっこう難しい話だった。質疑応答などで、質問者がいろいろと要点を整理して質問してくれたので、発表の意図は理解できたが。ただ、テーマと全然ずれていた気がする。

 Y君の発表は、経典の注釈を巡るもので、私の理解では、仏教経典の注釈が仏教が渡来する国で何故繰り返し行われるのか、という問題提起だったと思う。その答えは、注釈することによって真理が見えてくる、と注釈をする僧たちが考えていたからだ、という趣旨であったと思う。これだけ取り出せばそんなものかで終わってしまうのだが、実は、今大澤真幸『量子の社会哲学』を読んでいるのだが、その中に仏教とキリスト教の比較がある。私は、その仏教の説明の仕方をつい重ねてしまったのだが、そのためか、とても興味深かった。

 それによると、キリストとブッダはどちらも人間であると同時に人間を超えた神の領域に達したものであって、ただ関わりの方向が逆なのだという。キリストは神が人間へと受肉する。ブッダは人間が悟りによって神の水準に達した姿である。つまり、「神→人間」か「人間→神」の違いがある。が、これは鏡映的な反転像ではないくて、ブッダの場合は、ブッダの生き方が教義のロールモデルになっている。つまり、ブッダという神ではない人間の生き方(修行)が、神という本質のあらわれなのだという、極めて古典的な関係が成り立つ。古典的というのは、個別的なこの世の現象(人間)を通して本質が開示される、という考え方のことである。本質は決して見ることは出来ないし到達もできない。が、本質は個別的な現れの先に、不変的なものとして必ずある、という確信によってあるものである。その時の、本質は個別的なものを超越する不変的なものという確信を、古典的というのである。

 だが、量子力学の時代になると、この確信が否定される。量子力学は、個別的なあらわれ(偶然性)が不変性(必然性)を決定する、という不確定の原理のことである。普通は、ある必然の世界(神)があって、その中で個別的な存在、つまりわれわれ現世の人間はうろうろしている(偶然の積み重ねのように)が、量子力学は、われわれの偶然の振る舞いによって、必然の在り方が決定されてしまうというようにその関係を逆転させるのである。

 実は、キリストはそのような量子力学的な必然と偶然の関係なのだというのである。キリストは歴史的存在であり個別的な存在である。ところが、その個別的存在がそのまま神であると見なしてしまうのがキリスト教である。キリストが神のロールモデルなのではない。キリストという個別的存在が神の現れなのである。キリストという個別的存在に神という本質が決定されている、ということであって、だから量子力学的なのだというのだ。ある個別的な人間の偶然性を通してしか神はあらわれない。その人間がブッダのように神の如くふるまい修行したから神になったのではない。全能の神と個別的な人間がいきなり同じあるとする、論理を超えた不確定なあらわれこそがキリストの持つ意味なのである。キリストの死は、人間の死ではない。人間の死ならばキリストは聖人になるが、そうではなく、神の死である。つまり、全知全能の神が死ぬというところに、この個別と本質との不確定な関係が、言わば確定されてしまうというわけだ。

 さて、うまく説明出来ているのか自信は無いのだが、仏教が経典の注釈を繰り返し行う理由が良くわかるであろう。ブッダはあくまでも個別的な人間であって、神という本質のあらわれなのではない。その本質を目指した生き方、あるいは修行のすがたが、本質を開示すると理解された宗教なのである。その本質は、到達できないことによってあくまでも本質である。とすれば、仏教教徒は、ブッダの生き方を学びそれを真似ることが本質に至ることだと理解するしかない。だから、修行が推奨され、ブッダの生き方を記した経典を読みまたそのより本質を読み取ろうとする経典注釈が繰り返し行われる。それは決して本質に到達は出来ないが、その行為そのものが本質を開示するという確信だけがそこにある、というわけである。

 キリスト教はそうではない。キリストという個別的な存在が、神という本質のあらわれなのであるから、キリスト教徒は、キリストという存在に同一化すればよい。聖餐式に、葡萄酒を飲みパンを食べるのは、キリストの血と肉を食すことである。つまり、そうやって、個別的な存在に一体化するのである。

 こう考えると仏教はなんてめんどうくさい宗教なんだと思うだろう。でも宗教である以上呪術的な要素も入り込むし、裾野の仏教はたぶんもっといいかげんであったはずだ。例えば日本の中世における浄土宗や浄土真宗などは、この仏教の面倒くささを解決しようとした運動だったと理解できる。ただ、念仏を唱えれば浄土へいけるというのは、人間という個別的な存在の側に、本質をかなり引き寄せるそういう思考なのではないかと思うのである。 

