毒リンゴを食べないと…2011/05/01 23:58

 金曜は、休日だが某大学の大学院の授業。ところがだ、教室にいっても学生が来ない。何せ学生一人の授業だからこういうときには困る。30分近く待って、ひょっとしていつも行くラウンジかなと探したが見つからない。それで、今日は休みだろうとあきらめて家に帰ってきた。ところがだ、家に帰ったらメールが届いて、教室で待っていたけど先生が来ない、今日は休日ですが学校はあります、とある。とまたすぐメールが届いて、申し訳ありません、学校で先生を見かけたという人がいて、どうも行き違いのようです、とまたメールが届く。どうも、どっちが間違っていたのか、お互い違う教室で待っていたようだ。こんどからは携帯に連絡を入れるよう携帯の番号を教えておいた。まあ、嫌われたわけでもなさそうなのでよかったのだが、というところである。

 土曜日は研究会で出校。中国雲南に8世紀頃に栄えた南詔国の碑文を読んでいる。今日は明日の授業の準備。なにせ連休などというものはないのである。

 注文しておいた「風の谷のナウシカ」のコミック版全7巻が届いたので、金曜から読み始めた。読み終わって、映画のアニメよりはこっちの方が何倍も面白いというのが感想。もともと、「風の谷のナウシカ」アニメ映画の構想を、マンガの原作がないのでという理由で断られたので、それなら原作を書いてしまおうと宮崎駿が書き始めたということである。映画のアニメは、コミック版の物語の半分くらいのストーリーで、中途半端な終わり方をしている。これはまだコミックが完結していないうちにアニメを制作したためで、宮崎駿は、アニメの終わり方に自分で納得出来ずコミックの方をその後も書き続けたのである。そして、その終わり方は、アニメとは比べものにならないくらいこみいって、深いものになっている。

 アニメは、腐海という毒そのものの自然が人間に対立し自然を回復していく、というようにとらえられている。その腐海の聖なる守り主が王蟲である。ナウシカは、人間と腐海との間に立って人間の破滅を救おうと犠牲になるが、王蟲の力によって生き返る。コミック版を読むとこの物語はいかにも単純で楽観的なものであるかがよくわかる。コミック版では、腐海と人間は対立するのではない。むしろ、それは別の何者か(文明を築いた人間)の意図によってセットにされているのである。ナウシカはその神の如き企みを解明していきながら、地上の人間を滅ぼしていく粘菌も人間も同じ生命の一部であり、光も闇もある、と悟っていく。こここでのナウシカは、シャーマンであり、人間のために戦う戦士であり、知恵者である。光と闇を分離するためにこの世を創造しようとする傲慢な何者かの企みに抵抗していくのである。

 宮崎駿は、このコミック版の終わりに当たってマルキシズムを捨てたと書いている。つまり、一神教的な価値観によって支配される世界ではなく、支配される側の個々の細胞(生命)に多様な可能性を認めるアニミズム的世界観に立った、ということであろう。その細胞の一部が人間であって、文明による環境汚染もそういった細胞の闇の問題として受け入れる、という、矛盾を許容する間口の広い考え方に立ったということのようだ。これは、「もののけ姫」にも、受け継がれている。 

 物語の展開力ははるかにコミック版のほうがすごい。ただ、アニメには、音や視覚効果そして動く映像の迫力がある。映画のアニメに、コミック版のようなストーリーを詰め込んだら、たぶんヒットしないだろう。その意味で、アニメはシンプルにして、とりあえずの感動作にしたということのようだ。さて、アニメの「風の谷のナウシカ」を授業で語らなければならない私としては、漫画を読んでしまって少し困ってしまった。ナウシカはやっぱり漫画版だぜ、と言いたくなってしまったからだ。

 これも授業の準備としてディズニー映画の「魔法にかけられて」を観る。いわゆるディズニーのセルフパロディという映画で、特に「白雪姫」のパロディである。アニメと実写映像の合体したミュージカル映画で、アニメのお姫様が現代のニューヨークに追いやられてしまうというものである。