春の崩壊本質などなきこの世

無知の神2011/04/13 01:19

 今日は会議で出校。午後は学会の大会準備で封筒の印刷などを行っていた。二時半頃だったか、突然研究室が揺れはじめた。研究室でこれだけの揺れを体験するのは今回がはじめてである。横揺れがけっこう長く続いた。15階ということもあるようだ。3.11にはここにいなかったが、かなり揺れたのだろうと想像できた。不思議なもので、これだけ余震が続くと、体も慣れてきて慌てない。好いのか悪いのか。

 帰りに、頼まれていた原稿を神保町の郵便局から送る。締め切りから一ヶ月遅れたが、知り合いの古希記念論集の原稿で、たぶん、私は早く送ったほうではないかと思っている。白族の巫師(シャーマン)について調査記録などをもとにまとめたもの。調査記録はけっこうたくさん資料としてあるのだが、忙しいのと、いろいろと他の原稿を頼まれるのでなかなかまとめる機会がない。今回は、まとめるいいチャンスであった。

 『国文学 解釈と鑑賞』五月号が送られてきた。古代文学研究の現在という特集で、私も書いている。他のそうそうたるメンバーの文章にくらべると、私のはかなり真面目に書きすぎている気きがして、もう少し、評論的な文章にしておけばよかったと反省。益田勝実著作集を五冊も読んでの文章なので、つい、益田勝実をきちんと定義してやろうと力が入ったか。

 大澤真幸『量子の社会哲学』も読み終わった。こういう本は授業が始まると読めない。今のうちである。後一冊くらい哲学系を読みたいと思っているが、間に合うかどうかである。

 なかなか知的な刺激を与えてくれる本で面白かったのだが、大澤のその非常にわかりやすい論理にどうもうまくまるめこまれているのではないかという疑念が最後までつきまとう。これは、私の理解力の問題もあるかもしれないが、量子力学という対象を、思考のある型ととらえて、その型に適合する歴史上の様々な言説や理論を説明していく。大澤にかかれば、不確定性原理が、19世紀から20世紀の実に様々な歴史上の人物の言説に対応すると、されてしまう。

 読んでいる時は感心するが、読み終わるとほんとかいなと思う、その連続である。不確定性原理の思考の型とはこういうことである。個別的な事象が成立する説明として本質があるから、と考えるのが古典的な型である。つまり、本質としての神がいるから、個別な人間がいる、ということになる。この場合リンゴが木から落ちるのは、重力という本質があるからというのと同じである。

 相対性理論は、重力というのは絶対的に不変な本質とは言えないことを証明した。その根拠となったのは、光である。光は、実は物理的にとらえられる事象である。ところが、この世のあらゆる事象は光を超えられない。誰も光速を超えられない、というのと同じである。ということは、物理的事象である光を超えられない(その向こうに行けない)という否定的な態度において、その向こうを見ているということになる。その向こうとは神である。こういうのを否定神学というそうだ。相対性理論は、誰も神の領域には行けない、というその否定性において、神の領域を描いている、ということである。

 量子力学では、物質というのは決して厳密に観察出来ない。観察しようとすると、対象は輪郭を曖昧にしてしまう。観察者に対して対象は常に揺らぎとして存在する。それは時間的な原因結果についても同じであり、ある事象を観察することで原因が決まる。つまり、原因は揺らぎとして存在している。原因を本質とするなら、本質は常に不確定である、ということである。この論理訳がわからなくなるのでこれくらいにしておく。

 物質、もしくは事象を、個別の側で生きている人間の事象と見なすとする。すると、生きている人間の事象そのものを探求してもそこに見えてくるものは不確定そのものということになる。この不確定そのものの事象が、本質としてのこの世の原因だとすれば、「存在していないわけではない」という程度によってしか、本質は存在しない。むろん、この世は無ではないとすればそう考えるしかないということである。つまり、生きている人間の側の事象のその不確実なありかたに本質は随伴する、というのが量子力学の思考の型ということになる。絶対的な神がいることによつて個別的な人間の生が決定されるのではなく、生きている人間の様々な生のその不確かなありかたが、神という本質を決めてしまうのである。

 これはある意味でアニミズム的思考とも言えるだろう。アニミズムは自然の事物に神が宿るという思考の型である。あらかじめ個別的な事象を超越した神がいるわけではない。自然の事物をその輪郭を曖昧にしていくほどじっと見つめれば、その事物の存在は揺らぎはじめる。恐らくそこに本質を投影するのがアニミズム的思考である。

 こう考えてもいい。生の現場というものは常に量子力学的なのだと。われわれは、本質を想定して動いているわけではない。動いていることつまり生きていることが先にある。その自分が生きていること自身はいつも不確定でとらえどころがない。こういうとらえ方によって、例えば誰かの思想を理解したとする。必ずその思想家の生きている不確定な事象があるはずだ。とすれば、その不確定な生に付随する形で本質があるので、その思想家がその事象を無視して作り出した抽象的な理屈に本質があるわけではない、ととらえると、その思想の量子力学的な理解ということになるのである。大澤はこのようにして、量子力学的な思考の型を、レーニンを初めとする様々な思想から取り出してくる。