 けっこう面白かった、よく出来ている。ディズニーもなかなかやるなという感じである。グリム童話で、白雪姫が生き返るのは、棺を運んでいた従者がけつまずいて喉のリンゴがとれる、あるいは、棺に入っている白雪姫の世話に嫌気を起こした従者が背中をたたいたらリンゴが外れた、ということになっている。ディズニーアニメの「白雪姫」では、王子の真実のキスによって白雪姫は生き返る。「魔法にかけられて」でも最後にこの「真実のキス」が出てくる。現代ニューヨークに現れた継母がやはり毒リンゴを姫に食べさせてしまうのである。倒れた姫にやはり姫を追ってニューヨークにやってきた王子がキスをする。が、目が覚めない。そこで、姫が心惹かれたバツイチの離婚専門の弁護士がキスをすると、という筋立てである。なかなか心憎いでしょう。ところで、王子はアニメの世界に帰るが、その時、弁護士の恋人であったキャリアウーマンの現代女性と帰る。キャリアウーマンはおとぎ話の世界にあこがれていたのである。

 私は学生にアニメや映画をみたら、その物語を自分なりに定義しなさい、と課題を課すことを考えている。「白雪姫」物語の私の定義は、やや皮肉に、「毒リンゴを食べないと幸せになれない女の子の物語」である。

       この世の闇も光も若葉かな

問答論2011/05/05 00:09

マンションのアプローチ階段の藤の花が満開である。一昨年剪定したのでまだ花の数は一時ほど多くはないが、それでもだいぶ下に垂れてきている。この藤棚は、調布市の保存樹木に選定されていて、これだけ立派なのは調布市では他に一つあるだけだという。マンション自慢の藤棚である。

 今日は学生を連れて樋口一葉の旧居跡などを観て歩く。もう初夏という暖かさでやや汗ばんだ。三田線の春日で降りて菊坂から東大赤門前の法真寺まで行って戻る。授業時間内で行って帰ってこれる。いつも思うがいいところに学校がある。

 今年も夏に雲南省のシンポジウムに招かれていて、そこで発表しなければならない。そこで神話を「問答」で歌っていく様式について何か言おうと思い、折口信夫の「国文学の発生」を読んでいるのだが、どうもよくわからない。マレビト神と土地の聖霊との問答に起源を求める論理はわかるのだが、具体的にどういう問答を想定しているのか、そこがわかりにくいのである。折口の発想を支えているのは、芸能における翁に対する三番叟だったり、能のシテに対するワキとの関係で、それをマレビト神に対する土地の聖霊に重ねている。

 例えば、折口は、土地の聖霊は来訪神のことば(呪言)を繰り返す、という言い方もしている。たとえばそれは「もどく」ということである。三番叟などがそうだ。三番叟は、翁神の言葉を繰り返す。これはとてもわかりやすい。が、それならそれは問答ではない。

 折口は、常世神が村を訪れ土地の精霊を屈服させた次第を語る、やがてその次第を人間が演じるというようになり、土地の精霊が常世神の呪言に対して返奏の誓詞を述べるというように整えられていくと述べている。従って、常世神の来訪とは、この屈服した精霊の土地・山川の威霊を村が受けるということになる。なかなか入り組んでいるのだが、要は、問答は、来訪する神に対して精霊が服従していく一つのプロセスだということであろう。

 また神と精霊との問答は呪言争いだとも述べている。山の鳥や狸などにも根負けして掛け合いを止めると災いを受けるという伝えが多いと語る。神と精霊を人が演じこの呪言争いが祭りの中心行事だとも言う。この呪言争いを、神に扮した村人と、巫女とが向き合って掛け合いをしたのが歌垣の始まりなのだとも述べる。