 結論としては、われわれの生きて入る事象そのものは量子力学的にしか説明出来ないと言うことだ。でも、われわれは古典的な本質を求め、あるいは想定する。大澤は、それは、個別的な事象そのものに無知であることによって、そういう本質が生まれるという。それは無知の神なのだという。つまり、量子力学的な時代にあつて、神は無知であることによってしか神たり得ない、といことである。難しい。何となくわかる気はするが。  

不確定なこの世のままで桜咲け

仕方がない2011/04/14 23:20

 少し温かくなったせいか計画停電もなくなり、ようやく落ち着いたというところか。桜も大分散り始めた。写真は花見でのチビ。明日は某大学の大学院の授業がある。頼まれてやむなく引き受けたのだが、これで、今年は私は研究日というのがなくなる。明後日は二週間遅れの入学式。いよいよ仕事が始まる、というところである。

 今日は就職進路課の人たちといろいろ学生の就職率を上げるにはどうしたらいいか話しをした。課題はたくさんあるが、まずは、基礎的な数学を勉強させて欲しいと言われた。企業ではSPIという基礎学力テストを行うが、まずあれでみんな落とされてしまう。特に数学的思考が問われる問題に弱い。文系だからしかたがないとしても、やはり就職できるか出来ないかの問題だから、仕方ないではすまない。最近、文系大学で基礎数学を教えるところが増えているが、私のところも考えねばならないようだ。

 それから、最後まで就職出来ない学生は、コミュニケーションが苦手で、友人もいない感じの学生が多いということである。自分をアピール出来る学生というのは、やはり、大学で充実した生活を送っている。サークルに入っていたり、友達といろんな活動をしていた学生は、そのことをアピールできる。それだけでも違うという。

 コミュニケーションの力やプレゼンの力を教えてはいるが、どうも、それ以前の問題のようである。個々の学生の性格の問題にまでかかわる。内向的で思索好きな学生は就職には向かない。あるいは、引きこもり系はもっと向かない。少なくとも今、企業が女性に求めているのは、積極性や明るさであって、特に営業系はそうである。そういうのは、大学で教えるものではない。生まれ育った環境のなかで自ずと身についているものである。ということは、その自ずと身についているついていないで、就職も左右される、という面がある。これが現実である。

 が、あきらめるわけにもいかない。学生たちが友達を作る機会やコミュニケーションの機会をどう設定していくのか、そのお膳立てをたくさん作ることも就職支援ということになる。まず、友達作ろうね、という幼稚園レベルからはじめなくてはならないというわけだ。教員も大変なのである。

 外国のメディアが東北の被災者の態度に賞賛を惜しまない、という報道が日本のマスコミでけっこう流されている。悲惨なニュースが多い中で何となく誇れる数少ない話題であるからだろう。その賞賛のニュアンスが、ほとんど「がまん」「忍耐」「仕方ない」「いたわり」といったことである。世界中でほぼ同じことに驚いている。こんな災害に遭って、なんでパニックを起こしたりしなのか、人に気遣いするし、信じられない、という論調である。

 阪神淡路大震災のときもこういう声は聞かれたが、今回は東北ということもあってか、かなり大きく報じられているようだ。確かに東北の人は、忍耐強いというイメージがあるが、これは日本人の文化の問題だということは、だれにでも了解できることだろう。「仕方がない」ということばがそのまま外国に紹介されているのが面白い。これは翻訳が難しいことばだろう。

 運命に抗わず受け入れる姿勢というように映るらしい。以前「さようなら」について書いたが、これは「左様であるならば」が元のことばで、その後に「仕方がない」が続くと考えられる。 つまり、死を受け入れる言い方である。日本人が争いを好まない、というのは、あれだけの戦争をやったのだから疑わしいところはあるが、少なくとも、死を受け入れるのに、争わない態度でいられる、という心の持ち方は、文化的態度であると言っていいくらいに身につけているのではないかと思う。

 「仕方がない」はあきらめとは違う。一種の見極めではないかと思う。ここは、抵抗しても無駄だからおとなしく耐えるしかない、機会を待てばいい、というくらいの、冷静なというのではなく穏やかな対処方法である、ということではないか。日本の文化が自然と戦わなかったわけではない。森林は伐採するし田畑も開墾してきた。ただ、時には自然にはかなわない、ということを身にしみて知っているということである。