 どうも折口は、神の一人称叙事詩とは別に、常世神と精霊との掛け合いによる神の表現形態があったということを想定している。それは神の呪言であって、その神の呪言は、人間に掛け合いの形で受容せられていくのだ、とどうやら述べているのである。つまり、一方的に神の言葉を人間が聞くのでなく、そこに繰り返しや混ぜっ返しのような様式によって伝わる、ということである。

 さて、この論理が、雲南省の少数民族の問答の論理に用いられるかどうか。たぶん無理である、ということがわかった。それで、落ち込んだ。もう一度やり直しである。

砧公園を散歩2011/05/09 00:18

 土曜は地方出身学生との懇親会。わが学科は短大だが地方から来る学生が割合いる。短大はほとんど地元志向だが、地方から来てくれる学生がいることはありがたい。初めての一人暮らしだろうから、情報交換や友達を作る機会にもなればとはじめた。ケーキを食べる茶話会という感じで、二時間ほど学生たちは賑やかにおしゃべりしていた。とりあえず成功といったところだ。

 当日は学会のシンポジウムが同じ校舎であり、私は遅れて参加。面白そうなテーマではあったが、発表は終わっていて、質疑応答が始まっていた。会場にいたGさんから抜き刷りをもらった。私が岩波の『文学』に書いた論に触発されて書いたという論文である。めったに人を触発することはないのだが、Gさんを触発出来たとはうれしいことである。

 心情語とは貨幣であるという比喩を用いながら万葉歌の心物対応構造について論じたものだが、自分としてはなかなかうまく書けた論だと思っている。少なくともこういう発想での論は今までなかったと思うので、満足はしているのだが、今まで評判を聞いたことがなかったので、こんなものかなと思っていたのだが、やはり読んでくれている人はいるものである。

 またYさんが『アジア民族文化研究』の御柱シンポジウムの特集は面白いと言ってくれた。これも、私が苦労しながらコーディネートし原稿を集めた特集なので、ほっとした。『七五調のアジア』もそうだが、苦労して何とか作り上げたものはそれなりに評価される、という当たり前のことの大切さを身にしみて感じている。むろん、それなりの発想や構想力も問われるが、それはいまさらどうにかなるものではない。とりあえずは、面白いと思ったことは、苦労してでも何とか仕上げていくその持続力を衰えさせたくはない。

 そのためにも健康が大事だが、土曜のシンポジウムの懇親会で、私は喫煙者たちが集まる席の真ん中に座ることになり、ずっとタバコ煙を吸わされていた。さすがに、体中がたばこ臭くなった。一人が、自分もタバコを吸っているのだが、タバコを吸う若い研究者にお前は子どもがいるのにタバコなんか吸うのはやめた方がいい、と説教をしていた。その気持ちわからないではない。あの席で私もかなり不健康になった気がする。

 今日は合評会とがあるということだが、授業の準備があるので欠席。明日の「アニメの物語学」の資料作りで一日を費やす。夕方気分転換をかねて奥さんとチビの散歩に砧公園に行く。かなりの人である。一時間ほどかけて砧公園を一周した。写真は、散歩に疲れて横になってしまったチビ。帰って、日テレの「鉄腕ダッシュ」を観る。「ダッシュ村」は福島第一原発のおかげで、計画避難地域に入っている。今は立ち入ることができないそうである。

 管首相が浜岡原発の運転停止を要請したのは賢明な判断だったのではないか。原発に関しては安全神話と危険神話がせめぎあっている状況だが、客観的に見て津波が来たら浜岡原発は危ないだろう。危機管理としては最悪を想定して迅速に対応することが鉄則である。言わば原則通りの判断ということになる。会議を経ていないとか経済のことを考えていないとか文句をいわれているが、重要な判断は常に先送りする日本の会議に任せていたら、また福島原発みたいになりかねない。最悪の場合の経済損失を考えれば、安全と判断出来るまでの運転停止は経済原則にかなうだろう。その意味で、政治判断は当然だったろうが、それなのに、人気取りとか、拙速とかくそみそに言われるのは、この人みんな誉めたくないのだ。こんなに悪口言われる人も珍しい。

 「ダッシュ村」についてだが、柴犬の北斗は元気なのだろうか。たぶん、どこかに引き取られてはいると思うが、好きな犬だったので気になる。「ダッシュ村」が再開されるのを心待ちにしているのだが。
 
                        新緑や人も犬も山羊もいない

斬新なアイデアというわけには…2011/05/12 00:43

 さすがに疲れがたまってきた。五月に入ってからほぼ休みなしで、とにかく五月は土日が学会や学校の行事で潰れているので、この五月をどう乗り切るか、正念場である。

 今年度は研究日というものがなく、月曜から金曜まで授業が入り、土曜は学会、日曜は学校の行事が隔週で入る、という、何ともハードな日々である。この年齢になると、日々ゆっくりと過ごして、ライフワークの研究でもというのが普通なのだろうが、世の中そう甘くはない。どこの大学でもみなさん忙しそうだ。

 それでも日々何とかこなしているのは、惰性と言うよりは、自分の研究にまだ不満だからで、まだやらなきゃいけないことがたくさんあるという気持ちがあるからだ。ほんとうにやれるかどうかは別にして、とりあえず、指で数えられるくらいの目標はある。あとは気力と体力が何処まで持つかである。

 BSでビートたけしの「たけしのアート」という番組を毎回観ているのだが、今回の杉本博司の写真アートはなかなかよかった。私よりちょっと上の世代だが、アイデアの斬新さに感動した。博物館のジオラマを本物らしく写真に撮ったり、蝋人形を本物の肖像写真のように撮ったり、あるいは、電気の放電による人工的な稲妻をそのままフィルムに焼き付けたりと、人が思いつかないことを思いつくことがアートだと徹底しているところがすごい。その思いつきには哲学的な問いかけもあって、芸術とはコンセプトである、ということである。

 考えてみれば、私なども、地道に実証的研究をやるタイプではなく、アイデア勝負で論を書いているところがある。アイデアがなければ何も書けないし書く気にもなれないのである。実は、アイデアとは事実の発見ではなく、解釈の発見である。解釈の発見に夢中になれるのは、今生きて入るこの世界が解釈によって面白くなる、という一種の快楽の追求である。地道な実証研究はどちらかと言えば、真理探求という王道であって、受苦的である。わたしはこの辛いのが嫌いなのだ。その意味では、いい加減な研究者である。

 杉本博司の写真アートをみながら、斬新なアイデアをこのように具現化できたら気分いいだろうなあとそこに妙に感心したのである。

 少数民族の神話を問答で歌うということにこだわって、折口信夫などの理論を使って論じられないかとこの間考えていて、これは私のアイデアだと思っていたが、すでに星野紘さんが同じ思いつきをすでに書いていたのを読んだ。やはり誰かが考えているものである。ただ、星野さんも思いつき程度の文章として書いているだけで、その問いはまだそのままになっている。同じことを考えた私としては、それを継承しなければならないということである。こういう言語文化研究というのは、芸術のようなわけにはいかない。時間がかかるし、やはり私の苦手な地道な作業は必要なのである。

                     斬新な解釈の夢薄暑かな

1984年の三作品2011/05/18 23:33

 いやはや忙しくてブログも書けない。研究日がないなどと言ってるどころではなく休みもないのがこんなにきついとは。想像はしていたが、さすがにきつい。

 先週の土曜はアジア民族文化学会の大会があり日曜は父母懇談会やらで出校。某学会のコラム原稿の締め切りがあり、そして、今週から、市民講座の万葉集が始まる。さすがに酒を控えた。コップ一杯のビールでも夕食に飲めば2時間は何も出来ない。その時間すら惜しいのである。