 こんなの絶対認めない、や、妙に明るく元気に振る舞うのは、現実を受け入れない方法だが、「仕方がない」は現実をうまく受け入れて、それを鎮静化させて次への動作に移る、とても効率的な方法なのではないか、と思うのだ。不必要な抵抗はしないが、あきらめるわけでも、全面降伏でもない、曖昧のようだが、気がついたら立ち直っていた、というのが「仕方がない」のことばの持つ意味なのではないか。そう単純なことばではない。

                       仕方なきこと多くして落花かな

辺境の普遍性2011/04/17 01:18

 某大学の大学院での初めての授業。受講者は一人、つまり、一人の院生のために、私が担当となったということらしい。まさか授業も一人とは思わなかったが、一日二コマ講義と演習があるが、一人の学生(男子学生です)と1年間つきあうことになったというわけだ。女子学生でなくてよかった。女子学生だとさすがにいろいろ気を遣うので。

 考えようによっては気が楽である。対話しながら常に授業が出来るし、場所も何処でもいい。去年、風土記をやっていたので、続きを今年やるとうことになった。それから、日本霊異記を読んで見たいというので、霊異記も勉強することにした。最初なので、お茶を飲みながら、2時間近く、古代文学の何処が面白いのか、ということなどを雑談風に語って終わった。まあ、家庭教師みたいな感じである。研究者志望ではなく、高校の先生になりたいとのことで、とすればあまり専門的なことをやらなくてよさそうだし(専門的ことを教えるのは苦手なので)、この時間が重荷にはならなそうで助かった。でも学生が一人だと、学生が休んだとき授業はどうなるのだろう。休講にしたら補講しなきゃならなんし、それでも出校しなくてはならないのか。彼は教育実習で何週間か休むと言ってるので、その時どうしたらいいのか、そんなことが不安である。学校に聞けば、原則として授業はやってください、と答えるだろなあ。

 あのサンデル教授が、日本や中国アメリカの学生たちを集めて討論をNHKでやっていた。大震災がテーマだが、これからも原発に依存すべきかどうかとか、個人主義とコミュニティとの折り合いをどうつけるか、とか、国家を超えた人道主義は成立するのか、といった、簡単には解決できないジレンマ問題を取り上げていた。熱心に見ていたわけではないが、さすがにこういう番組に出てくる若者は、きちんとある立場に立って発言していて、自分の中で悩んで支離滅裂にならないところに感心した。とりあえず、相手の立場に対しても一定の理解を示しながら、自分の選んだ立場に立って自分の中でジレンマ状態を作らない、というのが、こういうときの賢い発言のスタンスである。だめなのは、どっちの立場も大事だし…と悩んでしまって、何も言えなくなることだ。

 サンデル教授は、リベタリアンではなく、カント的な理性的立場をよりどころとしつつ共同的な関係的世界に生きることの重要さを排除しない、という矛盾した立場をいろんなジレンマ例で語り続ける現実的な哲学者である。その立場からすれば、今度の大震災の東北の人々の行動は、サンデル教授のテーマにぴったりだったと言えるだろう。

 東北の人々の中には津波にあって自分を犠牲にして人を助けようと行動してなくなった人がけっこういた。この行為自体はとても立派であるが、冷静にこのような犠牲的行為を評価するとこれが難しい。カント的理性主義者からいえば、このような行為は、個人の人間の本性としての理性に基づくことではじめて意味がある。そこに人間の本質があらわれるからである。かりにそれが本能的な行為だとしたら、それは評価されない。それは非理性的な行為だからである。だから、おぼれた子供を助けようとする親の行為は、人間的な行為なのかどうかという論争が起こるのである。

 が、一方で、あの犠牲は、国家や共同体のために自分を犠牲にすることと同じで、とても立派で尊い行為だと評価したらどうだろう。実際中国の学生がそのように評価していた。だが、それに対して、日本の作家は、あれは地域の人たちのために自分を犠牲にしたのであって、国家とかいうようなもののためではないと反論した。何処までが地域のためであってどこからは国家になるのか。この線引きは明確ではかならずしもない。戦争で死んだ兵隊達は、お国のためにと言うが、実質は家族や地域のために戦ったのである。が、お国のためという言い方はそれをも含む言い方になってしまう。

 ここで問われているのは、東北の人が自己犠牲的に振る舞ったのは、公共的に生きる道徳心が他の国あるいは地域の人々より強かったからなのか、それとも、地域共同体の関係の内実によっては、その地域共同体に属す人は誰でもそのようにふるまうのものなのか、ということのようだ。前者は公共のために犠牲を厭わないという普遍的な理性を持つ個人を前提とした評価であり、後者は、むしろ共同体的人間のその画一的な在り方の長所への評価ということになろうか。