 が、授業の準備で大変なのは「アニメの物語学」。何せ異分野への挑戦でもあるから、こちらも力が入る。今週は、戦後アニメ史の1980年代。たぶん日本のアニメはこの80年代を実質的な始発とみていいだろう。中森明夫が、何となく普通と違うアニメファンを「おたく」と名づけたのは1983年である。

 日本アニメ史にとって1984年は記念すべき年になる。この年、日本のアニメを代表する作品が三本公開されいずれもヒットする。それは『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』『風の谷のナウシカ』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』である。この年に「おたく」は勢いよく誕生したと言われている。

 吉本たいまつ著『おたくの起源』によれば、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は、ラムちゃんの夢の中である学園祭という非日常に閉じられた物語だが、その設定そのものが「おたく」の理想なのだという。「おたく」はラムちゃんの夢の中に理想的世界を見たのである。そして『風の谷のナウシカ』の清楚で胸の大きい美少女の異様なほどの戦闘能力に「おたく」は狂喜した。『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』は、宇宙戦艦、アイドル、モビルスーツ、ラブコメといった「おたく」の好きなアイテムがごった煮になったアニメである。

 私は『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』は見ていなかったので、先週見たのだが、けっこう感動した。自分も「おたく」に近いことを確認したのである。このアニメの面白いのは、サブカルチャーが人類を救うというメッセージが巧みに組み込まれているところである。人類を巨人族が攻撃するが、巨人族にはコンプレックスがあって、それはプロトカルチャーを持たないことだ。このプロトカルチャーはどうやらサブカルチャーのことらしく、物語では、ミンメイというアイドルが歌う歌がそのカルチャーを象徴している。

 ミンメイが歌を歌うと巨人族の戦闘意欲は消えてしまうのである。最後、人類は巨人族の総攻撃を受ける。そのとき、古代都市の廃墟から発見された、十数万年前に流行したというある歌をミンメイが歌う。その歌によって人類は救われるのである。その歌は、このアニメの主題歌『愛・おぼえていますか』であり、飯島真理が歌って1984年のオリコンチャートの7位になったほどヒットした。つまりこの歌が十数万年後に人類を救うという巧みな設定になっているというわけである。

 バブルの時代、サブカルチャーは勢いがあった。この三作品はその勢いをよく伝えている。このサブカルチャーを牽引したのは「おたく」である。今や「おたく」も「萌え」も世界に拡散し、この三作品は世界を制覇したと言ってもいいのかも知れない。押井守も宮崎駿も世界ではすでにアニメの巨匠である。

 80年代以降、「新世紀エヴァンゲリオン」や「ほしの声」などのアニメになってだんだんとアニメの物語がおかしくなる。発達障害の少年少女が戦争を強いられ、美少女を無理矢理戦闘機械に仕立てていく。「おたく」の夢がたくさん詰まった80年代のアニメが懐かしくなるほどである。

 ただ、宮崎駿がすごいのは、この80年代のアニメの勢いをその後ずっとその物語性において失っていないことである。押井守が「スカイクロラ」で物語をあきらめてしまったのと対照的である。宮崎駿はなかなかの物語作家なのだとあらためて感心するのである。

                         躑躅の勢いがおさまりつつ午後

アスカに振られないシンジ2011/05/23 23:18

 先週土曜は勤め先の校舎で研究会、その前の金曜はやはり学会の委員会が夕方あったのだが、さすがに疲れてキャンセルした。某大学の大学院の授業を終えたから都心に出なくてはならないので、いつものように勤め先からなら寄れるが、さすがに郊外からでは行く気になれなかった。何せ、某大学の駅から電車に乗り、わが家のある成城学園前を通って都心に出るのである。駅で降りてわが家に帰った。

 大学院の方は、去年まで在籍していた学生が(めでたく博士号を取得した)今度から聴講に来るという。これで二人になったというわけだ。うれしいようなうれしくないようなというところである。二人だとそれなりに気楽さがなくなる。一人だから手を抜いているわけではないが、やはり一人だと教える方も相手と話し合いながら融通が利いて楽は楽なのだ。二人だと、二人との相談になるから融通さが二分の一になる。そのぶん気楽さも少なくなるというわけだ。

 今週の「アニメの物語学」は「新世紀エヴァンゲリオン」である。1995年放映だが、この作品は見ている学生も多い。このアニメは、神学的な壮大なストーリー(大きな物語)と主人公の少年の自己承認をめぐる自問自答といった小さな物語とが同時進行し、結果、小さな物語に収斂されて終わる、という構造になっている。

 三つバージョンがあって、一つはTV版、二つ目はその翌年に公開された劇場版、そして2007年に公開された新劇場版である。決まって話題になるのは、TV版の終わり方で、主人公の碇シンジがカウンセリングを受けているかのような場面が長々と続く。自分はいったい何なんだと、自問自答しているのである。そして、自分はこのままでいいんだと納得し、登場人物たちから「おめでとう」と言われて終わるのである。大きな物語としては「人類補完計画」という、人類を一つの個体生物に融合し母体回帰させる試みが実現する。一方、碇シンジの補完計画という設定で小さな物語が語られたというわけだ。

 この終わり方がかなり批判され、監督は劇場版ではがらりと変えてきた。「人類補完計画」で人は滅び一つの生命体に融合する。アスカとシンジだけが融合を拒否し人として残る。ところが、シンジはアスカの首を絞めようとするが出来ない。涙を流して苦しむ。アスカをそれを見て一言「キモチワルイ」と言って物語が終わる。

 二つの終わりの場面を学生に見せたが、学生の感想は様々だ。それなりにはまって見ていた学生は、やはりTV版には批判的だった。が、劇場版を受け入れたかというとそうではない。はじめて見たという学生は、TV版の方がいいという。劇場版は気分良くない、と言う。っともな反応だろう。

 宇野常寛は、TV版は「自ら設定した自己像(自己愛)に、無条件で全承認が与えられる(母親的承認が与えられる)状態のことに他ならない」と述べ、劇場版は、「人は時に傷つけあいながらも他者と向き合って生きていくしかないのだ、というシビアだが前向きな現実認知に基づいた結末」として評価する。ところが、多くの「おたく」はこの結末を受け入れられなかった。

 そこで、「凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(たいていセカイの運命を背負っている)がいて、彼女はセカイの存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=セカイによって承認され、その自己愛が全肯定される」という物語を作り出すに至る。それが「セカイ系」だという。つまり、「セカイ系」のアニメの主人公である男の子とは、「エヴァンゲリオン」劇場版の最後で、アスカに振られないシンジの役どころなのだというのである。

 「セカイ系」を「エヴァンゲリオン」の劇場版の最後からの後退として批判する宇野常寛の論理はなかなか分かりやすい。私も納得してしまう。ただ、やはり、劇場版の終わり方は、宇野の言うような「人は時に傷つけあいながらも他者と生きていくしかないのだ」というのとは、違う気もするのだ。女子学生たちがいうように、シンジはキモチワルイのだ。シンジは前向きに生きて行けるんだろうか。二人残されたはいいが、アスカに介護されながら生きていくしかないんじゃないだろうかという気もする。新劇場版は、まだ最後のところまでは公開されていない。いったいどうなるんだろうか。

「キャラクター」と「キャラ」2011/05/27 10:29

 昨日は学科主催の非常勤講師との懇親会があった。学校での立食パーティで、学科としては始めての試みである。平日ということもあって、集まりはあまり良くはなかったが、良い会であったと思う。二次会にもつきあった。学科の新任の先生方と飲むのは初めてで、その意味では文字通り懇親会となった。

 今週は斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』『キャラクター精神分析』を読む。授業のための読書だが、やや泥縄式の勉強である。二冊ともラカンの概念を用いながらの分析なので、ラカンをきちんと読んでない私としては、やや読解についていけないところもあるが、まあそんなに難しく書かれている本でもないので、面白く読めた。