 現代社会は、理性的に行動を律する個人を主体として社会と、家族や地域の共同体的関係が生きていく上での強い規範となっている社会との両方が、重なり合いながらまく機能することによって成り立っている面がある。その意味で、ある一人の英雄的な自己犠牲的行動が、前者によるものなのか後者によるものなのかと判断するのは困難だろう。というより、それは社会や人間の一面しか見ないことによる判断だということだろう。

 それは、西欧的な意味での理性的精神を持たない、西欧から見て遅れた文明を持つ民族であっても、東北の人が見せた自己犠牲的な行動は取り得る、ということである。そんなの当たり前だろうに、何故、そこに西欧的な思想をからませてジレンマ問題を作らなければならないのか。問題はこっちにある。

 たぶん、東北の人々の自己犠牲的な行為が世界の人々のスタンダードな振る舞いになれるのか、という期待がそこにあるからだということだろう。つまり、スタンダードになるためには、普遍的な言説によって説明されなくてはならないのだ。その普遍的な言説とは、西欧思想がかたくなに守ってきた、プラトン以来の人間の普遍性に対する信仰のような哲学である。この人間の普遍性とは、実際は西欧的な価値観の押しつけであって、中東では戦争をすすめる理由になっている。そういう状況のなかで、東洋のある地域で、尊い自己犠牲的な行動の実際が、一挙にメディアによって世界中に拡がり感動を与えた。この優れた人間の行動を世界のスタンダードとして語るためには、どういう価値観に基づくのか、つまり、どういう言説がよいのか。別の言い方をすれば、西欧的な言説はこの東北の人々の自己犠牲的な行為の持つ普遍性を評価出来るのか、たぶん、それがサンデル教授のテーマであるようだ。

 相変わらず西欧中心主義であることにかわりはないとしても、このことは、世界のある辺境の人間の行為が一挙に世界のスタンダードな行為として論じられる、というグローバリズムの世界の在り方を象徴的に示しているだろう。「仕方がない」ということばが今世界で注目を集めている。このように外国人にはとてもわからないだろうと思われていたことばが、突然、世界のスタンダードなことばになってしまう、ということもあり得る時代になったのである。  
                     
                          春の残がい漁師は黙祷する

先生はえらい2011/04/20 01:27

 ここのところ毎日新入生のガイダンスである。間をぬって、学会の大会案内を準備。今週中に機関誌が出来てくるので発送の作業をしなくてはならない。忙しかったせいか昨日五時からの会議をすっぽかした。完全に忘れていた。今年から月曜五限は会議時間帯となったのだが、まだ頭が切り替わっていなかったらしい。

 授業の準備をしなくてはならないのだが、なかなかはかどらない。読むべき本は読んでるのだが、もともと講義ノートを丁寧に作っておくタイプではないので、授業の前日にいそいで明日の内容を考える、という自転車操業方式でこなしてきている。そろそろきちんと講義ノートを作ろうとはおもうのだが、なかなかエンジンがかからない。

 つい本を読んでしまう。内田樹の街場本ではなく、哲学系の『他者と死者』を半分ほど読み進んだ。ラカンの精神分析とレヴィナスの「他者論」を使いながら、コミュニケーションがどのように成立するかを考察している。ここで内田は、真実と思われるものを伝えるためには、二人の人間がそれを繰り返すことが必要だと言う。例えば、神の言葉があるとする。その言葉を師が弟子に伝えるとき、弟子はただ師が言ったことを繰り返す、その行為によって神の言葉は継承されると言う。が、その理由はこうだ。師が語るのは謎でしかない。神の言葉は語れないし伝えられないものだからだ。が、師は神の言葉を欲望することで、それを謎として弟子に語る。弟子はそれを繰り返すが、それは謎を解釈するのでも意味として捉え返すのでもなく、ただ、謎を語る師の欲望を欲望する、ということ。つまり、ある真理のようなものが伝えられていくのは、その真理を欲望する存在の仕方そのものが、師から弟子へと次々と再生産されていく、ということである、とするのである。

 何を言っているかわからないでしょう。私はわかっているつもりだが自信はない。内田樹に「先生はえらい」という高校生向けの新書がある。この本で、生徒が先生と出会ってその先生に、よくわかんないけどなにかがある、と思ったときに「先生はえらい」のだと言っている。その何かがある、とは誰もが思うわけではない。たまたまその生徒が思っただけかも知れない。また、その先生が客観的にとても優れた先生かどうかは問題ではない。

 これも難しいが、ある先生はあまり優秀とはいえないし人気もない、だが、一人の学生がその先生に、ふと、よくわからないけど何かがある、と感じてしまった。とすれば、その学生にとってこの先生は「えらい」存在なのである。こういうことってあるのではないか。私だって、そんなに優秀じゃないけど、たまたま私に何かがあると感じてもらって、「えらい」先生ということになっていることもあるかも知れない。その場合、私がきっと何かわからないけど何かがある、ということを感じる(欲望する)存在の仕方をしていて、学生は、そのことを感じとって、なにかわからないものを欲望した、ということである。

 問題はレヴィナスの他者論がどういうように関わるかだが、師と弟子は二人で対話をする。この場合、二人は会話をしているのではなく、同じことばを繰り返すだけである。これを交話と呼んでいる。ほら、公共広告のあの金子みすゞの詩です。内田は「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ」(本の帯のキャッチコピー)と述べている。この同じ一つのことを二人の人間が繰り返すとき、そこには第三者としての「他者」があらわれるのだという。つまり、師の欲望を弟子が欲望することであらわれる欲望の対象、それが「他者」であり、二人の対話はその「他者」を召還する行為であるという。この場合、「他者」は神ということになる。

 同じことばを二人の人間が繰り返すとき、その行為は第三者を呼び寄せてしまう。なんか、ホラーみたいな話しである。相手が言ったことばを同じように繰り返したら、そのことばの意味が決定的に変換される、というのはわかる気がする。呪いのことばが繰り返しなのは、案外そういうところに理由があるのかも知れない。友達と同じことを偶然一緒にしゃべったら「ハッピーアイスクリーム」と呪文を唱える、ということが一時流行ったらしいが、それも同じようなことであろう。

 さてさて、この本、私の研究テーマにに大きなヒントをくれた。本棚に眠っていた本をたまたま読んだのだが、得るところがあった。

センスあることば2011/04/23 01:45

 管首相を見ていると、この人はほんとに嫌われているのだなあとつい同情したくなる。懸命にやっているのだろうがこれだけみんなからぼろくそに言われる首相も珍しい。こういうのを人徳のなさというのだろうか。というよりは、スケープゴートとしてとても適任の人なのだと思う。みんなこの事態に苛立っていて、どうしていいかわからない。自然の暴威に文句を言えないから、政治に文句を言うしかない。政府の対策が後手後手だからみんな苦しんでいるんだ早く辞めろ、と八つ当たりする。そうやってみんなの不満のはけ口になっているのが管首相なのだろうと思う。

 確かにもっとうまく出来ないのかと思うところはある。が、他の人が首相になってもっとうまく出来るとも思えない。原発にしろ想定を超えた事態であって、今の事態がうまくやっている方なのか、そうでないのか、誰にも判断できないのではないか。

 避難地域の確定の問題でも、最悪を想定して、徹底して避難させるべきだ、というのか、それとも、現状の放射線の情報を分析してぎりぎりまで住民が居住できるよう避難させるべきではないというのか、政府も、マスコミも、被災者自身も判断出来ないでいる、というのが実情ではないだろうか。政府は最悪を想定するという方向に舵を切ったが、それでも生ぬるいという批判は起きるだろう。

 ただ、管首相を見て思うのは、この人のことばが貧しいということである。ボキャブラリーがないとか、弁舌が下手だということではない。ことばに表情、例えば愛嬌といったものがないのである。むろん、これは管首相だけではなく最近の政治家に言えることではある。

 民主党も自民党も若手の政治家に弁護士や元キャリア官僚が多い。だから、話しに躊躇がなく、論理的に話しを組み立てて、そつなくしゃべる。話しの中に、ことばの効率性を損なう要素を排除することに優れた人たちである。こういう人たちの話を聞いていると、まだ、紋切り型で意味不明の言い方しか出来ない旧い政治家のことばがなつかしい。彼らはことばを補う愛嬌があったし、腹芸ともいうべきパフォーマンスがあった。

 管首相も含めてことばにセンスがない。必要なことを過不足なく話してはいるが、気遣いや自分の言いあらわしがたい気持ちなどが顔を出すことがない。これはメディアの記者にも言えるし、テレビに出てくるコメンテーターにも言える。気持ちを伝えようとするときは、ただ悲しんだり、泣いたり、怒ったりというように感情をストレートにあらわせばいいと思っている。

 管首相がみんなから攻撃されるのは、やはり、そのことばの問題であるような気がする。とても俗っぽい言い方をすれば魂が込められたことばではない。感情を豊かに話さなくてはならないと言いたいわけではない。センスという言い方が適切かどうかは問題あるが、やはりセンスを失っている。感情がどうしても直接あらわれてしまう場面ではそれをうまく回避しながら話すセンス、どうしても事務的で冷たくなりがちな話しには、こころを こめるセンス、そういうセンスの文化をみんな忘れているのか、失ってしまったのか。最近テレビを見るに付け、センスのないことばがストレートに飛び交っていて気が滅入ってしまって、あまり見ていられないのだ。