 精神科医というのは、患者を決して否定しない。それは強固な前提であろうが、その前提はここれらの本にも貫かれている。ただ、斎藤は決して「おたく」を病者として扱っていない。精神分析の興味深い対象として論じるだけなのであるが、精神科医の立場から「おたく」を擁護していく論理がなかなか面白かった。

 特に参考になったのは、キャラクターという感情移入対象像の評価であって、日本のアニメにおいては、これは隠喩ではなく換喩であるという。隠喩とは、対象の抽象的な特徴に注目し、換喩は対象に隣接する事物に注目する。「狐のようにずるがしこい」は隠喩であり、換喩は、アトムをあの独特の髪型でアトムそのものを指示するといったことである。その意味で、「キャラクター」は隠喩、「キャラ」は換喩であるという。

 キャラクターは、それが属する世界の中での固有性であり、その世界の中だけの存在であるが、「キャラ」はそれが属する世界を超えて「キャラ」であり続ける事が出来る。隠喩としての抽象性が曖昧であるからである。例えばデイズニーのミッキーマウスは「キャラクター」、サンリオのキティちゃんは「キャラ」である。キティちゃんに個性はない。どのように抽象化していいかわからない。だからカワイイのであるという。それは、対象自体が共感不可能なものであるからで、従って、こちら側の必要に応じて感情移入し得る対象になるからだというわけである。

 例えば、吉本の芸人は面白い「キャラクター」ではなく、感情移入しやすい「キャラ立ち」芸を目指している。彼らのギャグは、芸人の固有性を示さない。芸人の「キャラ」を明示するだけである。だから、どんなコントや芝居でも同じキャラが反復される。

 ここで問題なのは、学校のクラスで関係を構築するために「キャラ」を演じなければならないという今どこでも生じている問題である。キャラは個性ではない。その人を指示する曖昧なモノでしかない。しかし、いじられキャラというように関係の中で明確な役割分担が決まってしまう。当然キャラを演じることに疲れる子供達が出てくる。最近、そういう子供達が増えているのだという。

 さて、私の興味は、われわれがキャラクターではなく「キャラ」に「萌える」ことの意味である。例えばこれを感情移入する側の問題として捉えるなら、隠喩としての「キャラクター」は、真の主体というものを想定せざるをえなくなる。真の主体があってこそ「らしさ」という抽象性が取り出せるからだ。ということは、感情移入する側はそこに唯一の自己の影をみるように導かれるだろう。したがって、この手の作品は、多かれ少なかれ、主人公は善であることが多い。

 換喩には、その主体がない。何故ならモノだからだ。ある世界があって、その世界の中に存在する必然性を帯びない。とすれば、感情移入する側は、その世界に縛られることはにない。一度感情移入し、飽きれば、あるいはやばくなれば、別の世界でのその「キャラ」に感情移入すればよい。これが「キャラ」に対する関係の取り方であり、「おたく」のアニメの「キャラ」に対する関係の取り方だという。

 斎藤は、これを解離性障害の比喩で語る。解離性障害は、防衛機制が過剰に働いて別の人格に避難することだが、これと似ているという。つまり、メディア等を通して共同化された「キャラ」に感情移入する行為そのものが、解離的であるということだ。ただ、病でないのは、それが自覚的に行われているからだという。日常と「キャラ」の世界との自在な往復を愉しむ、それは一見解離性障害のように見える、が、病ではない、というのが「おたく」なのだというのである。つまり、虚構の主人公に、唯一の自己を求めたりはしない。が、その世界に日常の現実の時間を遙かに超えて浸る、という異例なバランス取り方が出来る人たちということになろうか。