 鷲田清一の「言葉の幸不幸」というエッセイがあるが、そこで詩人の佐々木幹郎が、阪神淡路大震災で夫を亡くした被災者のことばを記録していることを紹介している。

 「わたしが二階にいまして、一階にいた主人が、二階に妻がいます、助けてくださいと 叫んでいたんです」
  彼女はそこで一呼吸を置いた。
 「そしたらな、二階が一階になりましてん」
  佐々木さんはこの言葉にふれて言う。「母音の多い関西弁は悲惨な体験を、おっとり した表情で伝える。余裕すら感じさせる間合いがある。そのことによっていっそう、悲 惨さのリアリティが満ちる」、と。

 私のいうセンスとはこういうことばのことだ。鷲田清一は次のようにも述べている。

 沈黙のあと、もし妻が亡くした夫のことにふれて「(あのときもう、じぶんもいっしょに)あっさり逝(い)てもうたほうがよかった……」などと漏らせば、聴くほうが辛すぎて、二の句を継げない。

 今、聴く方が辛すぎることばばかりである。むろん、そういうこことばはそれはそれで感情を解放し立ち直っていくきっかけである。が、たぶん、被災の現地では、このようなユーモアのある、あるいはセンスあることばがきっと多く交わされているに違いない。が、マスコミはそれを拾わない。拾うのは、こちらが聴くことの辛くなることばばかりだ。取材する方にセンスがないのだ。

 でも、まだセンスあることばに気づくのには時間がかかるのかも知れない。それだけリアリティがありすぎるということであろう。ただ、政治家のことばは少なくともセンスが欲しいものである。

物語の定義2011/04/27 00:07

 今週から授業が始まり、さすがに今までとはちがう疲れ方を感じている。体調は良くも悪くもなしといったところ。7月に開かれる某学会の研究大会発表者が誰もいないとのことで、仕方なく、知り合いに連絡して何とか発表してもらうことになった。古代の発表者が誰もいないというのは初めてのこと(だと思うが)。たまたま運営委員をしているので、こういう役どころになった。引き受けていただいた方にはほんとに感謝している。結局若手はあまりいなく、そうそうたる研究者の発表大会になった。

 「アニメの物語学」の最初の授業はなんとかうまくいった(と思う)。一年生だけの授業だが45人受講した。日本語・日本文学コースの入学者は50人だからほぼ全員受けたのかと思ったら他コースから半分受けている。とりあえず人気科目となったわけで、それを見越して開設した科目だから、一応予想通りというわけである。が、失敗は許されない。責任大である。

 新入生との最初の顔あわせはどちらかと言えば楽しいものである。みんなまだ緊張していて、さすがに居眠りしたり私語もほとんどない。これがずっと続いてくれればありがたいが、あと二週間でみんなだれてくる。教員のせいもあるが、まあそんなものである。

 「アニメの物語学」はまず、物語の定義と、物語には型がある、ということを語った。定義は藤井貞和や私や大塚英志のを使った。その中で一番シンプルなのが大塚英志で「行って帰る」という定義である。これが学生には一番受けたようだ。私の定義は、{異界とこの世とが重なり合う異常な事態を正常に戻すプロセス」、で、「行って帰る」のとそんなに変わらない。私のは、ほぼ異界訪問譚の定義である。古事記の黄泉国訪問神話を知っているか、と聴いたら誰も知らなかった。古事記は知ってる?と聞いたら、ほぼ一割が手を挙げた。まあこんなものだ。

 プロップの31の機能を紹介。物語を創作したい人は、これを使ったらいいと、大塚英志の本の付録にあった、物語創作のための30項目表を配った。大塚が、プロップの昔話の機能の31分類をアレンジしたもので、大塚はこれを自分のところの学生にやらせている。1から30までの項目に質問があって、例えば、最初は、あなたにとって回復しなければならないものは何かそれを書いてください、とかいうのに答えて行くと、最後に一つのストーリーが出来あがるというものである。

 私は自分の物語の定義を説明するときに、恋愛だってそうだ、恋愛する時は異界に入り込むようなものだ。そこから現実(この世)に戻ることで恋愛は終わる。その終わり方が恋愛の物語のバリエーションということだが、ハッピーエンドもあるが失恋で終わるのが多いね、と話す。質問に、失恋以外の終わり方はないのかと書いてきた。やっぱり失恋という終わり方は避けたいらしい。

 心中とか、三角関係になってみんな死んじゃうという話もあるよ、と次回説明するつもり。古代の恋愛物語はこのバターンが多い。でもみんな死んじゃうのは「行って帰る」にはならない、という反論があるだろう。この場合主人公が行って帰るのではなく、行って帰ったのは、恋愛をはらはら見守っていた世間の人とうことか。つまり第三者。あるいは、主人公達はみんな行った切りで帰ってこない。だが、彼らは物語となってこちらの世界に帰って来た、という物語、か。

 物語の定義にこだわるのは、普遍的な構造を探そうという探求心だが、定義なんて出来ないという定義があっても別におかしくはない。この世の出来事が常に例外に満ちているように見えるのと同じだ。

                          物語終えて残花の道を行く

日本の強み2011/04/28 00:37

 今度の原発問題で見えた来たことの一つは、何事も一極集中は良くないということではないだろうか。

 原子力エネルギーにある程度頼っている現状がある限り、いますぐ原発をなくせというのは非現実的だろう。原発をコントロールする技術を磨いて、少なくとも今ある原発を安全に運転する方法を見いだしていくしかない。原発を人間の手に負えない悪魔のように神話化することは、結局、今ある世界中の原発を危険な水準にとどめる結果しか生まないだろう。

 むしろ、深刻な問題は原発を管理する組織の側である。原発が抱える最大の問題は、その建設や管理、核の管理も含めてに国家の介在が必要となる、ということだ。言わば、国家という権力行使の象徴として原発は存在する。つまり、究極の一極集中型のエネルギー源である。とすれば、原発への反対運動は反国家という運動とならざるを得ない。だから、日本の原発反対は左翼による運動が主体だった。原発反対は即国家権力とぶつかるから、反国家的政治勢力しか担えないのである。日本では反戦平和と反原発は一緒の戦いだったのである。

 国家に委ねられる危険は今度の事故で露わになった。政治家は利権で動き、官僚は権力維持のために動く。安全性を客観的に判断するはずのお雇い科学者は、左翼とみられないように甘い予測に終始する。つまり、国家による一極集中の制度のもとでは、危険かも知れないと漏らせば、それは反国家的もしくは左翼的な政治性を帯びることになる。つまり、危険だという判断は、自らが属している組織そのものを否定するようなニュアンスを帯びる。これは独裁者に何も言えないのと同じことで、原発の危機管理は、余りにも硬直した国家の官僚組織のなかで、名ばかりのものになってしまったということである。日本の原発建設はこういう状況の中で進められてきた。そのことが、今度の事故の一因となった。

 どうすればよいのか。これから原発を作ることはこの危機管理の出来ない国家を信頼することである。それはもう出来ない、とすれば、厳しい規制を設けて民間に委ねる、ということしかない。が、民間は信用できないということになれば、やはり、代替エネルギーを探していくしかないだろう。今の日本はそういう方向に進んでいるようである。

 が、私はそうは簡単に代替エネルギーにはすすまないだろうと予測する。それは国家の信用というのは作り出せるからである。代替エネルギーには限界があり時間がかかる、経済原則からすれば、今ある原発を有効に使えという声が必ず出てくる。小泉首相みたいなカリスマ的政治家が出てくれば、今度は国家はうまくやってくれるに違いない、という世論になるだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつである。

 それに、「鉄腕アトム」という原子力のアイドルに親しんできた日本人が、原子力という科学への欲望を簡単に捨て去るとも思えない。日本のサブカルチャーは、原子力エネルギーを肯定する科学の上に成り立つ文化であることを忘れてはならない。宇宙戦艦ヤマトは、原発を否定する思想では生まれないのである。サブカルチャーは大震災以降ほとんど身を隠しているが、一大産業化したこの文化は復興とともに息を吹き返すだろう。

 とにかく一極集中を避けること。一つのエネルギーに支配されない社会を作ること。原発を必要とするなら、安全への技術の確立は当然だが、硬直した権力組織ではない危機管理組織を徹底して作り上げたうえで、というのが条件だろう。むろん、事故が起こったときの対策や補償も万全を期して、周辺住民の納得のうえで、という厳しいハードルを越えてということになる。

 恐らく、原発問題は私たちが公的な仕組みをどう作っていくのか、ということに関わっていると思われる。フランスの現代思想家たちが原発に頼るフランスの国家にあまり異を唱えていないように見える(実際どうかはわからないが)のも、公的な仕組みへの信頼が日本よりはあるからかも知れない。

 今度の事故の対応を見る限り、危機管理のシステムのなさを露呈した国家は信頼できないが、民間の現場での対応は、東電幹部の危機管理のなさは別にして、かなりうまくやっているのではないかと思う。日本の強さは、国家や責任者がだめでも、現場が頑張ってなんとか問題を解決するところである。つまり、民間の一人一人の実力が強みとということである。強力な公的仕組みを作って、現場の一人一人の強さを殺ぐような社会を作ってはならない。そういう一極集中型社会は、日本をだめにする。政治家や官僚が頼りなくてもうまく社会が機能している、それが日本の良さではないか。