梅雨の卒業式2011/05/30 00:17

 今日は卒業記念式典。つまり二ヶ月遅れの卒業式である。だが、台風による大雨。どうも卒業生達は祟られているのか。でも、袴を着たたくさんの卒業生が集まった。全員ではないけれど、よく集まった方だと思う。良い卒業式であった。季節外れの袴姿ではあったが、みんなうれしそうなので、こちらも楽しくなった。

 さすがに、社会人になってもまれて顔つきが学生の時とは違っている。やはり、社会にでることは大変なことなのだなと彼女たちの顔を見て思った。夕方から学科の歓送迎会をかねた懇親会。実はこれも二ヶ月遅れである。

 土曜は雑務で出校だったので、今週も休みなしである。帰ってから明日の準備。明日からまた授業なのだ。

 卒業生達への教員のスピーチでも放射能の事が話題になった。確かに、困った問題である。早く解決して欲しいが、長期化しそうだ。当初はこれほどひどくはならないだろうと思っていた。たぶん多くがそう思ったに違いないが、そうでもなかったということだ。それにしても、東電の組織体質はあまりにもひどい。こういう会社は早く解散させた方がよい。少なくとも、原発を管理運営する資格がないことはあきらかだ。当初、私は原発は安全をきちんと確保した上で維持するのもやむを得ないと考えていたが、結局、原発を運営する能力が日本の電力会社にも国家にもない、ということがわかってくると、日本では、当面、原発を縮小し、再生可能代替エネルギーにシフトしていくしかないなと考えるようになった。

 ただ、原発について人間が手を触れてはいけないものだというような、今の反原発の主張はあまり好きではない。原子力を神の領域を犯したというような、プロメテウスの火のように見なすのは、原子力の神話化であって、問題がある。原子力は果たして食べてはいけない禁断の実なのだろうか。

 原子力は、快適な生活を追求する人間の欲望の象徴であろう。人間はこの欲望を肯定することで、文明を作ってきた。産業革命以降、この欲望を中産階級としての市民が追求できるようになったとき、近代社会が成立したのだ。この欲望を独占する支配階級との戦いが革命でもあった。

 と考えたとき、欲望とは現在のわたしたちの精神の自由を確保した動力の一つである。が、この欲望は一方で、原発などのかなりなリスクを伴う文明を生み出した。原子力の文明への使用が禁断の実を食べたことだとすれば、すでに人間が欲望をもった時点で禁断の実を食べていたのである。だから、これは人間の業のようなものである。人間は矛盾に満ちた存在なのだ。

 そのように考えた場合、原発は人間の業そのものである。その意味で、否定したり抑圧することは困難である。というより無理である。だからこそ、否定し抑圧する論理は、神学的にならざるを得ない。仮に、国家がこの否定と抑圧の論理を行使すれば、ファシズムになる。

 人間の欲望は、否定と抑圧ではなく、うまくコントロールしながらその暴走を抑えていく、というのが賢明なやり方であろう。その意味で、原発は、コントロールする対象として冷静に対処していくべきだろう。神の領域に追いやって、触れてはならないものとしてタブー化すべきではない。矛盾に満ちた人間は、必ずタブーを破るし、独裁国家が、逆に、神秘化された原子力を恫喝の武器とする懸念もある。

 大事なのは冷静さなのだと思う。どこまでがコントロール出来る限度なのか、その判断を客観的に下すことや、事故が起こり得るとして被害を食い止め得る対策、放射能の除去等の技術開発などをすすめながら、想定されるリスクに耐え得ないなら、作ってはならないということである。

 今の日本の原発が、冷静に考えた場合のリスク計算に耐えうるものなのかどうか、何の材料も持っていないので何も言えない。しかし、確かなのは、福島の原発事故の対応でわかったように、今の日本の電力会社や国家の官僚組織は、信頼できないということである。これだけでも相当なリスクである。一挙に原発をなくすのは非現実的だとしても、縮小していくのは現実的な選択ということではないか。

梅雨の日の邂逅 久しぶりだね